学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

横文字

「横文字の案内、なぜ何もかも」(朝日新聞、投書、20170529)を読んだ。

バスの案内を指して、「ノンステップバス」では「ノンストップバス」との違いがわからず、年長者にわかりにくい、横文字の濫用を控えるべきでは、「ここは日本です」と締めくくっている。

言葉も常に変化しているので、この投書主のように言われても仕方ないのだけれど、そのこととは別に。勇み足というか、紋切り型な書きぶりを感じるので、より生産的な投書になってほしい(編集者も採用の際に留意してほしい)と以下を述べる。

①見出しは「案内」となっているが、この主は、「アナウンス」と横文字を記している。自身が外来語を用いているのに、バスの案内はいかがなものか、と苦言を呈するバランス感覚はまずいのではないか。

②「ノンステップバス」は和製英語だから、日本語である。こんなことは、ちょっと調べればわかるだろうに、横文字は外来語と思い込んでしまい、しかもそれを公に語るのはよろしくないのではないか。

③「ノンストップバス」を言い換えるならば、「出入り口の段差をなくして、乗り降りをしやすくしたバス」という感じになるが、こんな長い説明をバスの案内に用いるのは実際的ではないだろう。どう改めたらいいかも合わせて示してもらえると嬉しい。

④そもそも、「バス」という言葉は来外語である。「日本語風」に言うならば、乗り合い自動車ということになるが、これまた長々しい名前ではないだろうか。導入当時、「バス」と聞いて違和感があったかもしれないが、長く使っていると馴染んでいくものなのだから、ノンステップバスも同じと考えてはどうだろうか。テレビやラジオと同じように。
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# by walk41 | 2017-05-29 08:00 | ことばのこと | Comments(0)

おこらず、おごらず

信州は駒ヶ根にある、薬草成分を抽出した飲料を製造している会社の工場を偶然に訪れた。予約が必要だったため、残念ながら工場見学はできなかったが、いくつかの資料を見せてもらうことができたのは良かった。

特段、この会社の製品に関係する訳ではないのだけれど、健康法に類する資料の説明に次の一文があったことが印象的だった。「おこらず、おごらず」。

怒ることが健康によろしくないことはもちろん、驕ることもまた同じという説明に、語呂合わせの良さ以上に納得するところがあった。学生にはよく話す。論文を書くには怒りが必要だけど、これは不健康なことでもある、と。

と、わかったようなことを他人様には伝えているのに、自分のことになるとさっぱり駄目だ。研究のこと以外でも怒りを抱くとき、これが不健康の元だとわかってはいないなあ、と。

嬉しいことは幸いと思うべきだろうが、感情の起伏の激しいこと、とりわけ怒りを経ることは著しく自身を消耗する。その時だけでなく、後々も結構ひきずる。しんどさが続く。だから、いたずらな怒りは実にもったいないことである。

この点で、感情のマネジメントとは、感情をいかに操作するかというだけでなく、感情という資源に対するコスト感覚をもって臨むべき、と考えられる。いつもできる自信はないけれど、効果的な資源の投下(と回収)が認知についてだけでなく、感情の面でもできるように努めたく思う。
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# by walk41 | 2017-05-28 22:18 | 身体 | Comments(0)

恥ずかしい

ある県で教員研修を担当し、自分が導いたデータ結果を示したのだが、終了後、どうも腑に落ちないなと元データを見直したら、エクセルに誤って入力していたことが判明した。つまり、間違ったデータを挙げていたのだ。

再度、計算をしなおしたところ、(自分で言っても仕方ないけれど)論旨を変えなければいけないほどの致命的な間違いはなかった。とは言うものの、修正の必要があることに変わりはなく、担当の指導主事にその旨と新たなデータ結果を送った次第だ。ああ恥ずかしい。修正されたデータが、研修に参加した人に学校ルートで届けられますように。申し訳ないこと、この上ない。

それなりに丁寧にデータを扱っているつもりだけれど、「新しい結果じゃないか」と小躍りしてしまうと、データ確認を怠ることを(またもか)学んだ。だから、複数でデータ確認をすることが大切とも改めて思わされた。とくに数量的データは一度、発表されると一人歩きする。関心を持つ人に、「へえ、そうなんだ」と思わせたいと「功名心」が頭をもたげると、ミスも起こりやすいだろう。

丁寧に、慎重に。今更こんなことを記すなんて、あんぽんたんだが、自戒としたい。
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# by walk41 | 2017-05-28 15:06 | 研究のこと | Comments(0)

教科書通りにはいかない

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教育史の教科書的には、1905年、日露戦争あたりで日本では義務教育学校への就学がほぼ果たされた、というのが一般的に理解だ。

けれど、写真のような「子守教育所」の様子(旧開智学校所蔵)からすれば、1910年頃に至ってなお、子どもが(たぶん自分のきょうだいではなく)赤ちゃんをおんぶし、試験まで子どもを抱きながら受けている、ということに驚かされる。この様子は、教科書でどのように説明されるだろうか。

これも学校就学というのなら、今のイメージとは大きく異なるだろう。一般化して理解する上で、個々のケースに即することは難しいが、そのための想像力はより必要だと思わされる。



