何も申し上げることはありません、この状況でblogを書き、論文を書いています(T_T)。
![]() ねこフリークのみなさま、
拙宅に来て1ヶ月近くが経とうとしているのに、まだ他のねこに慣れたとはおよそ言えないMilkyを激写。でも、人間にはまあまあ適応してるんですが(^^;)。こんな顔もあるということでお見知りおきを<(_ _)> ![]() 研究のあり方について元気が出ないと綴っているけれど、おもしろい歴史研究の記事を読んだ。
西川祐子さんが始めた研究で、占領下(1945-52)の京都の暮らしを再現するというもの。進駐軍が150軒以上の個人住宅を接収し、地方司令部も置かれたが、明らかになっていないことも多いのだそう。 この期間の空白を埋めるきっかけとなったのが、「進駐軍自己見舞金支出負担行為書」。徒歩や自転車の市民に進駐軍兵士の車が衝突、後に支払われることになった見舞金の状況から、事故の場所や規模、酔っ払い運転までわかったのだという(以上、日本経済新聞、2012.5.26)。 意外なものから明らかになる研究には枚挙に暇がないが、一つ思い出したのは、文化人類学において調査先での資料をくるむために使われた19世紀の新聞が、当時を知る貴重な資料になったという話。まさに瓢箪から駒である。こうした研究は楽しい。 「役に立つ研究を」と気を張るから、つまらなくなるのかもしれないね。 名張毒ぶどう酒殺人事件の死刑囚が、人権団体が行っていた死刑制度廃止を求める署名を拒否し、恩赦を求める申請についても断っていたという(毎日新聞、2012.5.26)。
罪を犯した人ならば死刑になってもよい、恩赦は罪を犯した人が求めるもの、自分は罪を犯していないから、いずれにも与しないという立場とのこと、相当な矜持と思わされる。 何かの拍子で自分に都合良く解釈したり、行動したりとは、決してないとは言えないが(私だけ?)、生死の問題に迫られてもこうした姿勢を保てることに、敬意を表する。 まさか、個業的な色彩の強い教職において、自分勝手が先行しがちではないよね。臨機応変という名のルースな対応や、「~のため」という我が儘な解釈に陥らないよう、自戒したい。
読売新聞HPにある「発言小町」。レストランにて鞄を自分の横に置いていたが、席から離れて戻ってきたら、鞄に布がかけられていた。これは、私の鞄がみっともないから隠したということでしょうかと、投書があった。
コメントをくれた人はことごとく、料理のソースなどで鞄が汚れないようにするため、あるいは、忘れ物ではない旨を示す目印として、さらには、盗難に遭わないように隠してくれているのではと説明し、投稿主との捉え方の違いが大きくて、おもしろいなと思ったのだ。 理解できない状況に遭遇したとき、これまでの経験で作られた認識枠にもとづき、私たちは判断するが、その際、肯定的に事態を捉えるか、それとも否定的に見るかで、受け止め方にずいぶんと違いが生じる。 そして、事実がどうであるかを客観的に捉えることよりも、主観的な判断がどうであるかが、自身の気分や感情に影響を及ぼす点で意味を持つとすれば、人間やその社会を見る私たちの目(と脳)に求められるのは、正しいかどうかよりも、満足できるかどうかを軸に持つことではないか、とすら思われてくる。 「不正」や「非道」を見過ごしてはならない、これは正論である。と同時に、なぜそれが問題なのか、また改められるべきと考えるかについても考察のできる、思考のしなやかさが求められるのだろうな、と改めて感じた次第。 不思議だなあと思うのは、日本の初等・中等学校(小学校・中学校・高校・中等教育・特別支援)およそ37000校くらいの中で、人名が冠されている学校ってどれくらいあるかしらん。おそらく極々一部ではないかなあ。聞いたことないもんね、徳川小学校とか聖徳太子中学校とか…。
ところ変わってドイツでは、人名を記した学校は決して珍しくはありません。たとえば、もう15年以上も前、私が1年間お世話になったLudwigsburg という街には、現在、基礎学校が14校あるけれど、おそらく人名と思われる名前をつけているのは5校、3分の1以上ですね。同じく、実科学校は3校中2校、ギムナジウムは4校中4校、職業学校は5校中5校、が人名を冠する学校名。これらを合わせたら26分の16、結構な割合でしょう。 付けられる人名は、この街で生まれて活躍した人のほか、歴史的に著名な人の場合もよくあります。Ludwigsburg なら、Pestalozzi(ペスタロッチ)、Goethe(ゲーテ)、Moerike(詩人メーリケ)という学校ですね。 また、多くの街で見つけられる学校の名前は、Geschwister Scholl (Hans とSophieのショル兄妹)。1943年2月、ミュンヘン大学の学生だった2人は他の学生たちとともに、戦争反対とヒトラー打倒を呼びかける「白バラ」というビラを複数回まいて逮捕、死刑判決を受け、ギロチンにて処刑されました。ナチズムに対する抵抗のシンボル的存在です。 愛校心(さらには、愛国心?)の涵養をと叫ぶのであれば、こうした名前を戴くのも一案ではないでしょうか。 どこかで似たようなことを書いているかもしれないので、ご容赦のほどを。
