学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

教育内容の部分と全体

アクティブ・ラーニングに関わる話をうかがう。パフォーマンス課題について、さまざまな知識やスキルを総合して臨むような複雑な課題、と聴いた。

この分野の素人なので、勘違いしているのかもしれないけれど、これは部分と全体、あるいは具体と抽象に関するテーマなのかなと思う。

例として紹介されていた中学校社会科の課題:「時は1900年。あなたは明治時代の新聞社の社員たちであり、社会が大きく変化してきた明治維新を記念する社説を書くことになりました。社説は、同授業を生きる人々(政治家、産業界の人々、文化人、一般の人々)に向けた新聞社からのメッセージです。話し合いの内容や今までの学習を振り返り、今後の改革のあり方について重要だと思うことを提案してください。」

これに臨むには、1900年がどんな時代だったか、たとえば日清戦争と日露戦争の間、義務教育就学率が100%に近づきつつあったこと、社会主義協会が設立。国際的には、パリ万博、義和団の乱などを踏まえて論じなければならない。その時点から、明治維新について述べるのである。相当に難しいと思う。

ところで、複雑な問題に臨むには、個別の事実を知り、かつそれらをつなぎ合わせる筋道が必要だ。そこには解釈が不可欠で、そこに捉えようとする人による違いが生じる。現実はまさに複雑で、変化も一方向に生じる訳では必ずしもない。歴史家は起こったことを自分の筋道に合わせて述べることはできるが、これから何が起こるかを述べることはできない。あくまでも「後知恵」に留まる。

厳密には、一つの事実ですらどうであったのかが明らかではないのに、それらの組み合わせ-しかも、整合的とは限らない事実の-を求めることは、たとえば義務教育段階の児童・生徒にどれくらい可能だろうか。限られた事実をもとに、つたない筋道を述べて、わかった気になってしまいはしないだろうか。これらの検討もなされた上で提案されているとは思うけれど。

また、部分を強調すると全体は見えにくくなる。全体を見ようとすると部分はおざなりにならざるを得ない。部分と全体、具体と抽象の間をわれわれ大人の認識も揺れ動くけれど、経験がより限られる人の場合、鳥の目と虫の目の両方を求めることは、反って混乱を招かないだろうか。

これまでも、いわゆる発達段階に応じて、具体の抽象化と抽象の具体化は促されてきただろうし、物事がより「わかる」とは、ある事実や事象がそれだけでは完結せず、全体の一部、つまり部分でもあるのだと捉えることができる、あるいは全体だと思っていたことが、部分の集積でもあることに気づく、このように「分け方」が変わることでもある。

「総合」とは、多くの事実を要約しようとする発想ゆえの言葉であり、一つの架構に過ぎない、同様に「さまざまな」とは、一つの事実が何かの部分として見なすゆえの言葉である、と言うとき、パフォーマンスとはどういうことなのか。もっと考えてみたい。
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# by walk41 | 2017-04-25 11:49 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

花桃

恥ずかしながら知りませんでした。こんなきれいな花があるとは。

近所を歩いていたら、白とピンクの色が一つの花に混じって咲いているではありませんか。綺麗やなあと見ていたら、お家の方が教えてくれました。花桃というそうです。

風情も吹き飛んでしまいますが、教育のお喋りってともすれば、個人を一つのキャラクターで捉えようとしませんか。「彼は~な人だ」と。けれど、一つの花に二つの色合いが入り、しかもその出方が同じ木なのにさまざまだということを知ると、およそ一様なものとして人間のことも語れへんよなって思わされます。そんなん当たり前のことやん、と言われたら、仰る通りなんやけど。

とまれ、美しい花を見せてもらい、とてもほっこりしました。ありがとうございました。

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# by walk41 | 2017-04-22 16:42 | Comments(0)

給料泥棒

ある大学院生から聞いた(念のため、京都教育大学の学生ではない)。

ある授業で大学教員がこういう話をしたそうな。

「学生が授業を取りにくいようにと、原書講読にした。それでも英語ならばまだ取る学生がいると思ったので、ドイツ語にしたけれど、まだ授業を取る学生がいた。来年はラテン語にする。」

呆れる話である。何という体たらく、自分の専門を通じて学生を育てようとする意欲の欠落だろうか。こんな教員にも血税が遣われているという嘆くべき現実。まさに給料泥棒である。残念ながら、立場の弱い学生になす術はない。

大学も中期計画やあれこれの評価を通じて縛られるように、また色々と説明をしなければならなくなっている。けれど、授業は最終的に教員に大幅に委ねられている。だからこそ、とりわけ授業については、強い自律性を担保する必要があるが、それは各教員の良心、誠実さ、熱意に依っている。このことを繰り返し肝に銘じなければいけないと思う。

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# by walk41 | 2017-04-20 11:52 | 授業のこと | Comments(0)

深呼吸をしよう

怒りを抱えている人の身体は、固くこわばっている。腕を組み、目をキッと見開いて、足を踏ん張って、体中に力が入っている。

そんな時もあっていいけれど、あんまりやると身体が悲鳴をあげるよ。身体の力が抜けるように、深呼吸をしてみよう。腕を伸ばし大きく弧を描いて、肺に空気が入るのを感じてみよう。そうすれば、気持ちも少しは変わるんじゃないかな。

認知と感情が身体を形作ることもあるけれど、反対に身体が認知と感情に影響を及ぼすこともある。知らないうちに固まっている身体を解きほぐすこと、すると気持ちやものの見方が変わることを、私たちは既に経験しているのではないだろうか。