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# by walk41 | 2017-05-26 21:18 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

やっぱり変わって来たんだね

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長野県松本市の旧開智学校にて、明治期の学校の挙手を説明するボードから。

今と比べると、手のひらを前にする、肘を直立させることが違うね。現在の多くは、手のひらを横に、肘は伸ばす、だと思うから。

これまた長い時間の中で、なぜかはともかくも変わって来たこと、だから、こうあるべきといま声高に言ったとしても、やがて変わって行くものなのだと諦める、踏まえることが大切だと気づける。



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# by walk41 | 2017-05-24 22:03 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

ゴミを拾う人

出勤途中に、ある男性を見た。その方は、金属バサミとコンビニ袋を携えて、信号を待ちながら、周りに捨てられている吸い殻等のゴミを拾っていらっしゃった。

驚いて車の窓を開け、お礼を述べた。歩行者用の信号が青に替わり、男性は歩き始めたが、その横断中にも金属バサミを伸ばしてはゴミを拾っておられるではないか。思わず、車に気をつけてくださいねと声をかけたら、男性は会釈をして歩いて行った。見ると次の信号でも同じことをされている。

格好から見て、散歩がてらのことのようだが、ゼッケンをつけたり、ハッピを来たりするわけでもなく、お一人で黙々となさっている姿に、感じるものがあった。

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# by walk41 | 2017-05-21 09:26 | Comments(0)

文字通り暴力的

仙台市の中学校での「いじめ自殺」に関連して、「授業の終わりのあいさつ時に生徒が寝ていたため、50代の男性教師が拳で後頭部をたたいた。1月には授業中に生徒が騒いだとして、50代の女性教諭が長さ15センチほどの粘着テープで口を10~15分程度塞いだという。」(朝日新聞、20170520)と報じられている。

二人の教諭、いずれも50歳代のおそらく大ベテランが、学校教育法違反でもある行為をなぜしたのかについては、また伝えられるかもしれないけれど、このことに、学校教育の暴力的な性格が現れていると思う。

なぜなら、終わりのあいさつ時や授業中の「望ましい」振る舞いが予めつもりされ、それに沿わないと、たたくや口を塞ぐという有形力の行使つまり暴力を振るうことが、疑問視されないからだ。

疑問視する? なぜ? 当然のことでしょう、と思う方に尋ねたい。ある会社の終業のあいさつ時に、そこに見学に来ていた、あるいはたまたま傍にいた人が、そこで寝ていたからと言って、たたかれることがあるだろうか。あるいは、公開授業を見に来ていた人が騒いだ場合、その人の口を塞ぐだろうか。いずれも「困ってます」オーラを出して出てくれることを祈るか、それではことが進まない場合は、そこからご退席を願うかだろう。相手にそこに留まることを求めるための暴力を振るうことはない。

それは、生徒かどうかの違いでしょうと、きっと返事が返ってくるよね。その通り。仙台のケースは、名目上は生徒だったけれど、実質的にそうだった訳ではない。その生徒にとって、終わりのあいさつや授業は、学校側からの押しつけに過ぎず、自分が関わるべき場とは考えられていなかったから、それ以上に意味のある行為として、寝る、騒ぐ(何をしたのだろうか)を選んだということ。こう見れば、生徒の行動はまったく合理的である。

「自分が関わろうという気持ちにならなかったのは、生徒の問題でしょう」と重ねて尋ねる人がいれば、答えよう。気持ちという内的な事柄を含めて、人を操作しようとする発想そのものが暴力的だということ。その是非はここでは問わないけれど、「相手が嫌だと思っても、起こす、静かにさせる」ことが当然のことと扱われることが、まさに暴力的ということだ。大人相手だったら、そんな失礼なことまあしないでしょう。

保護者に対する義務教育であっても、実際には児童・生徒が学校に来なければならない義務教育段階では、児童や生徒になりたいかどうかが本人に確かめられることもなく、いわば突然にあるクラスに放り込まれ、見知らぬ人から授業を受ける。それが、何となくではあれ、自然に近いような感じで進めば幸いなのだけど、いつもそうなる訳ではない。

この点で、望ましい教育とは巧妙に隠された暴力を通じて、社会的に期待されていな知識、技術、態度を養うように方向づけすることである。暴力性が露骨にならないような配慮や仕掛けがいかに用意できるか。それが、学校や教員の「専門性」の内実ではないだろうか。
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# by walk41 | 2017-05-21 07:31 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「内職」テロリズム

大人数の講義にて、4人を単位にグループを組み、毎回の授業レジュメをもとに、発問を通じた授業者と学生、あるいはグループ内の学生を中心とした話し合い、あるいはミニワークのコメント交換といったことをしている。

けれど、そんな忙しい授業の中でも、いわゆる内職をする学生がたまにいる。当該授業の課題が多いためだろうか。そんな学生がいるなあと、グループで話をしている際、教室を回って気づけば、やんわりと指摘するのだが、今回は少し違った。咎められたことを恥じるどころか、申し訳なさそうな顔もせず、言われたことに対する不満を満面に浮かべたのであった(そもそも、非礼なことをしている点で受講資格なしということを、まったく了解していないのだ)。