酒井朗さんが一つ整理してくれているが、アメリカの教員が遣う、teach, instruct はこのあとに「何を」という目的語を伴うのに対して、日本の教員の指導という言葉は、目的語を伴わずに用いれがちだ。だから、何でも指導の対象になり、「指導する」という言葉すらある。 ここから、教員の仕事が無限定な日本と解釈ができるし、この他にも、学校教育法37条「教諭は児童の教育をつかさどる」くらいしか、教員の職務規程がないこと、これはドイツの教員と比べても一つの傾向と言える(榊原禎宏「学校経営における教諭の権限・責任の位置-ドイツの事例から-」『山梨大学教育人間科学部紀要』8/263-270,2007.3)。この傾向は、「教育は人格の完成をめざし…」(教育基本法1条)から規定されているとも言えるだろう。 こうした教育観は、教員の職務範囲を描かないだけでなく、学校生活(ときに学校外生活も)全般に教員の目を児童・生徒に届かせ、彼らの一挙手一投足を指導の対象にという可能性を高める。 このことの良さと拙さ、両面があるのだろうけれど、相手から必ずしも求められていないのに(ニーズがないのに)、「子どものため」と指導に勤しむ危険性は繰り返し確かめられるべきだろう。これは、教科指導と生徒指導の言葉の成り立ちの違いからも明らかだ。 つまり、教科指導の場合は、「教科を」「生徒に」指導するのだが、生徒指導の場合は「生徒を」指導する。前者は目的語が明らかだが、後者は生徒を生徒に指導?? と変な言葉になっているのだ。 目的語を伴うほかの言葉を考えれば、たとえば、「エベレスト登頂」はわかるが、「生徒登頂」はおかしいのと同じこと。 この場合、「生徒登頂」は、生徒が、という意味にならざるを得ない。そうか、じゃあ、「生徒指導」とは生徒が、何かを指導するって意味? 鈴木庸裕編『「ふくしま」の子どもたちとともに歩む スクールソーシャルワーカー』(ミネルヴァ書房、2012)を読み始めた。
その18ページに、ある少女のエピソードが記されている。避難所で小さな弟を抱く彼女の姿は反響を呼んだとのことだが、その親は憂さ晴らしのためにパチンコに出かけていたことを、周りの人間も、彼女じしんも知っていたということ、それが注目を浴びたことで、彼女の重荷に先々ならないだろうか、「支援を含め、人に働きかけることの持つ加害性は肝に銘じたい」と。 学校や教員という視点では気づきにくいんやなあ、人と関わりを持とうとすることが、害を加えることにもなりかねないということを。 相手を困らせようとしたり、ましてや傷付けたりしようなんてこと、みじんも考えてないからこそ、教育という仕事に就く人にわかってもらうのはやっかいだ。だって、自分は「ええことをしてる」と思いがちなのだから。 とことん悩ましい。教育-学習という関係において、相手の需要・必要(needs)をいかに待てば、あるいは捉えれば良いのか、また教育活動はそれとは別のことなのか否か。
人事考課に5段階の相対評価…大阪市で条例成立
大阪市議会は25日、市長が教育目標を決める「教育行政基本条例」と、職員の人事考課に相対評価を導入する「職員基本条例」を賛成多数で可決し、両条例が成立した。 教育行政基本条例は、市の教育目標を設定する「教育振興基本計画」の決定権を市長に与える内容。職員基本条例は、職員を5段階で相対評価したうえで、2年連続最下位ランクの職員は分限免職の対象とする。 一方、教育行政基本条例とセットで提案された学校運営の実務を定めた「市立学校活性化条例案」は、維新と公明の修正協議の折り合いがつかず、採決を見送った。7月の臨時議会で再び審議される。(2012年5月25日 読売新聞) -------- このところ、学校研究のあり方を考えているが、たとえばこのケース、「条例が必要だ」という議員が半数を超えたら制度化される。 これに対して、「研究」のできることが、 ①「新たに基本条例が成立し、教職員には相対評価が課されることになるが…」と官僚的説明をするか、 ②「教育の条理からいって、こんなことは許されない」と主張するか、 ③「この条例化が、学校の自主性という点でどのような意味を持つのか、今後の動向を注視する必要がある」と謎めいた言い方をするか、 という辺りなら、印刷する紙と読む時間のムダ、この上なしである。 それとも、 ①「かつてこうした規則があったが[フィクション!]、実効性をもたずに終わった」という歴史的研究か、 ②「ドイツではこうした規則は、まったく見られない」という国際研究か、 ③「この条例に通底する職員観は、マグレガーのXY理論ではX型、すなわち外的動機づけがなければ人は働かないというものだが、公務員を志望する多くが人々の為に働きたいと述べる状況に適っていない」と論理的齟齬を指摘するか、 という辺りならば、上の3つよりはだいぶんとマシかもしれない。 けれど、現実の妥当性を検証し、場合によっては「それはうまく行かない」と批判することは難しい(この条例は、今の新幹線を500キロ/時で走らせるみたいなものやから、転覆するやろって個人的には思うけれど、新幹線と違って測定も検証もなかなかできない。どれだけ「被害」が出たからといって損害賠償もまずできないだろう。過労死裁判くらいなのか)。 議会の構成を変えるのは政治活動、研究とはちゃうもんなあ。この頃、すっかり弱気なのだが、学校教育の研究ってどうしたらもっと元気が出るんかな。 まえがき