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# by walk41 | 2017-04-19 18:35 | 身体 | Comments(0)

全校集会での行動

同じ中学校でも、学校によって様々なことは、みなさんも経験ずみあるいはお聞き及びのことだろう。

この3月まで別の中学校におられ、4月の転任で学校を移った方と話す機会があり、とても面白い話に接した。その趣旨は、前の学校では勢い、生徒指導に力が入っており、いわゆる目力を使って生徒を威圧するような振る舞いをしていたけれど、新しい学校はそんな必要がない様子だ、と。

けれども、気がつけば、全校集会にて自分は生徒の列の前の方に位置して、生徒を見つめるようにしていた。これに対して、他の教員はむしろ後ろに立っていて、生徒の様子をさほど心配してないということが、大きく違うと思わされた、という内容だった。生徒に対してどこに自らを置くか、は決して一様ではないことは、人間の行動がすぐれて環境に左右されていることを示すものではないだろうか。

自身の振る舞いが、勤務する学校によって異なるということ、また、知らないうちに振る舞いがあるパターンを取る、つまり身体化されているということを、大変興味深く思ったのだ。
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# by walk41 | 2017-04-17 21:35 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

事務をつかさどる

このたび学校教育法の一部改正がなされ、第37条14項「事務職員は、事務に従事する」が、「事務をつかさどる」に変わる。その理由として、学校組織マネジメントを機能させるために、総務・財務の専門家である学校事務職員の役割を積極的に規定したことが、文部科学省事務次官名で説明されている。

さて、これからの学校事務職員はどのように変わるだろうか。一つは学校と教育委員会の関係、もう一つは、学校内の分掌のあり方が論点になる。まず前者は、各学校がどれほど経営主体としてありうるように行財政の仕組みが整えられるか、である。

各学校による人的・物的・財的条件の権限と責任をどこまで広げることができるか。たとえば、学校でスタッフを採用、雇用、離職させられるか、どこまで予算項目を減らして、各学校の裁量で購入、管理、処分できるか。これらが大きく広くなれば、事務量は激増する。内外への情報提供とその管理、法的適合性の担保、計画と判断、事後処理と構想、検討、決断もより必要になる。小中学校で一般的な一校一人体制ではきっと難しいだろう。すると、教員と事務職員とだけでなく、事務職員間、事務職員と保護者・地域住民等とのコミュニケーションのあり方も問われる。

こうした学校の経営環境をどのように設計するか、そもそもできるのか。各学校が担いうる経営条件、たとえば数年で替わってしまう校長が発揮しうるリーダーシップとは何か。また、50歳を越えて初めて校長という教職キャリアの設計は妥当か。あるいは、児童・生徒が基本的に徒歩で通学することを想定した学校配置で、ありうる学校規模はどの程度か。これらから、組織マネジメントを要する組織として学校を措定できるか、が導かれるだろう。

私の今の見立てでは、義務教育段階では各学校はそれほど大きくならないし、教職員の数も数十人までに留まる。くわえて、校長を始め教職員の学校間移動(転任)が定期的に行われ、学校としての蓄積が困難といった仕掛けが維持されるとすれば、各学校に求められる事務業務も大きく変わらないだろう。その上で、学校経営に参画する学校事務職員像をどのように描けばいいのか。これは学校事務職員に限らない、教職員にも同じように問われることである。

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# by walk41 | 2017-04-17 09:27 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

コストだけを考えるわけではないという難しさ

中島隆信『子どもをナメるな-賢い消費者をつくる教育』(ちくま新書、2007)を斜め読みした。「モラルを損得で教える」ほか、経済活動としても世の中が成り立っていることを伝えながら、情報の収集と判断に優れた人間を育てることが、よりよい社会を作ることにつながると論じている。

設定した枠の中で選択させるという方法(制約付き最大化)が、より意欲を高めるというのは説得的だが、いじめに関する指導を損得で、すなわちコストがかかりすぎて不経済と教えればよい、という説明はいただけない。なぜなら、そこでは①子どもが学級あるいは学校という場を離脱不可能と捉えるか否か、②人間は非合理的な行動をまま取るのではないか、の吟味を経ずに話が進められているからだ。

まず①について、子どもが、その学級で生きていくことが不可欠で、それ以外の場はないと観念するとする。そうなると、いじめをすることが「居心地の悪さ」(p.83)につながるという教えは意味を持つかもしれない。けれど、まあ一年くらいのつきあい、あるいはたとえ同じ学級にいても(利害)関係の薄い奴と思えば、いじめは横行する。

大人だって同じだろう、一つしかない地球に住んでいて爆弾をぶっ放すなど最大の環境破壊なのに、「自国を守るため」には仕方ない選択だと、いまアメリカ合州国と北朝鮮がにらみ合っているではないか。ごみの分別ルールを守らなければ、回り回って市民税アップになるとわかっていても「まあいいかな」といい加減なことをしがちなのも同じである。全体で見れば自身の損になるのに、そう振る舞うわけではないという社会的ジレンマは、至る所で観察される。

もう一つ②については、コストよりも大切なものを人は掲げる場合もあるという点だ。名誉や伝統といったメンツはその最たるもので、こだわるほどに心象は肥大化される。過度なナショナリズムが愚かなのは明らかであるにもかかわらず、そのためには人を死に追いやっても責められないことも起こりうる。健康オタクが「健康のためには死んでもいい」と懸命にるならば、それは本末転倒だがそうした行為も散見される。