しかもその後も、ふくれっ面の調子が続くと、ひ弱な授業者は影響を受けるので、話す調子も狂ってくる。そのことにどれくらいの学生が気づいたことだろうか。

アルバイトのおふざけで店が閉店に追い込まれる「バイトテロ」に擬えれば、この場合は「『内職』テロ」である。学生としての振る舞いをまだ学んでいないのに学生然とすると、こういうことが起こりうる。

その学生にもきっと言い分があるのだろう。他の授業でこうしても何も言われないのに、なぜこの授業では注意されなければならないのだ。心外だと。残念ながら、この手はお呼びではない。まだ学ぶ準備が整っていないのだから。

この立論がおかしいという人は、どこからでもいいから、別のことをやりながら、授業で懸命に考えるべき課題にしっかりと臨める、という人を連れて来てほしい。稀に見る秀才ならば、授業に来なくても認めるが、私を含め圧倒的多数は凡人のはずだ。それが地道に悩まずして何が学生だというのか。不貞腐れる暇などないよ。顔を洗って出直しなさい。

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# by walk41 | 2017-05-16 15:45 | 大学のこと | Comments(0)

より分析的でありたい

日本教育新聞の記事(20170424)を読む。現職教員経験者で、今は大学に籍を置く御仁が一文を寄せているが、いたく脱力した。

曰く、「授業に遅れまいと急ぎ足で教室に向かう一人の生徒が、廊下の掲示物の一端の剥がれに気づき、ちゅうちょなく立ち止まり、掲示物を整えてまた足早で立ち去る光景を目にした。… こうした生徒の姿が自らも含め現職教員の指導によって結実した姿と見なすのは浅薄である。これまで本校に務めた多くの前任者たちや巣立っていった生徒たちが創り出した文化や伝統、保護者からの薫陶… いずれにしても、人類の長い歴史の中でたゆみなく培われてきた人としての営みが、たった一人の掛け替えのないアイデンティティ-を育て、たった一人の行為として表出し…」

これを打っていて嫌になってきた。いい加減にしてもらいたい。しかも大学教員の名前でこんな酷い文章を記すなんて。

・生徒が廊下の掲示物の剥がれをなおした。これはなぜか。⇒人類が連綿と築いてきた行為の結果だ。

大の大人が、このあまりに素朴な(考察の欠けた)記述をすることに疑問を抱かないという「学力」に驚かされる。ましてや一応、教員である。

こんな思い込み、自身の信念の吐露に貴重な字数をつかわずに、読者の視野が広がるように書いてはどうだろうか。

・生徒が掲示物の剥がれをなおした。これはなぜか。
①筆者は誰も見ていないのに、と思ったかも知れないけれど、実は生徒は見られていることに気づいていた。だから「いい子」を演じた。
②小さなことがとても気になる生徒で、剥がれているのを放置できなかった。生徒は自分でもこの細かさ(気にしい)に辟易している。
③足早な一方、教室に向かうのが嫌だった。「剥がれをなおしていた」と教室の教員に言えば、多少遅れても認められると踏んだ(合理化)。
④学校を綺麗にしましょう、という呼びかけに素直に(なぜかわからないけれど、そうなんだと思考停止して)応じた。
⑤剥がれている掲示物を、これでは可哀想と思った。

…といくつか可能性が挙げられるから、これらを通じて、生徒を理解する姿勢が大切と述べるのはどうだろうか。

ところが、何でもかんでも教育のおかげ(学習のおかげではなく)と教育を祭り上げる、教育主義者にかかれば、冒頭のような文章になる。この御仁は、大学がどういう場なのかご存じなのだろうか。

私の知る、いわゆる文系学問の場合、大学では既存の理解を疑い、分解して新しい組み合わせができないかを試みてみる、思考実験そして部分的に現実的な実験を行うことが基本的な課題である。

この方向とまったく反対な文面が、とくに大学人の肩書きを伴って紙上を踊ることを、まことに嘆かわしく思う。残念である。
 
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# by walk41 | 2017-05-14 09:57 | ことばのこと | Comments(0)

無駄

ふと思いました。駄話というように、駄とはどうでもいいこと、の意味で遣われているのに、その駄がないこと、つまり無駄も同じような、無意味の意味で用いられるのはなぜだろうと。駄と無駄が同じ意味というのは、おかしいから。

無言:言葉のないこと、無理:理が通らないこと、の流れで考えれば、「無駄は、駄でないこと」になります。インターネット上などでは、駄)などと記して、無駄話の意味で記されてもいますが、そこで一歩踏み込めば、駄って、元々はそういう意味でなかったのではと考えるきっかけになるでしょう。

調べて知ったことですが、駄とは馬や牛に関わることばだそうです。だから、馬という漢字が入っているのですね。知らなかったなあ。

ことばは日々移り変わるものだけれど、だからこそ、どんな風に変わってきたのかを知ること(これも推測に過ぎない面はあるけれど)を含めて、言語の相対性を合わせて学びたいなと思います。「正しい言葉」とか「正しい表現」などという言い方を避けつつね。
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# by walk41 | 2017-05-13 22:23 | ことばのこと | Comments(0)

微妙?