漢字の筆順については、書家の間に種々行われているものや、通俗的に行われているものなどがあって、同一文字についてもいくつかの筆順が行われている。このことが、そのまま学校教育にも行われているのが現状である。 これに加えて、昭和23年4月に当用漢字字体表が告示されるにおよび、新字体に基く筆順等もあって、小・中学校の現場におけるこの面の指導は、同一学校、同一学年においても必ずしも統一されているとは言えない。 このような指導上の不統一は、児童・生徒に対し筆順を軽視せしめる緒果となるのみならず、教師の漢字指導の効果や能率にも影響するところが大きいと思われる。 (後略) 1.本書のねらい 筆順とは文字の形を実際に紙の上に書き現わそうとするとき、一連の順序で点画が次第に現わされて一文字を形成していく順序であると言えよう。 (中略) 漢字の筆順の現状についてみると、書家の間に行われているものについても、通俗的に一般杜会に行われているものについても、同一文字に2種あるいは3種の筆順が行われている。特に楷書体の筆順について問題が多い。 このような現状から見て、学校教育における漢字指導の能率を高め、児童生徒が混乱なく漢字を習得するのに便ならしめるために、教育漢字についての筆順を、できるだけ統一する目的を以て本書を作成した。本書においてはとりあえず楷書体の筆順のみを掲げたが、楷書体の筆順がわかれば、行書体についても、おのずとそれが応用され得ると思われる。 もちろん、本書に示される筆順は、学習指導上に混乱を来たさないようにとの配慮から定められたものであって、そのことは、ここに取りあげなかった筆順についても、これを誤りとするものでもなく、また否定しようとするものでもない。 2.筆順指導の心がまえ 筆順指導は、本書において述べる筆順の原則の上に立って行われるようにしたい。そのことのためには、まず筆順の原則をじゅうぶんに理解させながら、書写指導を行うことが望ましい。 筆順指導に当っては、次に記す事項に留意して、その指導の徹底を期するようにしたい。 (1)筆順は、一応杜会的な習慣として成立している面もあるが、これに書写指導の教育的な観点も考え合わせて、一定の筆順によって指導することが望ましい。 (中略) (7)教師の板書は、つねに定められた筆順によって書くようにしたい。 以上、http://bird.zero.ad.jp/oikeshodo/shiryo19.htm より。 -------------- 小学校や国語の先生にとっては当たり前の知識なのだろうけれど、恥ずかしながら知りませんでした。「ここに取りあげなかった筆順についても、これを誤りとするものでもなく、また否定しようとするものでもない」とあるにも拘わらず、それまで原則が示されていなかったことの反動から、過度に厳しく「正しい」書き方が強調されたのですね。自分が小学生だった頃を思い出します。 学習指導要領のポリシーが時計の振り子のように揺れるとは、よく言われるけれど、その一つの具体、漢字の書き順についてもそうだったとは…。勉強になりました。 きのう、書き順の話をひつこく授業で話していたら、おもしろいことを聞いた。
日本では、右は「はらい」から、左は「横棒」からと教わるのだが、中国では、右も左も「横棒」からだと留学生が言うのだ。ええっ。 いまさらながらですが、書き順が違うことを扱ったページもありますね。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1138087736 別の授業では、書道をやっている学生から、続けて字を書く上での「れんめんせん」(連面線?)というものがあり、その関係から、書き順が決まっている場合もあると教えてもらった。なるほど~。 中国といっても広いから、一様とは限らないけれど、日本語の「漢字」のご先祖なのだから、傾聴に値すると思うし、また、日本のローカル・ルールと割り切っても、書道と硬筆では違うという理屈も可能だろう。 う~ん。そんなに順番って決めておくことが大切かなあ。もっと、その人の身体感覚に頼ればいいと思うのだけれど。書き順が決まってないからといって、たとえば、右を「口」の右横の棒から書く人はおそらくいないよね。だって、身体感覚に合ってないもん。頭でっかちなことは、あまりやらない方が良いかと。 前回、「こんなんでは研究といえへんやん」とケチをつけたので、「じゃあ、どんな研究ができんのん」という質問に答えなければならない。
私が考えられる、ありうる学校についての研究とは、 1.学校(教育)に関する「常識」あるいは支配的な言説に対して、「そんなこと、ないんとちゃう」と異議申し立てをするための材料を提供すること、これによって、ともすれば「こう考えなければいけない」「こうやらなければならない」と思いがちな、教職員ほか学校教育に関係する人々が、「そうばかり考えなくてもいいかな」と、少しは楽になれる、楽に仕事に臨めることを目指すもの。 2.つまり、学校教育の研究は、「~すれば、~になる」という方向よりも(そうした、開発的・試行的な研究も必要だし、ありうると思うけれど、それは特別の研究指定などによって、条件を統制されたもとでのみ可能で、一般的な議論向きではない)、現在の学校を、①時間的、②空間的、③論理的に異なる視点から分析、解剖、批判すること、あるいは消極的に提案するが、④現在えられる量的とくに人口的データをもとに、近未来を予測すること、である。 