学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

寛容さー多様性を認める/求める

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州都の目抜き通りに、チェス盤を二枚広げて、通りかかる人相手にチェスをしている男性がいた。「寄付を」と小箱に記されていたので、何かの募金活動かと思いきや、https://www.stuttgarter-nachrichten.de/inhalt.schachspieler-vom-schlossplatz-schach-hat-mein-leben-gerettet.a2b8976f-9e3a-4986-9bfa-b853f4053352.html で2017年7月の地元紙記事を読んで、おおよそ次のような方だということがわかった。

ドイツ生まれのカザフスタン人の同氏は、長らく宿無しの生活をしたのち、職場で事故に遭い片目を失う。その後、悪い友人とアルコールによって「地獄のようだった」時間を過ごした。

しかし幸運にも、チェスを教え、チェス盤を贈ってくださった方がいたお陰で、チェスを通じて生活リズムを建て直し、すでに11年以上、アルコールを口にしていないのだと。ほとんど毎日ここに場所を構えて、通行人相手にチェスをしている。チェスすることで人との繋がりが持てる。ここにいることの市の利用許可も得ている。勝ったことを記した彼のリストは、増えるばかりである。

少ない日では4ユーロ、多くても一日、50ユーロほどの稼ぎだが、彼は仕事ではなく、自分と短い時間、チェスをしたことに対する寄付を求めているのだという。社会的な弱者向けの公共住宅(Sozialwohnung)に住む彼は「自分は物乞いではない」と、お金を乞うたり(この同じ日に、中央駅近くで「50セント(約65円)持ってないか。」と物乞いにあった)、瓶集めをする人とは違うことを強調する。「チェスは人生そのもの、時に黒、時に白だ」「ときどき、不幸な人もやって来るが、その時はわざと負けてやるんだ」とも語る人生哲学を持つに至った彼の遍歴を、何となく想像する。

なるほど、いわゆる大道芸人の延長で理解すればいいのだろうか。こうした人を認め、受け入れる社会のようなものに驚かされ、そこにあるだろう強い寛容さを思う。

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# by walk41 | 2018-02-19 13:31 | ドイツのこと | Comments(0)

「タバコを止めよう」なのだけれど

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ドイツでのタバコの値段は6〜7ユーロほど、800〜900円と日本のそれよりずいぶんと高いと思う。けれど見かける限り、タバコを吸っている人は珍しくないし、マーケットでは写真のように、いろいろな銘柄が売られている。

興味深いのは、他の国でも見かけることだが、タバコのラベルにおどろおどろしい写真が掲載されていることだ。「タバコはあなたの肺を冒します」という文字と血を吐く写真、「タバコは心臓発作を引き起こします」とチューブに繋がれてベットに横たわる写真、「タバコをやめましょう、愛する人がさらに生きるために」と棺桶に納まる男性とその傍らに赤ん坊を抱いた女性の写真、が並ぶ。

非喫煙者としては、この写真を見てまだ吸うかと驚かされるが、喫煙者にとってはあまり効果がないのかもしれない。日本でも激しく議論されている、飲食店での喫煙について、ここで全面禁煙となっているのはありがたいけれど、レストランの戸口に立つスモーカーの姿はいたって普通の光景でもある。

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# by walk41 | 2018-02-19 00:43 | ドイツのこと | Comments(0)

なぜ冬でも青いのかしら

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この季節にドイツに来るといつも思います。真冬なのに、どうして大地が青いんだろうって。国境の一部を除けばほぼ丘の国なので、こうした風景にあふれていますが、きっと日本で生えているものと種類が違うのでしょうね。

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# by walk41 | 2018-02-18 01:28 | ドイツのこと | Comments(0)

よりよい授業のために

榊原禎宏・清水久莉子「授業を観るとはどういうことか-ドイツにおける『エビデンスにもとづく授業診断とその開発方法』の提案」『京都教育大学紀要』125号、2014年)を記して、早くも4年近く経った。この論文は、ドイツの常設文部大臣会議(KMK)から委託された研究として、2011年に始まったEMU(エビデンスにもとづく授業診断とその開発方法)を紹介するものだったが、このプロジェクトは継続、進化しており、20178月現在、Ver.6.02を数えている。

私の見るところ、このプロジェクトは授業の主観的性格と客観的指標という基本問題を視野に入れており、狭義の方法論に留まらない魅力があると思う。そこで、ブログの場を使って少しずつこのプロジェクトを辿り、いまに至る理念と具体を捉えたい。よろしければ、みなさんにもおつきあい願えれば有り難いです。