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いかがですか、このポスター。
私はかなり微妙な、つまり、よくわからないなあと思うのですが。
洒落たメッセージって難しいですね。

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# by walk41 | 2017-05-12 17:08 | ことばのこと | Comments(0)

夏に向かって

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駅に向かう道に咲いていました。
気がつけば、ツツジも最盛期を終えつつあります。
みなさん、お元気に過ごされているでしょうか。

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# by walk41 | 2017-05-12 14:36 | Comments(0)

「不毛な議論」

ある研修会に参加した。そこで講師として登壇した現職教員の話の中に、「不毛な議論をやめるべき」という台詞のあったことを、不思議に思ったのだ。

だって、不毛な議論、つまり解決がなかなかできない話というのは、大方の事実であり、それを不毛と思ってもそう思わなくても、実際にそうなのだから、受け止めるしかない、という考えがそこには伺われなかったから。

たとえば、自然科学の分野で見られる例を挙げる。土中のアリの巣を観察しようとすれば、土を掘らなければならないが、掘って巣に着いた瞬間に見られるその様子は、本来の巣の姿と大きく違うはずだ。ここに、観察しようとすることと観察できることとのギャップや矛盾、つまり解決できない問題の見られることがわかる。けれど、これは好むと好まざるとに関わらず事実であって、解決のできない不毛な話を止めようという話ではない。解決できないのである。

この点で、先のエピソードは、事実と当為(そうあることと、そうあるべきと思うこと}の違いをつけた話になっていない。これは知らず識らずのうちだろうが、論理的ミスだ。

他にもたとえば、商品の価値と需要はかなりの部分、相反するが、これを指して相反してはいけない、価格も需要も追及すべきだというのは乱暴である。あるいは、女性の学歴と出産数はおおよそ相反するが、これを指して(少なくとも今のところは)学歴も出産も二兎を追え、というのは無理というものだろう。

「青年の主張」大会ならば、当為論だけでいいけれど、議論が社会性を保つためには、事実がどうであるか、存在論を軸にしなければならない。そうした議論の作法が公共性を帯びるためにも、大学といった場所が必要なのだと思う。この点で、教養は、より多くの人々が分かり合い、全体として幸せな場を作り出すための、重要なツールとなる。

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# by walk41 | 2017-05-10 22:04 | ことばのこと | Comments(0)

びっくり

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きっと何か鍛えてはるんやろうけれど、片方の足をあそこまで曲げられるなんて。ちょっと試してみたけど、まあ無理やわ。駅のプラットホームにて。

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# by walk41 | 2017-05-08 12:07 | 身体 | Comments(0)

嬉しかったこと

京都から遠く離れたところで、時間があったので洒落た文具屋さんを覗く。「素敵なお店ですね」と店員さんと話をしていたら、後ろから「京都教育大学の先生ですよね」と声をかけられた。

驚いていると、「何度か話を聞かせてもらいました」と仰る。うかがうとこの3月まで小学校に勤めておられたという。「先生のお話は、あとでみんなともよく悩みましたけれど、楽しかったです」とも言って下さった。

思い出してもらえるくらいの時間は提供できたようで、まずはよかった。現実をどう変え得たかはわからないけれど。

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# by walk41 | 2017-05-08 11:32 | Comments(0)

肩書

九州で高校の先生たちと呑む。

当然のように学校の話になり、教務主任、進路主任と、「主任」を連発されるので、部長とは言わないんですかと尋ねると、ここでは主任と言いますね、と返された。

京都では義務教育の勢いで、高校についても「主任」と言うと、部長ですね、と直されることがあるのだけれど、ここではそうではないようだ。

そういえば、新潟県では職員室のことを教務室と呼ぶそうで、学校視察に訪れた他県の人が、教務室の札を見て、ここの教務主任はすごいですね、こんな大きな部屋をもらって、と呟いたとか。

はたまた思い出したけれど、学生のレポートの表紙に「榊原教諭」と書かれていて、やんわりと指摘したことがあったなあ。

たかが肩書き、されど肩書きということだろうね。



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# by walk41 | 2017-05-08 07:32 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「コップに水が半分」

ドイツ語版カレンダーの今日の言葉から。

薔薇に棘のあることを怒ってはいけない。棘に薔薇があることを喜びなさい。
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# by walk41 | 2017-05-05 07:30 | Comments(0)

萎縮することの怖さ

いくつになっても煩悩を断ち切れないというか、少し若い時のことを、ひょんなタイミングで思い出したりする。

当時、私は研究者としてスタートを切ったばかりで、その世界ではいわば一番弱い立場にあった。そんな状況で、普段から目を掛けてくださっていた別の大学の先生から、その時におられた海外の地に、夏休みだから遊びに来ないかと連絡を頂戴したのだ。それは嬉しいことだったが、その時の自分の立ち位置を考えて、つまり必要のない過度な萎縮をして、その話をお断りしていたところ、どこから聞きつけたか、「そちらに行くんだって」と職場の「上司」に咎められたのだ。

実際に行くつもりはなかったし、その旨を伝えたにもかかわらず、「そうは言っても行くんだろう」などと、ほとんど査問あるいはいじめのような言葉を浴びせられた。重ねて否定していたものの話が終わらず、最後に「誰がそんなことを話しているのですか」と返したところ、「君に言う必要はない」とキレられた。これが当時、60歳間近だった旧帝国大学教授の振る舞いである。なんと情けないことだったか。