3.すなわち、過去の学校とその議論に遡り(①)、あるいは、外国や他地域の学校とその議論に依り(②)、さらには、観察を通じても得られたデータをもとに、異なる論理を立ててみる(③)ことで、いま当たり前に見えている学校が、別の時期には必ずしもそうではなかったり、別の場所ではけっこう違っていたり、別の理屈で考えれば違った姿を現す、ことを目指し、学校についての幅広い理解を促す(理解の裾野を広げる)ことを目標にする。なお、④については、たとえば10年後の評価を待つつもりで、現在のデータから提示することもできるが、この予測が妥当だったかどうか関心を持つ人がまず研究した本人だけなので、あまり意味はないと思う。 4.研究の領域としては、現在、毎日のように行われている学級、学年、学校での「朝の会」から、授業、休み時間、給食、掃除、クラブ・部活動など、あるいは、遠足ほか学校行事といった特別活動など、一年にわたる直接の教育活動にくわえて、教職員の会議、保護者・地域社会との関わり、教員評価や学校評価、さらには研究・研修など、さまざまなフィールドに及ぶ。フィールドは、研究したい人の興味・関心に応じて選べばよいが、いずれであれ、現在、それがいかに説明されているか、理解されているのかを起点に、観察と考察を行い、「そのように見る必要は必ずしもない」、そしてできれば、「新しくこのように捉えて、試しにやってみれば、よりよくできるのでは」と言えるようなデータを導くことができるならば、研究として意味がある。 この意味で、学校の研究は、何かを極める収束させる方向ではなく、「そうばかり考えなくてもええやん」という幅を広げる、拡散する方向でこそ意味を持つ。教育-学習は事実がなかなか目に見えないから、私たちの中で知らないうちにイメージが増幅され、特定の「観」が固定されがちだ。これに対して、時間的、空間的あるいは論理的に異なる視角を持つことができれば、より創造的な発想と実践が可能になる。 おおよそ以上のように考えているのだけれど、どうだろうか。近年の拙論でいえば、「授業中の『ペン回し』」、「子どもの呼称」、「新しい校内研究の提案」などは③に相当し、「ドイツにおける学校評価」、「ドイツにおける『健康な学校』論」などは②に当てはまる、①については絶えて久しくやっていないが、「ワイマール期の教員養成制度に関する議論」(修士論文)は、①と②を合わせた感じかな。④については、1990年代半ばから2000年にかけて、「教員需要の将来推計」、「学級編成基準の改変に伴う将来の学級数の予測」を試みたことがある。発表後に関心を持つ人はほとんどいないけれど。 最近はもっぱら③に即して、②をちょっと、という感じて臨んでいるところ。なお、「教員による『わいせつ』行為」の研究については、③につながる基礎的データの整理という段階だろうか。まだ十分に論じるには至っていない。 以上、恥ずかしげもなく、大風呂敷を広げました。みなさんからのご批判を受けたく思います。どうぞよろしくお願いします。
学部生への授業、現職教員の方を迎えた前回の振り返りをする。
私からの発題は2つ、一つは、生徒指導と「おせっかい」との違いをどう考えるか、もう一つは、書き順や記号の表記上の「正しい」ということをどのように捉えるか、だった。 感想文に「ようやく大学生らしくなってきたなあ」と嬉しく感じられたものがあったので、紹介したい。 「今までこの授業を通して当たり前になっていることに疑問をいだくことの必要性について学んできたが、今回、自分がどう思おうとも、それを教えなければならない場面のあることに気づいたし、そのとき、どうやって自分の中で腑に落ちるようにするか、考えを持たなければと」、「私はいつもこの授業で、自分の持っている"当たり前"を崩されていっているように思う。それは先生が(今日話をした)unlearnをさせようとして行っていることなのではないかと気づいた。…現職の先生たちの話を聞き、次の授業で先生が、その考えをゆさぶってくれることで、よい思考活動ができたと思う」、「やっと、答えを出せない、結論が出ないことに慣れてきたような気がした。…要するに、すべてを鵜呑みにするのではなく、このような考え方もあるのだ、自分はどうなのかを考える必要があると思った」 どうですか。この間まで高校生だった彼らが、6回目の授業にしてこんな風に書けることを自慢したいところです。 またも、論文の捏造が発覚した、
東邦大学医学部の元准教授(52)が、国内外の専門誌に発表した193本の論文に捏造の疑いがあることがわかった。元准教授が会員である日本麻酔科学会は調査特別委員会を設置、調査を進めている。これほど多数の論文について不正が疑われるのは極めて異例(2012年5月23日 読売新聞)という。 これが学問的な掟破りであること、社会的にも指弾されるべきことは論を待たないが、その上で、得られたデータの操作や、存在しなかったデータ捏造の行われることがあり、先々に発覚して問題、調査の行われる世界を、「ええなあ」とも思う。 ひるがえって、学校教育の「論文」と言われる世界は、こんな感じだ。 1.「新しい学習指導要領では、この点が眼目のひとつである」「中教審では、この辺りが強調されている」…これらは、ほとんどが活字になっているので、「首相が誰かと会った」というニュースとは違ってまず間違うことがなく、聞いて、読んで「そうやね」で終わるもの。