コスト意識を持たせて、それに準拠した行動を取ることの意義を述べるのは大切だが、それだけで行動するほど合理的でもないのが人間ということだろうか。
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# by walk41 | 2017-04-16 10:22 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

~のように~ではない

「哲学のように答えの出る話ではなかった」という一文について、正反対の解釈があったので、おもしろいなあと思ったのだ。

ひとりは、哲学は答えが出るものではない、その話も同様に、答えが出るものではない、と理解したのに対して、もう一人は、その話は答えがでるものではないが、哲学は答えが出るもの、だから別物と述べているのだと捉えた。

哲学は答えが出るものではないというのが一般的な理解だと思うので、後者の人は変だなあと解したのだ。

~のように~ではない、という文章が二通りに捉えられる、というのは日本語学的に適切な理解だろうか。もしそうならば、これはどのように教えればいいのだろうか。不思議だなあ。
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# by walk41 | 2017-04-15 13:02 | ことばのこと | Comments(0)

大変だなあ

お昼ご飯をカレー屋さんでと店に入ったら、トイレ近くで若い男性がうろうろしている。トイレに入る訳でもなくどうしたのかしらと思っていたら、トイレから出てきた壮年と思しき男性の関係者であることがわかった。

その男性はトイレ外の洗面台で手を洗い続けており、小さな洗面台から水が飛んでは床に落ちる、ビチャビチャになった床を同伴の男性が拭いていたのだ。小さな暖簾越しに見える壮年の男性は、手を洗っては備え付けの紙で手を拭き、手を拭いたと思ったらまた手洗いを始め、を繰り返していた。

私が入店してからでも15分くらいは、そうした動作を繰り返して、ようやく二人は席に着いた。そのあとで私もトイレに入ったが、その中と外のいずれのごみ箱も、拭かれた紙であふれており、床もしっかり濡れていた。おそらくは先の男性が使ったからだろう。

強迫性障害、強迫神経症(obsessive compulsive disorder)とも言われる事例の背景と改善方策は諸所あるようだが、本人と回りの人は大変だなあと思う。まったく拘らないのも問題だろうが、過度なのもまた問題になる。ほどほどであることの難しさを感じる。
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# by walk41 | 2017-04-14 08:17 | 身体 | Comments(0)

試してみました

少し前のブログにて、体組成計の謎について書いた。再びトレーニングセンターに行くことがあったので、ちょっと試してみたのだ。年齢を初期設定の30歳のままにして、身長を入力して計測した。

どうなったと思いますか。年齢は34歳、実年齢より結構若いでしょ。えへん。驚いたのは体脂肪率が、正しく年齢を入れたときの80%位で示されたことだ。若い人の方が体脂肪率が低いと想定されているならば、この結果は逆の傾向を示すことになるんだけどなぁ。不思議。くわえて、基礎代謝の値もより高く出たよ。どうしてかな。

ともあれ、正しく年齢を入れた方が正確な値なのか、そうではないのか、まだ分からずじまい、詳しい方、ぜひ教えてください。

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# by walk41 | 2017-04-12 17:22 | 身体 | Comments(0)

大学は「ノーマル」でよいのか

「大学における教員養成」の議論は、古典的なモデルでなぞらえれば今や、エデュケーショニストの全盛で、アカデミシャンは沈黙するばかりである。つまり、「いい教員」になるための教育というものがあるはずだと観念され、それを伝え、実践できる人間を作り出すこと、これが理論と実践の往還とも称されるに至っている。

これに対して、「教育とはどれほど人間に影響を与えることができるのだろうか」とか「その影響とははたして望ましいものだろうか」といった問いは、最前線で期待される実践に寄与しないばかりか、否定的な意味を持ちうるので、「役に立たない」と見なされがちである。「役に立つこと」がどんな意味を持つかについては、考察されないままだ。

ここで学校教育法を見ると、次のように記されている。
「第九十九条  大学院は、学術の理論及び応用を教授研究し、その深奥をきわめ、又は高度の専門性が求められる職業を担うための深い学識及び卓越した能力を培い、文化の進展に寄与することを目的とする。
○2  大学院のうち、学術の理論及び応用を教授研究し、高度の専門性が求められる職業を担うための深い学識及び卓越した能力を培うことを目的とするものは、専門職大学院とする。」

ここで「深い学識及び卓越した能力」とはどういうことだろうか。自然科学の対象よりも遙かに早く対象が変化する、だから事実を説明する言葉が泡沫のように現れてはすぐに消える、人文・社会科学の対象を研究するとは、「いかに見るか」という狭義の方法論だけでなく「どのように見ているか」というメタ的な認識論を必要とする。ホロコーストや戦争中の人体実験などは、後者を欠いた前者の暴走に他ならず、多くの不幸をもたらすことは明らかだからだ。「卓越した能力」とは、既存のものを越える力という意味だろうから、いまの自身を疑いうる力も持つものと見るべきだ。

公教育の世界でも、たとえば「学力向上はよいこと」「いじめは絶対に許されない」と暴論がまかりとおり、それに沿うべく教員の業務がさらに増大するだけでなく、児童・生徒の「幸せの先取り」「”正義”の抑圧」が起こっている。やり方だけを優先すると、自分たちの行為への懐疑が乏しくなり、思考停止に追いやられる。そして「時代が変わったから」「上から言われるから」とおよそ主体的でない人間像へと矮小化される。こうした方向だけで、「国家百年の計」とも言われる公教育を設計してよいのだろうか。

疑いながら行為する、考えながら歩く、そんな両義的な態度と能力を持ち得てこそ、「いい教員」であり、その育成に寄与しうる大学の立ち位置ではないかと、私は考える。
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# by walk41 | 2017-04-11 11:22 | 大学のこと | Comments(0)

桜を楽しまれましたか

大学の入学式が終わり、中学校でも始業式、入学式が終わりました。ちょっと一息です。

キャンパスの桜も満開を迎えました。今年は長く寒かったため、遅めの開花となり、また長く楽しめますね。

みなさんにも、それぞれの春が大いに咲いていますように。

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# by walk41 | 2017-04-11 11:01 | Comments(0)

幟で気づく

店の前で幟が揺らめいている。

「うん? 日本?」

いいえ、違いました。

「本日 特価日」の宣伝でした。なるほど。

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# by walk41 | 2017-04-09 14:55 | ことばのこと | Comments(0)

ローマ字は必要なの?