ずっと後になって思えば、休暇の時にどこに行こうが、何をしようが、関知してはならない、ましてやそれに意見してもいけないことは、近代的な任用・雇用関係の原則だ。だから、こうした某教授の振る舞いがそもそも許されるはずもない(残念ながら、当時は、パワハラという言葉がなかったのだ。くわえて、自分の頭の悪さも災いした)。ましてや、この御仁は当時、「子どもの教育を受ける権利」などとミニ「人権派」を気取っていたのだ。言っていることと実際にやっていることが、これだけ鮮やかに相反するとは、唱道していることの金メッキが剥げたと言うべきだろう。

こうした環境にあって、むしろ自分がいけないかのように思ってしまいかねない萎縮、自己規制という身体状況が生まれるのは、まったく怖ろしいことである。日頃、自分の身体は制御しているつもりだけれど、必ずしもそうではないと気づくべき点である。

だから重ねて思う。今や一番弱い立場からは離れてしまった自分が、後進や関係する人たちに不自由な思いをさせていないか、反論や批判のチャンネルをしっかり確保しているか、できるだけ自由闊達なやりとりができるように、つまり肉体的・精神的・社会的に健康な場を設けているだろうか。これらを常に自省したいと。
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# by walk41 | 2017-05-03 11:42 | 身体 | Comments(0)

カタカナのタフさ

先日、回転寿司屋さんで見たメニューに、野菜のavocado をアボガドと記していた。どこかで化けてしまうんだね。古くは、simulation をシュミレーションと書いた本もあった。「シミュ」よりも「シュミ」の方が日本語として馴染みやすいことから起こったんだろうなあ。

関西人はこの点で(も)タフかもしれない。フランス語のpratique絡みで、プラチックという言葉を引いたら、「関西では合成樹脂、プラスチックplasticsのことをそう呼ぶ」というページも出てきた。「そういえば、この言葉をそう聞いたことがあったなあ」とさらに引くと、プラチックという会社名も大阪にある。それ系の企業である。

日本発のカタカナが世界語になる場合もある。コスプレcostume play という日本語は、いまやcosplay という英語になった。不名誉なことながら、過労死はkaroshi でも通じるらしい。

かくして言葉は流転する。だから、「正しい言葉」「正しい日本語」はそもそも成り立たないということを踏まえて、言語教育に臨む必要がある。けれど、教えるという場面では「正しい」がどうしても必要になるようだ。「教師は正しくなければならない」「人として当たり前のこと」といった言葉が、無前提に飛び交うことを嘆かわしく思う。
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# by walk41 | 2017-05-01 10:53 | ことばのこと | Comments(0)

プラチック

P.ブルデューの紹介本を読んでいると、「プラチック」という言葉が出てくる。これは、実践pratiqueのフランス語で、英語ならpractice, ドイツ語ならPraxisとおおよそ理解すればよい言葉だと思う(その筋の専門家による「違うんだ!」という議論はさておき)。

なのに、プラチックという言葉に「神聖さ」を感じてしまうと、その言葉を遣うだけで精一杯になり、議論へと進みにくくなる。言葉に溺れるのだ。同じように、ハビトゥスhabitusはラテン語で、フランス語ならhabitude、英語ならhabitとなるから、習慣と理解すればまあいいんじゃないの。

日本語はカタカナにすることで外来語を多く吸収できるが、その分、濫発されることにもなる(外来語を漢字やひらがなにしようとすれば、既存のことばと衝突しやすいので、カタカナの場合よりも厳密に導入されるはずだ)。この結果、似たような単語がたくさんカタカナになる。混乱のもとである。

多くの人にわかってほしいと思うならば、わざわざプラクティスをプラチックと書かなくてもいいんじゃないかな。こんなことをしているから、難解で読み通せないということになる。それでいいなら構わないけれど、だったら本のタイトルももっと難解にしてほしい。『ピエール・ブルデューの世界』なんて敷居低く書いてあるから、ちょっとは読めるかなって買う人もいるんだから。
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# by walk41 | 2017-05-01 10:28 | ことばのこと | Comments(0)

教員の振る舞い

諏訪哲二『生徒たちには言えないこと-教師の矜持とは何か?』(中公新書ラクレ、2012)に、次の一文がある。

「教師は対生徒という『現実』のなかに生きている。そこでも言葉は多用されるが、言葉以上に目の動きや身体の動きや、ちょっとした生徒とのやりとりや会話、生徒への向き合い方、関係のつくり方が重要なのである。そういうとき、言葉では糊塗し切れない、その教師の本質が出てしまう。つまり、教師は生徒にさらされてしまう。いくら学校の事態をクールに把握していても、教師としてダメな人がいるし、ものすごく狭い人間観や社会観を持っていても、影響力絶大な人もいる。学校の『現実』とはそういうものである。認識がすぐれていることと教師としての『現実』がすぐれていることはつながらない」(34ページ)。

私の今の関心である、非言語の点について言えば、「学校で文書化、言語化されていない部分、されにくい部分については、教員の癖、好み、信念が発現しやすい」と、この文章は述べていると思う。