これ自体が正しいことなのか、そうではないのかという議論の俎上に載るものではない。いわゆる官僚的な文言である。 2.「校内研修は、学校の課題に即して主題が立てられるべきである」、「管理職として、人材育成につながるリーダーシップが求められる」…これらは「べき論」と言われるもので、立場や趣味によっていろいろな意見が出るだけのもの。その多くは現在そうではないという理解のもとに、かくあるべきと主張や願望が示されるに過ぎず、これ自体を議論できない。「そう思てはるんですか」でおしまいである。 3.「学校運営協議会という仕組みが作られることにより、学校に対する監視機能が強まる」「成熟社会では、学校の自律性がいっそう問われる」…近未来予言のようなものであり、しかるべき時間が過ぎないと何ともいえないもの。現時点では確かめようがなく、たとえば10年後に「そうはならへんかったやん」と言えるが、そのとき当時の発言者は、おそらく黙りを決めるだけである。 議論すべきデータが存在するかどうかという点で見れば、 1では存在するが、それは始めから一回性(一度きり)のものであることを述べているから、データはあるけれど、分析したり予測するために扱うことができない。 2では、データが存在しないから、問題外である。「好きにゆうて」。 3では、予言者の言葉であり謎めいてはいるが、いまはデータがなく、どうしようもない。 これらいずれも、①いま存在するデータを、②ある方法で収拾し、③並び替え(分析し)、④ある傾向や特徴を見出す、⑤もって、先々の出来事を予測、さらにはそれに基づき操作しようとする、というルールの研究には、当てはまらない。つまり、自然科学を中心にした分野で定義される研究とは言えない。 だから、データの捏造云々については、1は捏造ではないけれど、議論できない点ではデータと言えない。2と3は捏造ではなく、主張や予言なので、「こんなデータは存在しない」「いや、こうして得られている」と議論できない。つまり、捏造疑惑そのものが起こらない。1~3のスタイルで、似たようなことが起こるとすれば、既に発表されているものを剽窃することくらいだろう。 じゃあ、どんな研究が学校教育あるいは教育の分野でできるの、って話は次にしたい。まずは、少なくない(多くの?)「学校研究」は、ちょっと怪しげってこと、を確認してもらえればと思う。 経済協力開発機構(OECD)による「幸福度」ランキング、日本は36カ国中21位と、昨日来、報じられているが、類似する調査はOECD自身によって他にも行われており、結果も違っているので、以下に紹介したい。
2011年10月に公表された「生活はどうか?幸福の測定」(How's life? Measuring well-being) (http://www.oecd.org/document/10/0,3746,en_2649_201185_48791306_1_1_1_1,00.html)によれば、「今日の気分はいかがですか」(How are you feeling today?)という質問に対して、41カ国中、肯定的な気分・感情(emotion)と答えた人の割合が85%くらいの日本は、デンマーク、アイスランドに次いで3位である。 ちなみに、上の報告では1位のオーストラリアは13位。下位5カ国には、トルコ、エストニア、ハンガリー、イタリア、イスラエルが並ぶ。 OECDのHPでは次のように概括されている。 「誰もが良い生活を望んでいる。しかし"良い、あるいはより良い生活"とは何か。このレポートは、人々の生活と幸福をもっとも形作る重要な点に注目している。すなわち、収入、仕事、住居、健康、ワークライフバランス、そして政治、環境、個人の安全と主観的な幸福感である。調査結果は、人々の物質的条件、生活の質を人口とクロスさせて見ることによって、OECD各国ほかの多様な姿を描き出している。本レポートは、幸福に関するさらなる情報を求める市民と、社会の進歩に関するより正確な情報を得たい政策立案者のニーズに応えるものとなっている。 本レポートは、過去15年間にわたり平均すれば幸福が改善されていることを明らかにしている。人々は豊かになり、雇用は増大している。人々はより改善された住居を楽しみ、より少ない大気汚染のもとにいる。人々の寿命は延び、より教育を受けている。人々が出会う犯罪は減少している。ただし、国の間の違いは大きい。さらにいくつかの人口グループ、とりわけ教育をあまり受けず、低所得の人々においては、幸福のすべての次元で恐怖が確実に増大する傾向にあることが、憂慮される。そうした人々は、たとえば寿命が短く、大きな健康問題を抱えている。彼らの子どもの学業成績は悪く、彼らの政治への参加は少ない。彼らはいざという時、弱い社会的ネットワークに頼るのみで、犯罪に遭いやすく汚染にさらされがちだ。より教育を受け、所得の高い人々と比べて、全体として彼らは人生にあまり満足していない」。 -------------- どうだろうか。世界規模で見た場合、何が日本の「問題」だろうか。またそれは教育、とくに学校教育に頼るべき社会的問題なのか、あるいは学校教育じたいの問題なのか、いずれであれ、それらはどのようなことなのだろうか。 分数の書き順はどれが正しい?