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診断:よりよい授業へ

授業の質を向上させるためのKMKのプロジェクト“EMU”が、試行を成功裏に終えて全州でスタートした。

授業の強みと弱みを知ることなしに、その質を上げることは考えられない。試行を成功裏に終えたEMUプロジェクトが、新たに全州でスタートした。それは、教員の診断能力と授業の質を向上させるものである。EMUは“エビデンスにもとづく授業診断の方法”であり、KMKの委託によりKoblenz-Landau大学のProf. Dr. Andreas Helmkeを中心に教育科学者によって開発された。

EMUには、2つの梃子(レバー)がある。その一つは、授業に関する卓越した調査と実証的評価および他者との意見交換である。これに加えて、ガイドブック、授業評価に関する質問紙、そしてデータを素早く僅かな労力で処理し、可視化できるソフトウエアが役立つ。EMUは、三角測量法、反復測定、基準化された構成にもとづいている。三角測量法については、質問紙とソフトウエアによって集計され、互いの関係を見比べる生徒、授業者自身、授業を観察する同僚教員という三者の視点が盛り込まれる。反復測定は、授業改善のための努力が実際に効果的かどうかを示すものである。基準化された構成は、学校の時間と資源に応じて、授業診断を最初は小規模に始めることを支援する。たとえば、授業の進行、学習を支援する風土と動機づけ、明瞭さと構造性、活動性、結果という5つの眼目で構成される診断のための質問紙について、一回だけ、あるいは一点についてから始めることも可能だ。授業を見る際の観点を加えることや、観察する際の課題を加えることも問題ない。ソフトウエア、質問紙とガイドブックは、www.unterrichtsdiagnostik.info にて無料でダウンロードできる。

連絡先

Koblenz-Landau大学 発達心理学・教育研究 Prof. Dr. Andreas Helmke

E-Mail: helmke@uni-landau.de


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# by walk41 | 2018-02-16 11:21 | ドイツのこと | Comments(0)

教員就職率

この指摘は、おそらくどなたかなさっているだろうから、珍しいものではないと思う。けれども、およそ論理的に意味があるとは思われない数値が公表され、データとして一人歩きすること恐ろしさを感じるゆえ、強調したい。

文部科学省がまとめる「卒業生の大学別就職状況(教員養成課程)」がある。教員養成大学・学部関係者には馴染んだ、また頭の痛い数値だが、大学ごとに卒業生のうち何人、何パーセントが教員として就職したかを示している。大学単位に数値を並べ替えさせて、どの大学が教員就職に強いか、あるいは弱いかを噂話させ、大学の宣伝や「もっと頑張れ」メッセージの材料にしようというものだ。

このデータの問題は次の点にある。これだけ問題のある統計も、少ないのではないかと思う。

①データの括り方が不適切。ここでの教員としての就職は、学校の幼稚園、初等・中等教育学校の教員(養護教諭、栄養教諭を含む)として採用、および臨時的任用(病休、産休、育休などの代替教員等として任用)された場合を合わせたものである。たとえば、前者が6割、後者が1割の場合と、極端だが両者が逆の場合、意味はまったく異なるにもかかわらず、数値としては同率になる。ちなみに、ここで任用とあるが、任用とは公務員の場合のみ該当する行政用語、私立学校に採用された場合は含まれるのだろうか。

②資格取得と就職との区別がない。教員としての就職は、教員資格の取得とは別物である。たとえば、ドイツのように州政府が試験を行って教員資格を認定する場合は、試験が同一だから、その合格率を競うことに意味がある。日本では医師免許や看護師免許がこれに相当する。しかし、日本の教職課程は課程認定制度のもとでの「開放制」と大学での単位取得によって免許要件を構成するから、大学間の差異をなくせない限り、比べても意味がない。それを敢えて比べるのならば、大学入学者に対する卒業者(免許取得者)の割合を並べることは可能だろう。つまり、4年間でしっかり単位を取らせて卒業させた大学ほど優れているという評価である。けれど、はたしてこれは適切だろうか。

③就職者数は採用者数であり、変動する。②とも重なるが、教員への就職は、主として公立学校を人的に管理する都道府県と政令指定都市の教育委員会の採用数に依る。教職人口ピラミッドを大きな背景に、各年度の採用者数が決められるのであり、35年間ほどの年齢層を含む教員構成に対して、大学ができることはほとんどない。大学が頑張ろうと(逆に言えばそうでなかろうと)採用数の前にはどうしようもないからだ。景気が良くなれば卒業生の採用率は高まり、景気が悪くなれば低下するのと同様である。いずれの分野であれ、大学の努力が採用数に直結するわけではない。