文書化されたものは建前として繰り返し現れるけれど(今なら、「主体的・対話的な深い学び」が一例だ)、これが児童・生徒に伝わるものではまずないだろう。そもそも教員にどのように伝わるのだろうか。まず、どれだけ学習指導要領を読んでも、伝達講習会に参加しても、最終的に具体化されるのは、教員の行為、振る舞いにおいてだから、そこに各教員による再構成が行われ、その際に「こういうものだろう」という感覚的、感性、情緒的なものが滑り込むから、どの教員も同じように捉える訳ではない。

つぎに、その教員が自身の身体を通じて、つまり、それぞれの身振り、手振り、目の動き、口調、動線、服装や身だしなみなどを通じて、教育行為という動作を表現するのだから、そのいかんは、まさに教員そのものとして、児童・生徒から見られることになる。

そこで、生徒たちに見透かされるような状態、たとえば、自分なりに十分には捉えておらず表層的だった場合、あるいは自分の好みや偏りをもって捉えている場合、全ての生徒によってではないだろうが、いずれもまさに晒されることになる。

この状況に教員は耐えられるだろうか。不安を感じる教員は、建前に終始して自分の本音を見せないように努める。あるいは、自信たっぷりな教員は、「それは違うだろう」という目線をものともせず、雄弁に振る舞う。いずれであれ、各教員の裁量に委ねられざるを得ない。

公教育の最前線で起こっているのは、このように個々に任された業務遂行であり、そこには本人も意識的ない部分を相当に含む。アテのないものだということ、そして、だからこそ、質保証や説明責任という言葉に脅かされて、基準化された官僚的な言動がより求められるようになっている、と導ける。
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# by walk41 | 2017-04-29 12:14 | 身体 | Comments(0)

面接と非言語

学生と非言語におけるメッセージ性について話をする。

そこでは、受信と発信のいずれについても、言語メッセージと比べて、①解釈の幅が広く、しかも時間的・空間的(時代的・地域的)にも異なる場合が多いこと、②その幅の広さは、相手の存在の有無(必ずしも、伝えたいメッセージとは限らない)にも該当すること、を述べた。が、この続きで、大学等の入試での面接の作法についてお喋りがあったのだ。

ある学生は、試験官(もう公務員ではないのに、なぜか「官」である。「スチュワーデス物語」(1983-84、TBS系列)の名残だろうか)のおでこを見て話をするようにと高校で指導を受けたといい、別の学生はしっかり相手の目を見てと、さらに別の学生は首の下辺りを見てと言われたと、バラバラである。

あるいは、試験室に入るときのノックの回数、入室するタイミング、荷物の置き方と、様々に高校で指導されてきたが、「あれって、結果に関係するんでしょうか」と学生に尋ねられる。「うーん、色々かも知れないけれど、直接は関係しないと言えるだろうね」と返すと、ちょっと不思議な顔をされた。そりゃそうだよね、非言語的にも好印象を得ようと頑張ったのに、関係ないなんて言われたら困るもの。

とまれ、大学にやってくるまでに、非言語的な経験を多くしている学生たち。それらを振り返りながら、教員としての言語的・非言語的なメッセージほか自身のそして他者の振る舞いについて考えること、ひいては「よりよい」マネジメントにつながるようになってほしいな。
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# by walk41 | 2017-04-28 00:06 | 身体 | Comments(0)

憲法の長さ

小熊英二「日本国憲法 改正されずにきた訳は」(朝日新聞、20170427)を読んだ。

憲法の特徴に言及しているが、その一つ、「実は日本国憲法は非常に短い。各国憲法を英訳した単語数を比較すると、日本国憲法はインド憲法の29分の1、ドイツ基本法の5分の1に満たず、世界平均の4分の1以下なのである」という指摘を面白く思った。

恥ずかしながら、憲法が長いのか短いのか、他国との比較を考えたことはなかったし、短いことで当然書かれる内容も限られるだろうことも想像しなかった。あんぽんたんである。

もちろん、長さだけで決まるものでもないけれど、形式が内容を規定する部分もある、ということを踏まえて憲法を考えてきたか、と尋ねられれば、「いやあ、実は…」。困ったものだ。

上のような事実をすらっと書けるように研究をすることが必要だし、そもそも何に着眼するのか、視野と焦点が問われる。反省しきりである。
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# by walk41 | 2017-04-27 08:16 | Comments(0)

教育内容の部分と全体

アクティブ・ラーニングに関わる話をうかがう。パフォーマンス課題について、さまざまな知識やスキルを総合して臨むような複雑な課題、と聴いた。

この分野の素人なので、勘違いしているのかもしれないけれど、これは部分と全体、あるいは具体と抽象に関するテーマなのかなと思う。

例として紹介されていた中学校社会科の課題:「時は1900年。あなたは明治時代の新聞社の社員たちであり、社会が大きく変化してきた明治維新を記念する社説を書くことになりました。社説は、同授業を生きる人々(政治家、産業界の人々、文化人、一般の人々)に向けた新聞社からのメッセージです。話し合いの内容や今までの学習を振り返り、今後の改革のあり方について重要だと思うことを提案してください。」