クルマで走っている時に見えた看板、「○○プラザ前」。これだけならば何も思わないけれど、これにローマ字が表記されているのだ。「○○puraza-mae」-百歩譲って「mae」は認めても、これはないだろう。

plazaはスペイン語から英語に輸入された公共の広場という意味で、place と近い。だから、"l"ではあっても"r"ではない。また、"u"と伸ばす必要もない。けれど、ローマ字書きすれば、plazaは残念ながらこうなるのだろう。まったく別物に変わってしまう。この表記と英語表記の両方を習得しろというのだから、なかなか酷な話である。

過日のある会議でも、同様のことに出会った。中学生に上がる児童に対して、英語に馴染むためにもローマ字をしっかり復習しておきましょうという学校からの文書についてである。こんな感覚を中学校がもっていることは、おかしいと思う。

ローマ字に馴染むと、少なくとも英語からは離れる。マレー語だったら親和性が高いとは思うけれど、日本語を母語にする人のうち、どれだけの人がマレー語を使うチャンスがあるだろうか。

何となくローマ字を扱っているとは思わないけれど、これが英語学習の結構な障碍になっているように思う。せめて、ローマ字は英語とはまったく別の言葉だと教えること、それが中学校になって以降の、英語嫌いの抑止にわずかでもつながるのではないだろうか。
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# by walk41 | 2017-04-08 00:03 | ことばのこと | Comments(0)

さようなら、アクティブ・ラーニング

教育に関するお喋りは普遍性が乏しいので、いわば賞味期限が短い。自然科学の領域ならば、基本的な用語は長く使われ、議論の土台となる。音とは何か、1キログラムとはどれだけの重さかと、定義が明確で疑問を差し挟む余地がない領域と比べれば、その違いは明らかである。だから、教育談義とも言われるように、言いたい放題が蔓延する。何を言っても、否定されないからだ。

昨年、あれだけ濫用されたアクティブ・ラーニングという言葉もその一例である。今年が始まって4分の一が過ぎたくらいなのに、早くもこの言葉は姿を消し、「主体的・対話的な学び」と言い換えられるに至った。ああ、そんなに言葉の命が短かったのか。

かくも新しい言葉が示されてはしばらくお喋りがされ、気がつくとその言葉がなくなっている。流行っている間に、「アクティブ・ラーニングとは何か」「アクティブ・ラーニングを活かした授業」と本が売られ、同様のタイトルの講演会や研修会が開かれて、「アクティブ・ラーニングが専門の研究者」なる御仁が登壇する。「ラーニングってアクティブ以外にありえないのでは」とか「これまでも十分にアクティブだったのでは」と疑問を持つような輩に声が掛かることはない。「21世紀の社会を切り拓くアクティブ・ラーニング」と持ち上げるような話を疑問なく話せる厚顔無恥が「著名な先生」になるというだけの話である。

だから重ねて思う。教育について考えるとは、教育という衣をまとって現れる言葉を分析し、その語義、由来、特徴を吟味すること、もって「そう思わんでもええんとちゃうのん」「違う角度から見てみたらどうかな」と熱くなりがちな世界に冷や水を掛けること、そして実践という名前の行為に携わる人たちに、より視野広く臨んでほしいとメッセージを送ることだろうと。教育-学習の最前線と距離のある、研究という場所に自身を置く者は、何よりもこのことに自覚的でなければならないと強く感じる。
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# by walk41 | 2017-04-04 19:06 | ことばのこと | Comments(0)

「親孝行などの徳目は大事だ」

「教育勅語を教材として用いることまでは否定されない」という現内閣の決定について議論があるが、この通りの文言であるならば賛成する。教材なのだから、材料として内容を切り刻み、つまり分析して、そこから何を学べるかを考える糧にすればよいと思う。

この点、朝日新聞の社説「過去の遺物が教材か」(20170402)は中途半端である。現内閣の決定について疑義を唱える一方、「親孝行などの徳目は大事だ」とも述べる。そやからあかんねんあんたは。何が大事とされるかされないか、それは地域や時代によって違うこと、そしていかに違うかまで分析してはじめて教材なんやから、あたかも始めから正しいことがあるかのように述べること自体が間違ってる、ということがわかってへんような文面があかんねん。ほんまに情けない。

保護者による虐待が大きく取り上げられる昨今、なぜ親孝行が大事と言えるのか。また、親とは血の繋がった人だけのことなのか、育ての親、自分の誕生時に取り上げてくれた親、近所の親、はたまたは広く社会の親というのはありうるのか。あるいは、孝行とは何をすることか、財産の「生前贈与」などが制度化されている今の日本は、親孝行と逆行するのか否か、と考える材料を提供することができるのに、無前提に「親孝行(と分類される細目)は大事」と宣う。そんなことを言うてるから、教育勅語は素晴らしいと時代錯誤を述べる輩に回収されるんやって。