ちなみに「○○大学は教員養成を熱心にされているので、無条件で○人は採用しましょう」といった、贔屓も見込めない。戦前の指定学校や許可学校の制度を復活させるならば話は別だが、大学間の平等性を前提にする限り、無理な相談である。

以上のような無茶をはらみながら、数値化され、もっともらしいデータとして跋扈することになる。「ウチは教員就職率○年続けて、上位三位に入っています」と高校生向けの宣伝に使われたり、「ウチは下から数えた方が早いくらいだから、教員採用試験を意識した授業に励むように」と教授会あたりで発言があるかもしれない。

こんな状況を放置して恥ずかしげない官僚主義の悪弊(一度決めると、簡単には変更しない)、あるいはこのデータの発案者と支持者の学力の低さに愕然とする。こんなものを比べても仕方ないやん。



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# by walk41 | 2018-02-15 14:15 | 大学のこと | Comments(0)

授業参観で頑張る?

私はfacebookを研究室向け専門に使っているが、「友達」か「知り合い」絡みでそれ以外のニュースが流れてくる。その中に、現職小学校教員が自分のクラスにて子ども向けに板書したものがあり、「真実は細部に宿る」を実感した次第だ。

その主旨は、年度さいごの授業参観に向けて頑張ろう、日曜日の授業だけれど「チームの団結」で精一杯に取り組もう、結果はともかくもやりきろう、というもので、授業を観られることが何かの発表会かのようであることに疑いを持たない、あまりにもナイーブなものであった。

この教員にとって、授業参観は観に来る人のためのパフォーマンスであり、それを「よりよい」ものにするには、児童に懸命さやチーム的態度が必要とされる。さて、こうした立論は何に根拠づけられるのだろうか。学校評価にも連なるが、保護者に来校願うのは、なるべく普段の子どもの様子を知ってもらうことであり、いつもとは異なるショー(見世物)のためではない。この点は、たとえば、「日曜日授業参観事件」とも整理される東京地裁1986.3.20の判決文中の以下が参考になる(http://appli.attack-defense.biz/ から拝借)。
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また、授業をチーム活動かのように捉えるのも素朴に過ぎ、厳しく言えば罪深い。野球から始まったチームという言葉は、追いかけるべきボールが一つであり、当事者の目や身体はすべてそちらを向くことを前提にしている。送りバントのように、チームのためには自分が犠牲になることもやむを得ない。もちろん監督の采配で、代打を起用することも日常である。

これを授業に当てはめると、どうなるだろうか。授業について行けない子どもは静かにするのがチームのためである。みんながわかっているかのように見せるには好都合だからだ。あるいは、できる子どもをもっぱら指名し、何を言い出すかわからない子を当てないことが授業者には肝要である。とくに授業の後半やまとめの局面においては。

ちなみに「学びの共同体」についても同じである。共同体と名乗るならば、全体のために犠牲になる個もありうる。敵と味方の区分、見方内部のヒエラルキー(階層・階級)やリーダー/フォロワーの存在も想定してこそである。ところが、当事者の議論ではそのようなものは欠片すら見当たらない。「みんなで仲良し」の域を超えない。安倍政権が「お友達内閣」なのと同様、こちらは「お友達サークル」である。

あれ。でも、これでよかったのだろうか。授業で何をするためのチームや共同体の存在なのかしら。それは、どんな目標を実現するための場や集団なのだろうか。近代社会は個人の利益を最大化することが使命ではなかったのかな。

さて、授業や教室がこうした要件を備えておらず、そもそも「みんなのための」ものでもないのに、ファンタジー豊かに言葉遊びをすると「チームの団結」「共同体」と的外れで、頭でっかちの(机上の空論)話に終始する。物言わぬ「いい子」は、こんな物語につきあわされていることに気づかないか、気づいても我慢を強いられるだけである。大人になって「騙された」と声を上げるのが関の山だ。

こんな教員がどれだけいるのかわからないけれど、「何となく」こうしたものを板書したり、しかも不特定多数が目にしうるSNSに挙げるのはやめてほしい。

自分を「先生」と思うことの弊害は、かくも大きい。




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# by walk41 | 2018-02-12 21:06 | 授業のこと | Comments(0)

新刊案内

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今月末に発刊の運びとなりました。「教育をひらく研究会」と称して、大学を跨ぐメンバーで年に3回、勉強会をしており、その一つのまとめとして、ようやくこの形になりました。5人の論考が納められています。表紙はドイツの中等学校の生徒たち、休み時間の様子です。彼の地の学校の雰囲気をよく伝えていると思います。