これに臨むには、1900年がどんな時代だったか、たとえば日清戦争と日露戦争の間、義務教育就学率が100%に近づきつつあったこと、社会主義協会が設立。国際的には、パリ万博、義和団の乱などを踏まえて論じなければならない。その時点から、明治維新について述べるのである。相当に難しいと思う。

ところで、複雑な問題に臨むには、個別の事実を知り、かつそれらをつなぎ合わせる筋道が必要だ。そこには解釈が不可欠で、そこに捉えようとする人による違いが生じる。現実はまさに複雑で、変化も一方向に生じる訳では必ずしもない。歴史家は起こったことを自分の筋道に合わせて述べることはできるが、これから何が起こるかを述べることはできない。あくまでも「後知恵」に留まる。

厳密には、一つの事実ですらどうであったのかが明らかではないのに、それらの組み合わせ-しかも、整合的とは限らない事実の-を求めることは、たとえば義務教育段階の児童・生徒にどれくらい可能だろうか。限られた事実をもとに、つたない筋道を述べて、わかった気になってしまいはしないだろうか。これらの検討もなされた上で提案されているとは思うけれど。

また、部分を強調すると全体は見えにくくなる。全体を見ようとすると部分はおざなりにならざるを得ない。部分と全体、具体と抽象の間をわれわれ大人の認識も揺れ動くけれど、経験がより限られる人の場合、鳥の目と虫の目の両方を求めることは、反って混乱を招かないだろうか。

これまでも、いわゆる発達段階に応じて、具体の抽象化と抽象の具体化は促されてきただろうし、物事がより「わかる」とは、ある事実や事象がそれだけでは完結せず、全体の一部、つまり部分でもあるのだと捉えることができる、あるいは全体だと思っていたことが、部分の集積でもあることに気づく、このように「分け方」が変わることでもある。

「総合」とは、多くの事実を要約しようとする発想ゆえの言葉であり、一つの架構に過ぎない、同様に「さまざまな」とは、一つの事実が何かの部分として見なすゆえの言葉である、と言うとき、パフォーマンスとはどういうことなのか。もっと考えてみたい。
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# by walk41 | 2017-04-25 11:49 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

花桃

恥ずかしながら知りませんでした。こんなきれいな花があるとは。

近所を歩いていたら、白とピンクの色が一つの花に混じって咲いているではありませんか。綺麗やなあと見ていたら、お家の方が教えてくれました。花桃というそうです。

風情も吹き飛んでしまいますが、教育のお喋りってともすれば、個人を一つのキャラクターで捉えようとしませんか。「彼は~な人だ」と。けれど、一つの花に二つの色合いが入り、しかもその出方が同じ木なのにさまざまだということを知ると、およそ一様なものとして人間のことも語れへんよなって思わされます。そんなん当たり前のことやん、と言われたら、仰る通りなんやけど。

とまれ、美しい花を見せてもらい、とてもほっこりしました。ありがとうございました。

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# by walk41 | 2017-04-22 16:42 | Comments(0)

給料泥棒

ある大学院生から聞いた(念のため、京都教育大学の学生ではない)。

ある授業で大学教員がこういう話をしたそうな。

「学生が授業を取りにくいようにと、原書講読にした。それでも英語ならばまだ取る学生がいると思ったので、ドイツ語にしたけれど、まだ授業を取る学生がいた。来年はラテン語にする。」

呆れる話である。何という体たらく、自分の専門を通じて学生を育てようとする意欲の欠落だろうか。こんな教員にも血税が遣われているという嘆くべき現実。まさに給料泥棒である。残念ながら、立場の弱い学生になす術はない。

大学も中期計画やあれこれの評価を通じて縛られるように、また色々と説明をしなければならなくなっている。けれど、授業は最終的に教員に大幅に委ねられている。だからこそ、とりわけ授業については、強い自律性を担保する必要があるが、それは各教員の良心、誠実さ、熱意に依っている。このことを繰り返し肝に銘じなければいけないと思う。

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# by walk41 | 2017-04-20 11:52 | 授業のこと | Comments(0)

深呼吸をしよう

怒りを抱えている人の身体は、固くこわばっている。腕を組み、目をキッと見開いて、足を踏ん張って、体中に力が入っている。

そんな時もあっていいけれど、あんまりやると身体が悲鳴をあげるよ。身体の力が抜けるように、深呼吸をしてみよう。腕を伸ばし大きく弧を描いて、肺に空気が入るのを感じてみよう。そうすれば、気持ちも少しは変わるんじゃないかな。

認知と感情が身体を形作ることもあるけれど、反対に身体が認知と感情に影響を及ぼすこともある。知らないうちに固まっている身体を解きほぐすこと、すると気持ちやものの見方が変わることを、私たちは既に経験しているのではないだろうか。

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# by walk41 | 2017-04-19 18:35 | 身体 | Comments(0)

全校集会での行動

同じ中学校でも、学校によって様々なことは、みなさんも経験ずみあるいはお聞き及びのことだろう。

この3月まで別の中学校におられ、4月の転任で学校を移った方と話す機会があり、とても面白い話に接した。その趣旨は、前の学校では勢い、生徒指導に力が入っており、いわゆる目力を使って生徒を威圧するような振る舞いをしていたけれど、新しい学校はそんな必要がない様子だ、と。