たとえば3分の2、この読みどおりならば、①3、②横棒、③2、という感じがする。 これに対して過日、大学に来て下さったベテラン教員は、①横棒、②3、③2、が正しいと話をされ、そう思っていなかった学生たちをいたく驚かせた。さらには、正しい書き順を身につけ、子どもたちにも示すことができるよう、励みたいという感想までも導いたのである。 気になったので、いくつかWebサイトを見てみたら、どうも一様ではないらしい。ある回答には、どれだけの数字が来るかわからないので、横棒は最後、とあった。なるほど~、合理的。 小学生には「これが正しい」と示す方が、彼らも落ち着いて学べるのかもしれないけれど、そもそも「正しい」なんてない、という選択肢をもっと考えてはどうだろうか。 どうして一つに決めなければならないのか、それは、いたずらに権威づけを図るだけではないか(「正しい先生はエライ」)と。 たとえば、横棒といま話しているもの、スラッシュ(斜め棒)でも構わないよね。この他、たとえば、ドイツならば、乗数(かける)は「・」、除数(わる)は「:」で表す。日本でいう、かける(×)はつかわないから、その書き順、右からかそれとも左からかなんて、最初から話題に上るはずもない。 自然科学の雄でもある数学ですら、こんないい加減である。なのに、「正しい」書き順って、そんなにいう必要があるのだろうか。
きょうの研究室ゼミ、卒論の構想が発表された。当該学生の問題関心はわかる、テーマに関するこの君なりの不満や怒り、悩みもわかるつもりだ。だけど、できるだけ「問題点」と題目にあらかじめ設定するのは、止めた方がいいと思う。
問題点という問いは、「かくあるべき」という前提が存在し、それに向かう社会的な承認と技術的な可能性が伴う場合に立てることができる。たとえば、「日本全国どこでも翌日配達」を目標にした、宅配便の祖、クロネコヤマトが全国でこのネットワークを、その完成まで取り組めたのは、この目標が社会的に意味あることであり、また、技術的に追求可能と判断されたゆえだろう。 これに対して学校教育の問いは、どうなれば目標達成かということが、そもそもない。「明るい子」「素直な子」はあまりに曖昧としても、「コミュニケーション力」「創造力」さらには「人間力」(すでに人間のわれわれに対して、あまりにも鈍感なネーミング。この言葉をつかおうと言った御仁の感性と学力を疑う)も同じようによくわからない。「よくわからない」ことを目標にするのは難しいので、高校あたりでは、大学進学、資格取得あるいは就職の数や内容を挙げがちだが、それですら、「それで良いといえるのか」と規範や価値への疑義は収まることがなく、いずれも「う~ん、そうやね」で終わりがちである。 つまり、学校教育に関する達成目標があるようでないような状況から、その研究においても、特定の価値やその実現形態を目指すことが難しく、常に「それは問題といえるの?」とか「違う点からみれば、良いことではないか」という意見を受けなければならなくなる。「これが問題点だ」と叫びたい学生にとっては、あまりに隔靴掻痒な状況である。 でも、それだからこそ、楽しく臨んでほしい。「こうあることが達成目標だ」と声高に言うことができない良さを確かめながら。私見ながら、学校教育の議論は、相対論、あるいは関係論として為されざるを得ない。なぜなら、ある現実を、まずつかまえる時点で不正確、つぎに、追求する目標も先々は心細い曖昧なもの、さらに、改変されたとしてもその効果や意味を定めることは容易ではないからだ。 だから学生のみんな、学校教育の領域で問いを立てる上で大切なのは、「こうすれば、こうなる」という方向を目指すことではなく、「こうすればこうなるという考え方は、何に依拠しているのだろうか、そうした見方だけで良いのだろうか」というメタ的な態度と能力である。これは、教員になってからも必須の力であり、ともすれば「こうしなければ」という自分から自らを解き放ってくれる。 そうした基礎トレーニングとして教職の学修、そして卒業論文に向かってほしい。まずは今日の発表、お疲れさま。 学部生向けの授業、ある感想文の要旨から。
ある授業の感想プリントに今日の班でのディベートが、①とても楽しかった、②楽しかった、③つまらなかった、④とてもつまらなかった、の欄に、③を選んだところ、「つまらなくしたのは誰ですか?」という、怒りともとれるコメントをもらった。また、「学校はなぜ…?」と書いたところ「あなたの考えを書きなさい」とコメントを受け取った。全ての先生がそうではないのだろうけれど、学校の先生は「マイノリティ」に対して厳しいなあ、と小・中学生の頃から感じている、と。 ----------- 振り返れば、教員は「正しさ」を体現するよう求められ続けてきた歴史がある。特に日本の場合、「人格の完成をめざして」(教育基本法)ということも相まって、正しい理解、正しい行為があり、その先導として位置づけられてきた(戦前、小学校の教諭の正式名称は、訓導であった)。 ところが、社会のmobility が高まり、職業、住居、人間関係が多様になる中で、何が正しいか、そうでないのかを簡単に断じることが難しくなり、さらには、そもそも「正しい」という想定じたいに疑問が投げかけられるに至っている。つまり、一方で、真理主義(真の改革、真の人生…)も見られるけれど、多くは、相対主義(そういう見方もある、相手は相手なりの認識枠組みがある…)で臨まなければ、にっちもさっちも行かないという状況だ。 世界規模で、衣食住の「最低ライン」を超えられるほどの豊かさを少なくない人々が享受できる現在、関心は、流行ファッションから「ロハス」まで、グルメから粗食まで、経済成長から「下山の思想」(五木寛之)まで多岐にわたっている。どれが「正しい」とは言い切れない。 こんな状況の中で、いわば一周遅れのランナーのような役が、学校や教員なのかもしれない。自らの正しさやもっともらしさを脱ぎ捨てなければならないのだが、なかなかそれには勇気がいる。また、既存の学校、カリキュラム、「雰囲気」、そのレトロさが教員と教員志望者を惹きつけてもいる。いろいろな批判はあるにせよ。教職は今も人気のある職業の一つと言ってよいだろう。 学校にどんな未来の社会像を見いだすことができるのか、大きな問いかと思う。 毎日新聞に掲載されている、西原理恵子さんのマンガ「まいにち母さん」(2012.5.6)に、小学校のクラスで、かわいい女の子の順に物が隠され、一向に隠されない娘さんはがっかりして…というシーンがあった。これを現職教員を含む学生たちに、すぐに生徒指導上の問題にするのは適切だろうか、と見せたところ、「まあ、珍しい話でしょう」と苦笑されたのだが。