Amazonのページに入っていただき、この書名で検索してもらえれば、今ならば予約注文ができます。税込みで1500円です。ともすれば当たり前に見える公教育を各テーマから問い直し、組み直そうという試みです。その狙いに成功しているかどうか、ぜひご高覧願いコメントをくだされば幸甚です。どうぞよろしくお願します。


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# by walk41 | 2018-02-12 17:25 | 研究のこと | Comments(0)

教員もブランド服を

東京・銀座にある中央区立泰明小学校(336人)が、新1年生の「標準服」をイタリアの高級ブランド「アルマーニ」のデザインのものに変更するとして保護者から苦情が出ている問題で9日、和田利次校長が記者会見した。和田校長は「銀座にある学校だからこそ進めてきたが、丁寧な説明をしながら進めるべきだった」と述べた。だが、新標準服の採用を撤回する考えはなく、「ご理解いただき、購入者側の判断で購入してほしい」とした。学校が着用を推奨するアルマーニの標準服は、上着やズボンなどで計約4万5000円と現在の2.5倍。セーターなどを加えると8万円を超え、保護者から批判や疑問の声が出ている。【大迫麻記子、稲垣衆史】(毎日新聞、20180209

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これに対して「銀座だからいいんじゃないか」とか「義務教育でこれだけの保護者負担を強いるのはおかしい」、あるいは「外見から入っても内面は変わらない」、はたまた「(子どもの発達を見越して)丈が余った状態でアルマーニの服を着るなんて言語道断」、「地元業者と癒着しているのでは」との意見も飛び出しているが、これに一つ付け加えたい。

標準服とはいえ、児童にブランドものを学校として推奨しているのだから、そこで働く教職員がまさかユニクロ、しまむら、GUHMなどで調達した服を着てこないだろうね、ということだ。「子どもは教育される側、大人とは別だ」という言い分は通じないよ。ブランドものの回りに見合うのはブランドもの、そうでなければ格好悪い、それだけが理由だ。

ファストファッションで身を固めた教員がまさかブランドものをまとう子どもを指導するなど、バランスが悪すぎるだろう。「身近なアイテムをきちんと装うことの大切さを感じることも、国際感覚の醸成につながる」との校長の言もあるとのことだし。

さて、出勤のためのブランド服が公費の対象になるかどうかは、導入を決めた校長に教育委員会に掛け合うように言えばいい。もっともサラリーマンは基礎控除があるから、ここで何とかしろと返されるだろうけれど。そもそも、失礼ながら、ブランドが似合う体型や姿勢を大人の側が維持している/できるのだろうか。






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# by walk41 | 2018-02-11 23:28 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

ゆるキャラ?

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スーパーマーケットで求めました。この甘夏みかんはどこからかしらとwebを捜すと、ちゃんとホームページにたどり着きました。熊本県産のみかんです。こんな真冬に採れるのですね。有り難いことです。

さて、この下の方に示されるゆるキャラは何というのかと、探れどもさっぱり見つかりません。きっとミカンからみだと思うのですが、どなたかご存知の方はご一報を。

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# by walk41 | 2018-02-11 19:21 | Comments(0)

論理を鍛えるー形式陶冶

見せてもらった授業は算数だったが、私には形式陶冶的、つまり単元を学ぶではなく、単元で(を通じて)学ぶという点では、論理の授業だったように思われた。

課題は「4人がこれまでに走った記録をもとにして、マラソン大会での監督として誰をあと一人出場させるか」を問うものだった。それぞれの平均タイムを出せば、代数としてはすぐに答えが出るけれど、そこに人が選ぶ際の基準が含まれるために、いろいろな選び方がありうることを、生徒は実感できたと思う。

最初に、誰がいいのかを各自で選ばせる。きっと平均値に着目しするだろうから、1つに答えがまとまるかと思いきや、はじめから4つにばらけたことが興味深かった。同調圧力、付和雷同を求める雰囲気がきっと少ないクラスなのだろう。

そして、さらに面白かったのは、4人のいずれを選ぶかの立論が、必ずしも数学的な範疇に留まらず、実社会的な人間の推論をも含むものであったこと、また、そうした立論を授業者がありうることと受け止めていたことだった。

生徒たちから出た理由づけは、平均値のより低い人を選ぶ(平均してもっとも速い)から始まったが、その後すぐに、最大値と最小値を除いた平均値をもとに主張した生徒が現れた(これは国際競技などでの採点方法に似ている)。