繰り返して言おう。教育勅語に限らず、「十七条の憲法」でも「マグナカルタ」でも「共産党宣言」でも、何でも教材にしたらよろしい。それぞれがどのような地理的・時代的な背景で登場したのかを分析する作業はすぐれて重要でかつ難しい。研究者の大半はこれらの再解釈に費やしているほどなのだから。ミニサイズで言えば「学習指導要領の経緯」を説明することも同じである。

どんな文書でも聖典扱いすることでドグマ化する。思考停止に追いやり、人間を無力化する。だから今なら、生前退位が議論されている天皇に関わる皇室典範も、大いに教材化すればいいと思う。天皇を辞めたいと言っている人の人権がいかに無視される仕掛けになっているのか、どうすれば天皇という制度をなくすことができるのか、なぜ続けたいと思う人がいるのか、とあれこれ考える機会になるだろう。
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# by walk41 | 2017-04-02 22:36 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

給食の是非

中学校での給食が完全実施されていない市で、市長がこれを実現すると議会で打ち出したそうだ。当該の教育委員会のお喋りでは、学校は大変やなあと頭を抱えているらしい。

うかがうと、落ち着いている学校ならばいいのだけれど、そうでない学校の場合、給食の時間が近づく4時間目あたり、廊下付近に運び込まれる食缶をねらう悪童たちが、唐揚げやデザートのプリンなどをかっさらっていくため、教員たちは早くも食缶を教室に運び込み、奪われないように自衛しなければならないのだという。もちろん、昼食時の配膳や片付けなどでも困難が予想されるのだろう。

なるほど、給食があるとこんな事態も想定しないといけないのか、と思っていたら、違う角度からのエピソードも聞いた。それは、給食がないことによる「いじめ」である。

中学時代、ある女子生徒のお弁当は、保温機能のついたもので、しばしばカレーを持参していたそうだ。お昼時、温かなカレーの香りが教室中に流れたのだろう、このことを面白くないと思っていたクラスメイトの多くが、彼女が転校生だったということもあり、カレーに引っかけて「何か臭わへん」「加齢臭ちゃう」と言い始めた。彼女は声すら掛けてもらえなかった状況だったので、いじめではなくいじられているという感覚だったのではないかと、当時同じ教室にいた人は回想する。なぜかって、自分のカレーを指して、「これ美味しいで」と返していたそうだから。ちなみに、昼食時間、その場にいた学級担任教員は、これを助長こそしなかったものの、何も言わなかったとのこと。

ああ、子どもに限らないが、人間が集まるところ、必ずといってよいほど、葛藤、衝突、権力争い、傷つけ合いが起こる。学校も本当に大変である。
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# by walk41 | 2017-04-02 17:42 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「国民の税金が投入」ではない

公共機関に対する論法の一つに、「国民の税金が投入されているのだから、国民の意志(民意?)が重んじられるべきだ」という主張がある。これは適切だろうか。

ちょっと考えればわかるだろう。税金はどんな場面でかかってくるか。買い物をすると消費税、一定額以上の所得を得れば所得税や住民税、お酒を飲めば酒税、クルマに乗ればガソリン税に自動車税、たばこを吸えばたばこ税と、個人が支払う分だけでもいろいろある。もちろん、日本国民だけが払うのではない。定住している外国籍の人はもちろん、一時滞在の観光客や商用で訪れている人も負担している。これらの集積が税金であり、国・都道府県・市町村の政府ごとに予算化されているのだ。

だから、「税金は国民が払っている」という表現は正確ではない。国民も払っているというべきである。外国の人と同様に。

このことを知ってか知らずか、上のように主張をする人がいる。明らかにミス・リードである。こんな嘘がまことしやかに通用してしまうとすれば、怖ろしい言説環境である。
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# by walk41 | 2017-04-01 11:17 | ことばのこと | Comments(0)

道徳というものの怪しさ

沖縄県の恩納村博物館の展示から。

モーアシビ(毛遊び)

かつて沖縄の農村には、仕事を済ませた若い男女が野原に出て、遊ぶ習慣があり、これをモーアシビといいました。モーとは、野原のことで、若者たちば集落のはずれの野原で落ち合い、歌や踊りに興じました。しかし、明治以降不道徳な習慣であるとみなされ、教育者やシマの指導者によって、禁止され、すたれていきました。
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男女の仲について、どうあることが道徳的なんだろうね。A.ビアス『悪魔の事典』(1911)に次の項目がある。「道徳的(moral)…形容詞:地域的で、移ろいやすい善の基準に準拠する。広くご都合主義的性質をもった。」(http://www1.bbiq.jp/kareha/trans/html/devils_dictionary,_the.html より拝借)

教科化される道徳は「考える道徳」と言われる一方、現政権の主張を踏まえた教科書検定がなされたとも報じられている。はたして、ご都合主義のそしりを免れることができるだろうか。
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# by walk41 | 2017-03-30 21:59 | Comments(0)

体組成計の謎

久しぶりにトレーニングセンターに行き、汗を流した。

その終わりに、置かれていた体組成計に乗ったのだが、体年齢のことがとても不思議だ。実年齢よりは数歳、若く出たのだけれど、これは実年齢の入力を偽った場合でもこうなるのかしら、という疑問だ。メーカーも目安に過ぎないと言っているから、気にしなくてもいいのだろうけれど。