------------ 神奈川県茅ケ崎市立小和田小学校で4年生の通知表などが紛失した事件で、茅ケ崎署は21日、同校の教諭(30)を公用文書等毀棄容疑で逮捕し、発表した。4年生の担任だった20代の男性教諭に好意を寄せており、「男性教諭を困らせたかった」と供述し、容疑を認めているという。 発表によると、同容疑者は3月10日、同小の校長室の金庫で保管していた4年生の通知表2通と35人分の算数の成績記録用紙を持ち出し、同月24日まで自宅などに隠した疑い(朝日新聞、2012.5.21)。 ---------- ほらね。好意を寄せる人のものを隠すのは、子どもだけじゃなくて、教員でもあるのよ。 和歌山県の高校には、学校の図書館に名前がついているということ、ご存じでしたか。小さなことかもしれないけれど、楽しい学校である上で大切なように思います。
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2時間の新任教頭研修、終わりに受講者が話してくれた感想だ。とても嬉しい。
寝る暇はおろか、考え、話し、聴き、書いて、立って、と忙しかったから、息つく間もままならなかったことだろう。 学校経営のテーマで、こうすべきという「答」を聞いて帰って、役に立つなどということはまずない。これまでを振り返り、囚われがちだった思考の幅をひろげ、もっと楽に仕事に臨んでもらうことができれば、十分に意味のある時間になるかと思う。 お金のことだけではない。目標を達成するために要する、時間、労力といった資源をどれだけ用意できるか、そのつもりがあるか、から、目標の実現可能性を考える。
いたって論理的と思われるのだけれど、なぜか学校ではめったと採用されない。「コミュニケーション能力の高い子」を実現するのに、どれほどの資源が要るのか、確保できるのかについて、ほとんど思慮されず、「教師の指導力」や「創意工夫」で達成できるかのように議論されるのだ。 もちろん、指導力や工夫もタダではない。教員に支払われる給与の適切さと関わっている。優先順位の高いほうから仕事に臨んでもらわなければ。紙と鉛筆から光熱水道代、バス代、講師謝金まで経費以外にも、実に多くの資源が投じられている。 こうした論理を含めないで「教育の論理」と言うだけでは、目標の実現はおぼつかない。資源の状況から、できそうなこと、難しそうなことを区別するのが第一歩だ。これなき議論や合意形成って、本当に目標を実現しようと思っているのん? 「宇宙人の指輪が落ちたみたい」と、金環日食を見た小学生。
こんな言葉は出てこないなあ。 『犬から見た世界』(白揚社)を読んでいる。
犬にも寄生するダニ、生まれつき盲目で、音も意に介さない、向けられる関心は、特定の匂いと暖かさなのだという。 こうした、それぞれの自己世界があること、ありうることを前提に他者を見るべき、と考えられるならば、学校においても子どもを理解するとは、何と難しいことか。 ヒトの点では同じでも、生まれ育った環境が大きく異なる彼らの自己世界とは、教職経験を積むほどに離れる可能性が高まる。ベテランほどわからなくなるとは、まったく逆説的なことと思われないだろうか。 ![]() 拙宅にやってきたMilky、半月以上が過ぎました。人間にはだいたい慣れたと思うけれど、先住民のネコたちには、相変わらずシャーシャーとガンを飛ばしています。まあ元気なので良しとしましょう。 学部1回生向けの授業で、現職教員を迎え、小・中学校の学級づくりと生徒指導についてお話をいただく。いずれも経験豊かな先生で、エピソードに事欠かず、わたしも楽しく聴かせてもらった。
授業中の様子や感想文から学生に好評だったことがわかり、学校の具体も知るというこの授業の目的が、彼らの興味・関心に即していたのは良かった。その上で、ふたつ、学生につもりしてほしいこともある。 その一、具体的な出来事を知れば知るほどに、「どのようにすれば上手くできるか」の答えにはたどり着かないことを確かめてほしい。うかがう話はあくまでも一例であり、そうしなければならない、というものでもない反面、こうすればよい、を教えてくれるものでもない。色々なご経験から、この辺りがポイントではないだろうかと、提案くださるものだ。これが正解という訳では必ずしもない。いずれも、長い教職生活を通じてそれぞれの先生なりに悩み、培われたものだからだ。教育実践に「賭ける」とは、勝てるとは限らず、負けることも往々を意味する。「にもかかわらず」臨もうとする姿勢から何を学ぶかが問われるだろう。 その二、すでに具体と抽象の思考の往復運動と話しているように、具体的であることは抽象的であることを排除するものでなく、具体的にそして抽象的に思考できる能力が大切になるから、具体例を聞いて、わかったつもりにならないこと、また、それを抽象化するという作業の労苦を厭わず、思考の幅を広げる訓練を積んでほしい。「わかりやすい」話は、これまでの自分の認識枠に近いためであり、それは別の発想を抑制するものでもある。多様な発想のできる主体でなければ、臨機応変にまた即興的な教育上の関わりに耐えることは難しい。「わかりにくい」話と向き合うことを通じて、自分の思考体力を養なうことが、長いだろう教職生活に備える基礎トレーニングだ。 とはいえ、ついこの間まで高校生だった君たち、大学に合格したらすぐに入学しなければならない、という今の仕組みは結構厳しいものがあるよね。土曜日というのに授業、お疲れさま。 ![]() この頃、よく訪れる大分駅ですが、コインロッカーまで楽しげでしょう。話したり、触れたりしなくても、人をそういう気持ちにさせる力に、感嘆します。 大変な作業になるのだろうなあ。一人ひとりの子どもを見て、書いて、考える、ってこと。