あるいは、最大値のみを除いた平均値を主張した生徒もいた。それは、大きな外れ値は体調不良などのアクシデントによるものだろうという推測にもとづく。なるほど一理あるな。と同時に、こうしたアクシデントが起こりうる人ならば、不安材料だから起用すべきではないという意見も出た。

はたまた、この立論も面白かった。すなわち、最大値と最小値の差がもっとも小さな人が、安定的に記録を出せる点で信頼できるというものだ。この発想には驚かされた。ただし、これにも別の生徒から、安定的であっても遅ければ仕方がないと反論も出た。これももっともな主張である。

他にもこうした立論が述べられた。3人は10回の記録が上がっていたが、1人は欠席して8回のみ。ここに注目すれば、欠席するのは体調不良だろうから、この人を選手に選ぶのは危険だという消去法的な発想である。以上の説明は不確かな部分を含まざるを得ないので、生徒からは「まあまあ」とか「たぶん」とも発言されたが、授業者はそのまま受け止めていたあたりも、狭義の算数ではないなと感じた次第だ。

授業を見ながら、自分ならどんな別の推論ができるだろうかと考えてみた。たとえば、8回のみの記録がある人はまだ体力を温存しているだろうから選ぶべきではないか。あるいは、回数を重ねるほどにタイムが短くなっている人に、今後の伸びしろを期待できるのではないか、と。

こうして授業が終わったが、終わりの際に、自分の立論をうまく語彙的に説明できず、クラスメイトに補ってもらっていた女の子が、小さく拍手をした様子が、とても印象的だった。一つの答えに終着しないテーマの面白さ、その検討の過程を交通整理する授業者の力量(観察、判断、行為)のいかんがが問われる、と思わされたことだった。



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# by walk41 | 2018-02-09 10:59 | 授業のこと | Comments(0)

「いい授業」

小学校の算数の授業を見せてもらった。

単元や指導上の目標についてはさておき、いいなと思ったのは、授業者と児童とのやりとりに不自然さが少なく、それなりの葛藤を含みつつ、授業時間が流れていったことだ。

公開授業は、拝見していて無理があるというか、妙なやりとりの見られることが多いように思う。授業者に子どもから肯定的な発言が続く、あるいは普段とは違うのだろう押し黙ってしまう。「みんなどうしたん、いつも通りやっていいんやで」と、授業者が思わず声を上げてしまう様子がまま見られるのだ。私が下品に言う「見世物」としての授業がこれに当てはまる。

それに対してこの授業は、児童から「わからない」「できない」と複数の声が出る。授業者も「かまへんで」「ええよ」と返す。あるいは、児童が説明していることに対して「もっと大きな声で言ってくれるかな」とか「わからへんわ」といった発言もする。普段の授業の様子が想像できるようだった。

公開授業に慣れている児童ゆえでもあるだろうけれど、多くの衆目を浴びながらなお、子どもー教員間、子ども間で「そんなことない」「なんでそうするん」と、おしゃべりが続く様を楽しく見ることができた。語彙の限られる子どもの言い間違いもやんわりと授業者が指摘し、聞いた子どもも笑って終わるといった和やかな雰囲気を感じた。

日ごろの良好なラポールに支えられる一方、正解が必ずしも明確でない問いを設定し、適度な緊張、ストレスを前提としながらおしゃべりを楽しむ、多面的にものを見る時間にする授業の良さを感じさせてもらった。

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# by walk41 | 2018-02-09 10:24 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

日本/日本人だから?

この間、福井県ほか北陸での豪雪、そして多くの車両が路上で動けなくなった災害が報じられている。一方、車の中に閉じ込められた人に対する炊き出しのほか、山崎パンの配送車がパンを無料で配ったり、餃子の王将が500人に料理を届けたりという嬉しいニュースも流れている。困難な中にあって、素晴らしい行動を取れる人と組織のあることに驚き、また敬意を表する。

ただし、この手のニュースを受けて、「素晴らしい日本人」「日本に生まれて良かった」調の、日本/日本人万歳がコメントとして書き込まれるのはいただけない。確かに、国や地域によっては騒ぎさらには略奪までもが起こったという報道を耳にすることもあるが、それはどれほど明確な違いなのだろうか。

事実をいたずらに一般化するのではなく、美談をその限りのものとして「良かったなあ」と受け止める謙虚な姿勢を保つこと、そのためにも、「これは北陸地方の人々ゆえではないか」「雪に閉じ込められている状況ならではのことではないか」と多面的に推論できる能力が必要だろう。それは「日本だから、日本人だから」と考えることと随分と距離がある。