けれども、気がつけば、全校集会にて自分は生徒の列の前の方に位置して、生徒を見つめるようにしていた。これに対して、他の教員はむしろ後ろに立っていて、生徒の様子をさほど心配してないということが、大きく違うと思わされた、という内容だった。生徒に対してどこに自らを置くか、は決して一様ではないことは、人間の行動がすぐれて環境に左右されていることを示すものではないだろうか。

自身の振る舞いが、勤務する学校によって異なるということ、また、知らないうちに振る舞いがあるパターンを取る、つまり身体化されているということを、大変興味深く思ったのだ。
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# by walk41 | 2017-04-17 21:35 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

事務をつかさどる

このたび学校教育法の一部改正がなされ、第37条14項「事務職員は、事務に従事する」が、「事務をつかさどる」に変わる。その理由として、学校組織マネジメントを機能させるために、総務・財務の専門家である学校事務職員の役割を積極的に規定したことが、文部科学省事務次官名で説明されている。

さて、これからの学校事務職員はどのように変わるだろうか。一つは学校と教育委員会の関係、もう一つは、学校内の分掌のあり方が論点になる。まず前者は、各学校がどれほど経営主体としてありうるように行財政の仕組みが整えられるか、である。

各学校による人的・物的・財的条件の権限と責任をどこまで広げることができるか。たとえば、学校でスタッフを採用、雇用、離職させられるか、どこまで予算項目を減らして、各学校の裁量で購入、管理、処分できるか。これらが大きく広くなれば、事務量は激増する。内外への情報提供とその管理、法的適合性の担保、計画と判断、事後処理と構想、検討、決断もより必要になる。小中学校で一般的な一校一人体制ではきっと難しいだろう。すると、教員と事務職員とだけでなく、事務職員間、事務職員と保護者・地域住民等とのコミュニケーションのあり方も問われる。

こうした学校の経営環境をどのように設計するか、そもそもできるのか。各学校が担いうる経営条件、たとえば数年で替わってしまう校長が発揮しうるリーダーシップとは何か。また、50歳を越えて初めて校長という教職キャリアの設計は妥当か。あるいは、児童・生徒が基本的に徒歩で通学することを想定した学校配置で、ありうる学校規模はどの程度か。これらから、組織マネジメントを要する組織として学校を措定できるか、が導かれるだろう。

私の今の見立てでは、義務教育段階では各学校はそれほど大きくならないし、教職員の数も数十人までに留まる。くわえて、校長を始め教職員の学校間移動(転任)が定期的に行われ、学校としての蓄積が困難といった仕掛けが維持されるとすれば、各学校に求められる事務業務も大きく変わらないだろう。その上で、学校経営に参画する学校事務職員像をどのように描けばいいのか。これは学校事務職員に限らない、教職員にも同じように問われることである。

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# by walk41 | 2017-04-17 09:27 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

コストだけを考えるわけではないという難しさ

中島隆信『子どもをナメるな-賢い消費者をつくる教育』(ちくま新書、2007)を斜め読みした。「モラルを損得で教える」ほか、経済活動としても世の中が成り立っていることを伝えながら、情報の収集と判断に優れた人間を育てることが、よりよい社会を作ることにつながると論じている。

設定した枠の中で選択させるという方法(制約付き最大化)が、より意欲を高めるというのは説得的だが、いじめに関する指導を損得で、すなわちコストがかかりすぎて不経済と教えればよい、という説明はいただけない。なぜなら、そこでは①子どもが学級あるいは学校という場を離脱不可能と捉えるか否か、②人間は非合理的な行動をまま取るのではないか、の吟味を経ずに話が進められているからだ。

まず①について、子どもが、その学級で生きていくことが不可欠で、それ以外の場はないと観念するとする。そうなると、いじめをすることが「居心地の悪さ」(p.83)につながるという教えは意味を持つかもしれない。けれど、まあ一年くらいのつきあい、あるいはたとえ同じ学級にいても(利害)関係の薄い奴と思えば、いじめは横行する。

大人だって同じだろう、一つしかない地球に住んでいて爆弾をぶっ放すなど最大の環境破壊なのに、「自国を守るため」には仕方ない選択だと、いまアメリカ合州国と北朝鮮がにらみ合っているではないか。ごみの分別ルールを守らなければ、回り回って市民税アップになるとわかっていても「まあいいかな」といい加減なことをしがちなのも同じである。全体で見れば自身の損になるのに、そう振る舞うわけではないという社会的ジレンマは、至る所で観察される。

もう一つ②については、コストよりも大切なものを人は掲げる場合もあるという点だ。名誉や伝統といったメンツはその最たるもので、こだわるほどに心象は肥大化される。過度なナショナリズムが愚かなのは明らかであるにもかかわらず、そのためには人を死に追いやっても責められないことも起こりうる。健康オタクが「健康のためには死んでもいい」と懸命にるならば、それは本末転倒だがそうした行為も散見される。

コスト意識を持たせて、それに準拠した行動を取ることの意義を述べるのは大切だが、それだけで行動するほど合理的でもないのが人間ということだろうか。
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# by walk41 | 2017-04-16 10:22 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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