新刊案内に、中坪史典『子ども理解のメソドロジー』というタイトルを見つけた。目次だけ見ると、子ども理解の方法として、エピソード記述やエスノグラフィーなどが挙げられており、「見る‐書く‐考える、営みが子どもを見る目を鍛える」とあったので、なるほどと思わされたのだ。 この本は保育者向けのようだが、学校でも「みとる」という言い方で、子どもを捉えることが強調される。その具体は、まさに見て、記録して、反芻することなのかもしれないが、その内実はどのようなことだろうか。 子どもを見る、元気そう、落ち着きがない、反抗的…-教師が依拠する認識上の枠組みはどのようなものだろうか。 子どもを記録する、文字で、映像で、音声で、イラストで…一番多いのは、文字で言葉にすることだろう。そこで教師が持ち合わせるのは、もっぱら形容詞で、印象批評を超えるだろうか。また記録するのは、教師にとって印象的な場面だろうけれど、それは、その子のどの部分なのだろうか。 子どもを考える、どうしてあんなことをしたのだろう、なぜあんな態度をとるのだろう…-教師にとって説明のつきにくいことを、何とか合理化しようとするものではないだろうか。 そして、子どもを見る、記録する、考える教師である自分は、どんな眼差しを子どもに注いでいるのだろうか。教師は街中の電信柱ではない。立っているけれど、そのことをほとんど意識しないような存在ではない。教師の前だからこそ、いい格好をしようとする、つっぱってみる、無視する、迎合する、応援する、と様々な姿を子どもは見せる。 ということは、教師の目に映る子どもは「教師の子ども観」の投影ではないか。これは、どのような子ども理解につながるのだろうか。
長野県:中学教諭「処刑しちゃうぞ」
塩尻市立中学校の男性教諭が9日、歴史の授業中、3年生の男子生徒の顔写真を自分のカメラ付き携帯電話で撮影し、教室のテレビ画面に映した上で「処刑しちゃうぞ」と発言。同中によると、教諭は男子生徒らが騒がしかったため「注意を引くためにやった。男子生徒とは普段から仲が良く、悪ふざけという感覚だった」と釈明したという。教諭は既に本人と保護者に謝罪した。市教育長は「『処刑』の言葉はモラルを欠いており、申し訳ない」。(毎日新聞 2012年05月18日) --------------- こうした教員の「暴言」がしばしば取り上げられ、たいていは学校側の謝罪で終わるのだけれど、これから何を教訓にすればよいのだろうか。 1つめには、教員の生徒理解が必ずしも妥当でなく、生徒は教員が思っているようではないために、不幸が生じること。 2つめには、生徒理解が妥当かどうかとは別に、その場で教員がどんな発言をするか、行動をとるかは、当の教員すら予定できないこと。 以上から、PDCA論に即せば、①P:計画に際しての現状分析という評価が適切に行われる保証がない(児童生徒は日々、時間ごとに違うとすら言えるのだから、そもそも「正確な分析」がムリである)、②D:実施は計画に基づいて行われる訳ではなく、状況次第の「出たところ勝負」である(どんな状況になるのかは、教員に限らず誰にも予測できない。その場にいない校長ができないことは言うに及ばず)、③C:点検・修正もこのため、計画と実施との齟齬を問うても仕方がない(修正とは、計画と実施のズレを問題にすることだから)、④A:よって、前年を活かして翌年といった、積み重ねや継承が基本的にできない(報告書は出ても、誰も読まないように)、という特性を帯びている。 つまり、学校教育でPDCAを強調することは、実際に合致しないことから学校(と教育委員会も)を「嘘つき」にしかねない。学校の説明責任は、別のスタイルで果たさなければならない。 そこでできることは、1つに、現状把握をより多面的に行える場を持ち、来たる実践により広い視野をもって向かえるようにつもりをすること(学校教育に関する評価能力の高さは、その正確さや、妥当さによっては担保されえないので、主観や直感を含む「もっともらしさ」によって示さざるを得ない)、2つに、実践ののち、どのように状況を捉え、判断してそのようにしたのかを振り返る場を持ち、次回は違うようにも対応できるよう、(実践を深めるではなく)実践の幅を広げること(事後の分析を多面的にできるという評価能力によって)、この辺りではないだろうか。
中学校教頭、スーパーで…女性警備員取り押さえ
千葉県警八千代署は、佐倉市の中学校教頭(52)を公然わいせつの疑いで現行犯逮捕。同容疑者は午後5時35分頃、同市のスーパーマーケット1階の食料品売り場で、下半身を露出した疑い。同店の女性警備員がその場で取り押さえた。容疑を認めているという。 同中学校によると、容疑者は別の中学校で開かれた教職員研修会に出席し、そのまま帰宅する予定だった。校長は「まじめな人で、逮捕されたとは信じられない」と。(2012年5月17日 読売新聞) ------------- う~ん、どうしたんだろう本当に。急にそうした気持ちに襲われたのならば、自分でも制御できないような衝動のため? いわゆる理性がもう働かない状況? それとも、なお、これは教員だから注目されやすいだけのことで、他の職業や属性とそんなに違うことではないって、解釈すべき? いずれにせよ、状況は結構ヤバイような気がする。教員のみなさん、特に学校管理職のみなさん、「まだやらなければならないことがあるから」なんて言っていないで、早く学校から、仕事から逃げ出して。 なお、私がこの問題を数量的に扱った論文を再掲します。ぜひご覧ください。 教員は健康に働けているか-教員による「わいせつ行為」に関する追試的研究-, 京都教育大学紀要, 120/1-10, 2012.03, 榊原禎宏; 森脇正博 教員の精神的健康への一視角-教員による「わいせつ行為」は多いか- 京都教育大学紀要 116/1-7, 2010.03,榊原禎宏
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