過度に一般化してしまいがちな思考上の癖や歪みに気づき、補正できることは、生活術としても有用なはずだ。それは「白か黒か」と二分法に陥ったために払われた夥しい犠牲を思い起こせば了解されるだろう。「買うか買わないか」「敵か味方か」「損か得か」と日々迫られる事柄に対して、第三の選択肢を持つことができれば、救われることが少なくないからだ。

このためには、「だいたい」「ふつう」といった口癖を控えること、自身の経験に縛られて、ステレオタイプの論理化をしないように「子どもの目」のような新鮮な眼差しを注ぐこと、何より、そうした態度を持ちうる健康な身体を保持することが肝要ではないだろうか。





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# by walk41 | 2018-02-08 15:19 | ことばのこと | Comments(0)

結露と遊ぶ

このところの冬一番の寒さのために、室内と屋外の温度の差から、結露があちこちで見られます。朝起きたら、屋内の窓枠からしたたり落ちそうな水滴をふきとるべく、格闘されている方もおられることでしょう。

そんな結露を楽しんじゃおうと、子どものころ、ちょっとした落書きをしませんでしたか。

私もこの歳になって、やっと(なお?)遊び心を持ち続けたいなと思っています。

寒い毎日ですが、みなさんもいい時間を過ごしてくださいね。
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# by walk41 | 2018-02-06 22:30 | Comments(0)

話してこその言語

言語という言葉は、英語でlanguageがあてはまるだろうけれど、なぜlanguageというのかということを、これまで考えたことがなかった。

英語で語源辞典を引くと、ラテン語のlinguaに遡るとのことで、これはtongue(舌)にも通じる言葉、つまり、話す、会話するという意味に至るという説明である。

なるほど、言語とは話す-聞くことから始まったと思い起こせば、読む-書くという動作はずっとあとに来たことがわかるだろうに。なぜか現在、言語と聞くと、書かれたもの、読むべきものをイメージしがちなほどに、言語が記号として捉えられているのである。

ここで、言語を話し言葉と見なしてみよう。すると、次のような特徴が浮かび上がってくる。話ことばは、人によって違うのが当たり前である。声の高さや低さ、速さや遅さ、イントネーション(抑揚)、アクセントやリズム、そして表情が多岐に及ぶ。あるいは、話ことばは瞬発性が高く、予めつもりできない。これもまたPDCAサイクルと相性が悪いのだ。さらには、話しぶりによって、伝わるイメージや事実さえも変化(へんげ)しうる。「きのう、お寿司を食べてね」と話す人の脳裏には、「おばあちゃんが作った素朴な巻き寿司」が浮かんでいるのか、「カウンター席に座って、回らない寿司を、時価で食べた握り寿司」が映っているのか。それは、話しぶりで判断されることになる。

言葉の意味が書き言葉に縛られないことは、いずれの言語であっても同じだろう。"What kind of fruit do you like?" の答えが、"I like apples" だとしても、それが、自分だけの好みとしてのリンゴなのか、それしか提供されないから仕方ないためなのか、はたまた、自分はそうでもないのだが、母親が「美味しいね」と連発するからそういうことにしておこう、という理由なのかは、話しぶりで見極めなければならない。これを記号としての文字だけで、正しく判断するのは容易ではない。

言語を記号的に捉えると、客観性、没人格性、保存性(記録性)といった特徴が明らかである。これに対して、話ことばは当事者(少なくとも話者)の主観性、優れて人格的性格、一過性(一回性)のものとして説明される。言語が話すことに由来する点を確かめるならば、昨今の文字中心とも言うべき言語状況は、どのように評価できるだろうか。

さて、教育の文脈において「生き生き」や「活発な」「主体的な」様子に重きを置くならば、言語は話す-聞く、まさに生きた言葉として捉え直されるべきである。生きた言葉には、旬があり、有効期限もあり、話し手の数だけ種類がある。これに対して、「いつでも、どこでも、誰に対しても」有効な書く-読む言葉が、生気を失っていることは、当然の論理的帰結である。




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# by walk41 | 2018-02-05 23:00 | ことばのこと | Comments(0)

言語はツールか

小学校に英語教育が本格的に導入されようとする今、英語に限らないが、言語と学力の関係を考えることは、より重要だと思う。

ある考え方によれば、言語はツールとのことで、これを使いこなす、また達成状況を把握、評価できるようにすべきという論理が示される。算数と同じように、英語についても、できたかどうかを確かめなければならないと言うのだ。けれど、はたして言語はツールだろうか。