みなさんの経験ではいかがだろうか。たとえば、私が80歳あるいは20歳を実年齢として入力した場合、体年齢はいくつと出るのだろう。ちなみに、このメーカーのホームページを見ると、私の基礎代謝量は実年齢での値より高めで、18-29歳の枠に当てはまるよ。えへん。あるいは、まあいい加減な計測ということだろうか。ううむ。
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# by walk41 | 2017-03-30 20:55 | 身体 | Comments(0)

海学校・山学校

沖縄県恩納村の博物館を訪れる。昔のこの地の暮らしが伝わる展示になっており、勉強になる。失礼ながら、村立の施設にしては頑張っているなあと感じた。

この中に、海学校、山学校という言葉のあったことを知り、とても興味ふかく説明を読んだ。曰く、学校に向かうも、途中の海や山で時間を過ごして、結局学校には行かずじまいで終わることがあったこと、子どもたちは学校はつまらないところとわかっており、学校的な勉学はしなかったけれど、生活上の知識はしっかり身につけていたと、1915年生まれの人の回想が紹介されている。そして、海や山で過ごしたことを、子どものたちの間で海学校、山学校と呼んでいたということも。

面白いなあ。学校が日々の労働とはかけ離れた知識や技術を扱っていたこと、それを子どもは経験的にわかっていて、海学校、山学校としてやり過ごしていたことがわかる。そして、学校も来ない子どもの家に連絡するすべもなかっただろうから、おそらく、学校の方もなあなあで済ませていただろう。海や山で遊んだ子どもは家に帰って「行ってきました」と親に報告したのだそうだから。

現在、学校の位置づけはずいぶんと変わってしまったけれど、人工物としての学校という視点の大切さを持ち続けるためにも、歴史を学ばなければならないと強く思う。当たり前に見えることが決してそうではないことを、繰り返し確かめるために。


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# by walk41 | 2017-03-27 06:58 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

重ねて自分を疑う

15年くらい前に小学校時代を過ごした人から、当時の悲しい思い出を聞く。

習字も習っていたその人は、流れるように「氵」を書くと「冫」のようにも見える習字の先生の筆致を真似して、学校のテストプリントの氏名欄に、自分の名前を書いたそうだ。後日、プリントの返却時、その氏名欄に赤ペンで「×」が記されていたという。教員に尋ねると、「それは大人の書き方だから(子どものあなたが)書いてはいけない」旨を言われたとのこと。

いかがだろう。今なら児童から保護者、次に管理職か教育委員会に連絡がいって、教員が事情を訊かれることが十分に想定される。けれど、当時の当人は辛い思いを抱えて、そこで終えてしまったそうだ。問題にならなかった。

驚くべき行為と発言かと私は思う。氏名欄に何と書いてあるか判別できないのならまだしも(その場合でも、「?」マークをつけるまでが関の山だ)、そうではなく、私の辞書では好みのレベルに過ぎないことに、目くじらを立てて注意することで、「指導者」としての自分をまずは自身で確かめ、そして他者に知らせようとする。

教員は自分で存在照明ができず、他者に認められることで初めて教員になることができる故である。そんな自分の存在を確かめるために、その人を示す優れて象徴的な氏名に対して赤ペンで×をつけるなどまったく無神経なことをする、何と恐ろしいことだろう。

この人は、その後、テストプリントの氏名欄に、ひらがなで自分の名前を書くようになっていたとも聞いた。漢字について指摘された悲しみを避けるように、気づいたらそう記していたのだという。このエピソードは、指導の効果や結果というものが、その場においてとか1時間の授業内で現れるといった教育実践論がいかにいい加減なものか、を示す事例でもある。

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# by walk41 | 2017-03-25 07:25 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

卒業式の別れの言葉

そろそろ終わりだろうか、各地の卒業式は。

ご縁があって式に伺うこともあるが、卒業生が在校生に向かって話す、別れの言葉というのだろうか、私は苦手だ。ネット検索すると、「一人一度以上は発言できるように配慮」された文言がすでに用意されており、児童名を入れれば出来上がる、お手軽ファイルもダウンロードできる。

何が苦手なのかを考えると、男女、強弱と様々な声を連続して聞くことのしんどさがあるのだと気付いた。一言、一文ごとに違う児童が声を上げるこの方法は、当人はいつ発言するかをわかっているけれど、初めて聞く立場としてはひたすら落ち着かない。次の声が予想できない状態というのが結構辛いのだ。また、その児童にとっては限られたチャンス、勢い力も入るというものだろう。一人の発言が続く時に見られる緩急のリズムや間合いがないので、単調な発言が繰り返されるように思われる。これがしんどさの理由ではないかしら。

一度しかない卒業式だから、それぞれの子どもの活躍を、との思いはわかる。だからより聞きやすいように、人数は少なく、かつ台詞も細切れにしないである程度の長さを、と強く願う。



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# by walk41 | 2017-03-23 12:25 | ことばのこと | Comments(0)

たぬき

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関西に在住のみなさんは、お気づきだろうか。家々の前には、けっこうな確率でたぬきが鎮座していることを。

おそらくは滋賀県の信楽産で有名なたぬきの置物の影響だと思われるけれど、失礼ながら他人様の玄関先に目をやると、多くのお家にたぬきのいることがわかる。

小さいものから大きなもの、あるいが酒を喰らっているものや親子狸まで見えるけれど、これはとても面白くかわいい。工事現場のたぬきかな。

こう見ると、関西の多くの地域は、たぬき党の支配下にあるのかもしれない。何となく置かれているようで、実はおもしろいものが、他に見つかるかもしれませんね。
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# by walk41 | 2017-03-22 22:39 | Comments(0)