ここでツール(道具)という時、少なくとも二つの区分が必要である。それは、①主体を離れても成立する道具か、あるいは②主体と不可分な、つまり主体を離れると道具としては成立しないか、である。前者は時計や自動販売機のようなもので、電気さえあれば時を刻むし、ボタンが押されれば何か飲み物が落ちてくる。そこでは、誰が時計を見ようとも同じ時間を示すし、誰が押しても飲み物が出てくる、つまり、そこに主体によって変化するようなことは想定されていない。

これに対して後者は、鋏や鍬のようなものである。これらは立てておいて勝手にものを切ったり、土を耕してくれるわけではない。しかも、人が同じハサミを使っても、使い手によって結果は大きく異なる。切り絵職人が見せる技もあれば、いわゆるぐちゃぐちゃに紙を切る人もあるだろう。クワも同様で、「これでは畑にならないよ」と嘆かれるような遣い方もあれば、その道のプロの扱い方もある。同じ道具なのに、雲泥の差があるのだ。

そして、この前者と後者の間には、漸進的なゆるやかな段階が多くある。たとえば、自動車は、ある程度以上の年齢で、教習を受けていれば、誰が操作しても発進、走行、停止はできるけれど、いわゆるドライビングテクニックには、初心者からベテラン、プロと大きな差が見られる。この点で自動車は①と②の間に位置する。

では、言語はどんな意味での道具だろうか。語彙と文法の限り、誰が話しても同じようになることは確かだろう。"What time is it now?"は、いわば常套句であり、とりあえずはいじりようがないと言える。この点で言語は、①の意味での道具だが、ならば、パッケージ化できる、つまり、翻訳機など機械で代替できる可能性がある。話し言葉はもちろん、書き言葉でも昨今の技術革新には著しいものがあり、母語と違う言語へのやりとりは、今後いっそう容易になるだろう。人間の頭をgoogle並にすることは不可能だし、またそれが望ましいわけでもない。walking dictionary(歩く辞書)という褒め言葉は、もはや博物館ものである。

ならば、道具としての可能性は②についてになる。その人だからこその言葉がより促されるような状況を作り出すこと。たとえば、主体は回りの環境から影響を受ける、内弁慶や人見知りという言葉があるように、親密圏ではスムーズに話のできる人が、初対面の人とはそういかない、恥ずかしがったり、反対に尊大に振る舞ったりすることがあるのは、主体が実は曖昧なことを示すものだ。私じしん、長らくドイツ語になじめず、その学習に何度も挫折したが、拙い私のドイツ語に辛抱強くつきあってくれ、適度にアドバイスをくれたドイツの友人たちがいたからこそ、それなりに操れるようになったと思っている。

つまるところ、これからの言語は、パターンの決まっているアプリケーション的な部分はやがて機械化されるから、特に人間が訓練する必要は薄れる。また、パターンの設定が難しく、臨機応変にさらに創発的に生成する部分は、健康的な主体とその環境に委ねられるから、いわゆるコミュニケーションの力と態度を身につけることが望ましい。自分の周りの環境をより望ましいものにするのは、観察力と心配りだろう。自身がどれだけ優秀でも、回りから忌避されて相手にされない人がいるんだと実感したことから言えば、言語に限らず、広く学力は個人で完結するものではなく、あくまでも関係性として捉えられるべきものである。

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# by walk41 | 2018-02-03 21:11 | ことばのこと | Comments(0)

学校論の難しさ

「小規模校の功罪、関係や序列不変 窮屈、逃げ場ない懸念」(福井新聞、20180202)を、興味深く読んだ。

全校生徒が60人といった規模の小学校では、上級生が下級生の面倒を見る、みんなが互いを知っているといった良さが見られる。その一方、クラス替えがない、ピラミッドのような人間関係が変わらない、閉鎖的な関係ゆえのいじめも起こりうるといったまずさもある、という記事だ。

小学校は全国におよそ2万校あるが、そのサイズは決して一様ではない。「標準規模」とされる1学年2ないし3クラスに当てはまるのは、実は少数で、いまや1学年1クラスの、いわゆる単級学年の学校が多くを占めるはずだ。また、新興地や才再開発地域など、人口が急増しているところもあり、そんなところでは教室が足りず、プレハブでしのいでいるという話も聞く。つまり、小学校というものの大きさ(全校児童数、学年児童数、さらには学級児童数とこれらに対応する教職員数)をおおよそであれ、想定することがとても難しいのだ。もちろん、統計的に平均規模を算出することはできるが、この場合、平均は最頻値や中央値と大きく異なっており、意味あるデータにはなりえない。