笑いを大切に

中学校を卒業する生徒たちに次のような文章を書いた。大人にも大切だと思って、自分にも言い聞かせるつもりで記したのだけれど、皆さんはどう読んでくださるだろうか。
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笑いが身体にとって、ひいては人間関係においても望ましいという指摘は、少なくありません。
笑いの多くは、その人が快適なこと、喜んでいる状態を示していますし、さらにその多くは、他者を必要とするものです。思い出し笑いなどを除けば、笑っている人はたいてい、誰かと一緒にいますね。一人で笑っている人にはちょっと近づき難い雰囲気も感じるのです。

そんな大切な笑いですが、学校という場ではどちらかと言えば、抑制されていないでしょうか。学校では「真面目」「真剣」「必死」であるべき、どちらかと言えば、笑いとは相性の悪いものに高い価値が置かれ、笑いは、「不真面目」「ふざけている」「いい加減」と否定的に見なされる場合もあるように思います。はたしてこのような見方は適切でしょうか。

笑いの効用に、笑いが緊張を解きほぐし、自分を冷静、客観的に捉えることで、より楽に、楽しく生きることにつながることを挙げるものがあります。ともすれば思いつめたり、深刻になりすぎることで起こるしんどさを解き放つために、敢えて笑おうと心がけることは大切と言えるでしょう。

「お金持ちはお金をたくさん使う」のように、世の中の多くの出来事が、一方向でのみ説明できるのに対して、笑うという行為が感情と双方向の関係にあることは、しっかり踏まえられるべきです。
つまり、楽しいから笑うということに加えて、笑うと楽しくなるのです。楽しいと笑いたくなるのは、わかりやすいですね。これに加えて、仮に楽しくなくても、笑うことで楽しい気持ちがわき上がってくるということが実証されているのです。これは人間に限らないかもしれませんが、とてもユニークなことだと思います。

しんどい時にこそ、笑うように努めましょう。そうすれば、楽しい気持ちが生まれてきます。すると、悲観的に見えることも「それほどでもないかな」という気がしてきます。あるいは、「じゃあ、こんなアイディアはどうかな」と新しいことも思いつきます。悩み苦しむ中で思いつくこともあるでしょうが、「あれもいいな、これもいいな」と楽しく考える方が、アイディアがいっそう生まれると思いませんか。

卒業にあたり、みなさんがよりたくましく生きていってくれることを願います。そのための道具であり元気の源でもある笑いをいつも携えて下さい。
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# by walk41 | 2017-03-20 12:08 | 笑いのこと | Comments(0)

万世一系

サウジアラビアの王族が来日していることに関わって、彼らが日本の皇室に強い尊敬の念を抱いていると述べるのは、毎日新聞の「金言」(20170317)。それは、万世一系と世界でも稀な歴史と伝統によるのだそうな。はあ、調子に乗るにも大概にしろと言いたい。

万世一系という言葉の定義をせずに、まあこんな感じ、とものを書く人間が使うべきではない。この言葉が、天皇という地位の人間が父から子へ脈々と引き継がれてきたという意味ならば間違いだし、いやそこには母も含むよ、叔父さんや叔母さんルートでもOKなの、と言いだせば、天皇制との絡みでこの言葉を遣う意味がなくなる。そもそも、私もあなたも万世一系なのだ。誰かからの血を引き継いでいない人など、この世にいないぞ。

最近の研究では人類は四種類くらいのご先祖に辿れるとのことなので、東アジアの一部の天皇ゆかりの人間ということになれば、日本列島近辺に住んでいる人の多くは、どこかで接しているとも考えられる。まさに「人類皆兄弟」である。

あるいは、万が一、天皇というポジションに親子かそれ類する血統が続いていたとして、その何がすごいのだろう。子に地位を譲るためには、たくさん子どもを産むという「保険」を掛けなければならず、しかも「何処の馬の骨」かわからぬ人を配偶者に選ぶこともできないから、結局は近親関係者婚姻が続くことになる。これは種の保存上、危険なことだ。環境が変わった時に生き延びられないリスクが高まるから。

つまるところ、この西川恵という客員論説委員は、考えて書いていない、あるいは考えるのが難しい人の可能性がある。こんな人を使っている毎日新聞、がっかりだなあ。

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# by walk41 | 2017-03-17 14:56 | ことばのこと | Comments(0)

教諭の授業担当時数

新年度を控え、新しい校務分掌も決まりつつある。その様子を見ていて思うのは、授業担当時数つまり、校長や副校長はもちろん、教頭や主幹教諭など教諭職でも授業を担当しない教員を除いた教諭の担当授業時数は、どれくらいが適正なのだろうかということだ。

3年ごとに行われる文部科学省『学校教員統計調査』(2013年度)によれば、週あたり教科等担任授業時数は、授業担任ありのみの教員の平均は、小学校で23.8時間、中学校で17.5時間、高校で15.2時間である。これには、学級活動や道徳、総合的な学習の時間が含まれる。小学校は45分授業、中学・高校は50分授業であることを考えても、小高の順に授業担任時数の少ないことがわかる。

ここで、ドイツの教員がフルタイム勤務の場合に担当すべき義務授業時数[Arbeitszeit(Deputatstunden pro Woche) der Lehrkräfte]を見ると、2015/2016年の場合、基礎学校(1-4年生)で27-29時間、基幹学校(5-9年生)27-28時間、実科学校(5-10年生)で24-26.5時間、ギムナジウム(5-13年生)で23-27時間と州単位で分散する。学校段階が上がるほどに授業時数が減る傾向にあることは日本と同様だ。

他方、すべての学校種が45分授業であるドイツの事情を踏まえても、ドイツの教員の担当授業時数は日本よりも少なからず多いと言えるだろう。とはいえ、部活動やあれこれの生徒指導の時間は日本の教員の方が圧倒的に多いだろうけれど。

もちろん、中等学校では教科ごとの担当になるため、担当する教科によっては授業数の少ない場合と多い場合がある。ただし、ドイツの中等教育教員の免許状は、ドイツ語と生物など、二教科の履修を基本とするので、一教科で免許状が発行される日本の場合と比べると、偏りが抑制される可能性は高いだろう。

さて教員のみなさん、ご自身は何時間、授業を担当されていますか。えっ、私ですか。私は2017年度、年間10コマ、半期あたり5コマになっています。大学は90分授業なので45分授業の2倍と見なせば、週あたりの担当時数は10時間ということになりますね。これは少なすぎるかしら。もっと働いた方がいいのかな。結構忙しいとも思っているのだけれど。


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# by walk41 | 2017-03-16 17:26 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

またがる言葉

ファミリーレストランに入って思った。ガストってどういう意味なんだろう。

引くと、公式にはスペイン語のgusto「味わい」という意味から取ったそうだが、同じ意味とスペリングはイタリア語にもあるとのこと。さらに引くと、英語にも食べる楽しみや喜びの意味として、"with gusto" といった表現も見つかる。もっとも、発音はガストとは異なり、あえて言えばグストーに近いかしら。残念ながら、似た綴りで当てはまる言葉はドイツ語にはないようだけれど。

複数の言語にまたがる言葉があること、面白いなあって思う。言葉も旅をするんだね。

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# by walk41 | 2017-03-16 08:54 | ことばのこと | Comments(0)

「日本型」教育の輸出

海外から日本に戻った/やってきた、主に日本国籍を持つ子どもの保護者向けの講演を聴く機会に恵まれた。知ることが多く、勉強になった。

なかでも興味を惹かれたのが、優れていると外国から評価される「日本型」の教育-多くは学校教育だが-の輸出を、日本人学校を拠点に進めようとする国策についてである。

これまでも、朝の会と終わりの会(帰りの会)といった仕掛けが、カイゼン志向の日本人を生み出すことになると、1980年代の日本研究において指摘されてきたし、最近では、学校掃除や給食の時間といった集団的行動が見習われるべきという外国からの評価、あるいは養護教諭が重要な役割として注目され。"ヨーゴteacher"と国際語になっているという新聞記事もある。

これは、外国から日本を見る一つの試みとしておもしろいと思う。何が日本型かの定義の問題は残るものの、日本の学校に特徴的と大きく括れば議論を始められるだろう。森有礼が考案したとされる運動会、その他、特別活動に関わる事項は日本的なものと挙げていい。もちろん、管理主義や過度な同調傾向など負の面も伴うが、国際的に多くの児童・生徒を抱えてクラスが秩序を保ち、かつ「盛り上がり」や「絆」までも求めうる状況にあることは、ある意味で驚異的だろう。ドイツの学校を見せてもらう限り、一クラス25人を越えることはないが、けっこう子どもたちはマイペースだもの(逆説的に、人数が多い方が、凝集性が高まるという仮説も成り立ちうるけれど)。

くわえて驚かされたのは、カタールでは日本の算数・数学教育が注目されているそうで、彼の地の日本人学校に同国の教員が学びに来られているとか。関連記事を探すと、日本郵便がすでに2006年、公文式の算数教育を同国の小学校に普及する教育貢献プロジェクトを始めている(http://www.nyk.com/news/2006/0302_01.htm)。文化的侵略とも言えるかもしれないけれど、何でも向こうのニーズに合わせて始めるというのはすごいなあ。

「欧米に追いつき追い越せ」の時代はとうに去ったとは知っていても、次にどんな局面が来るのか、あるいはすでに来ているのかを必ずしも知っているわけではないだろう。外国の目から日本の学校がどのように見えているのかをちゃんと追いかけること、一部になお残る「欧米崇拝」と「植民地根性」を見つめ直す、いい機会ではないだろうか。
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# by walk41 | 2017-03-14 08:12 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

問いを問う

パオロ・マッツァリーノ『みんなの道徳解体新書』(ちくまプライマリー新書、2016年)を読む。以前の作品と比べて精彩を欠き、ページ数をいたずらに増やすために要らない言葉で引き延ばしている感が強い。けれど一点、「なぜ人を殺してはいけないか」の議論は鋭いなと感心させられた。

それは、死刑制度の温存、自動車運転による死亡事故が不可避なのに自動車運転をやめない、といった例から、「人を殺してはならないではなく、人を殺してもやむを得ない」と考えているのだという指摘である。

確かに、2011年3月の東日本大震災と津波に伴う福島原発の放射能汚染によって、多くの人命が失われたにもかかわらず、原発再稼働に断じて反対と世論があるわけではない。「電気がなくなるとやっていけないから、今度は大丈夫って電力会社も言ってるから、いいんじゃないの」という人がメジャーではないだろうか。「いざとなったら、多少の命が失われることはやむを得ない。それが自分だったら嫌だけど」なのである。「人を殺してはならない」原則はそれほど貫徹していない、とは重要な観察だろう。

問いを立てるだけでなく、問いそのものを問い返すという態度と能力が大切なこと、そのための思考体力を養う必要をより感じる。

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# by walk41 | 2017-03-12 12:48 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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