だから、こうした小学校、さらには中学校(高校は規模に関する限り、入学試験を通じた生徒数の設定と管理がある程度、可能である)についての議論が成り立ちにくいのは明らかだろう。「小学校というものは…」と言われても、児童数1000人を超える規模から10数人さらにはもっと少ない学校もある。教職員数もこれらにおおむね比例するから、校長以下、養護教諭、事務職員までで10人に届かない小学校から、1学年5クラスや6クラスの教職員総数がきっと50名を超える小学校まである。

小学校だけでこれだけ分散しており、これに中学校ほかが加われば、どんな場所について論じているのがわからなくなるのは当たり前である。もちろん、人数だけではない。性差、年齢別構成と別の変数が加われば、きっと、どこにウチと似たような学校があるんだと叫びたくなることだろう。

かくして、学校についてのお喋りはそれぞれを語ることはできても、一般化、普遍化はきわめて困難、くわえて論者それぞれの学校経験があるので、話はさらに錯綜する。一般化できない議論に再現性を期待できるはずもなく、「こんな学校があるね」の域を超えることはない。

そこで問われるのは、これらの上に、どのような学校についての議論が可能か、またそれにはどんな意味があるかを整理することである。学校論に関する議論の作法を身につけることが必要なゆえんだ。


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# by walk41 | 2018-02-02 15:31 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

小さな子どもはこわれやすい

宿題忘れた小3男児、担任に壁押しつけられ骨折

 福岡市西区の市立小学校で昨年12月、3年生の男児(9)が担任の男性教諭から暴力を受け、鎖骨を折る重傷を負っていたことがわかった。男児側から被害申告を受けた福岡県警は傷害容疑で捜査を始めた。市教委によると、教諭は昨年12月19日、男児が算数の宿題を忘れたため、午前中の休み時間にやるよう指導。しかし、男児がその後も宿題をしているように見えなかったことから、胸ぐらをつかんで廊下の壁に押しつけるなどしたという。男児は午前の授業中に痛みを訴えて保健室で処置を受け、同日午後、帰宅後に保護者と一緒に医療機関へ行き、鎖骨骨折と診断された。学校側は同日、男児と保護者に謝罪した。市教委の聞き取り調査に対し、教諭は壁に押しつけたことを認めたうえで、「しっかり指導したいという思いだったが、感情的になってしまった。深く反省している」と話したという。男児は現在も痛みを訴えて登校しておらず、教諭も心労による体調不良を理由に、今月12日から欠勤しているという(読売新聞、20180131)。
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給食を無理やり食べさせ男児吐く、女性教諭処分

 東京都教育委員会は30日、男子児童が嘔吐おうとするまで給食を食べさせたなどとして、公立小学校の女性教諭(40)を戒告処分にした。発表によると、女性教諭は2014年1月、余っていた給食をお代わりするよう児童全員に命じ、男子児童の一人が「もう食べられません」と訴えたが、無理やり食べさせ、嘔吐させた。同年4月~11月には、女子児童から鉛筆を盗んだと疑われた別の男子児童に対し、十分に事実確認せず、「とったんじゃないの」と決めつけるなど不適切な指導をした(読売新聞、20180131)。
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東京の事例は児童の学年がわからないが、低学年・中学年くらい、つまり10歳までくらいだとすれば、まさに小さな子どもは心身ともにこわれやすい、心して接しなければいけないと思わされる。

「先生の言うことは絶対」「先生は神様のようなものだった」とは、教育学部に入学してきた学生が小学校時代を回想して少なからず口にする言葉である。家族に教員がいたりして、学校という場に馴染んでいれば、大人の光と影の両面を多少とも見ることができるだろうが、いわゆる素で学校という世界に放り込まれれば、小さな子どもはひとたまりもないと思う。

身体は自分より遙かに大きく、声も大きく、自信ありげに威圧的に接してくる。しかも自分のことを「先生」と呼び、疑いの余地を与えもしない(これに対して、私のような大学教員は「わからないなあ」と連発するものだから、学生から「わからないばかり言わないでください」と叱られる始末である)。

さらに、何をするか、どこまでやるのか、そもそもどこに座っているべきなのか、と内容と時間そして空間を全面的に支配するのが、教室にいる教員という立場である。こんな存在から真顔で迫られたら、小さな子どもは木っ端みじんなこと必至だろう。いったい、どんな抵抗やさらには反論ができるというのだろうか。

大人と子ども関係の典型のような、教員と小さな児童という構図は、前者優位の後者に対する圧倒的な暴力あるいは権力関係として説明できる。だからこそ、頼まれた訳でもなく、くわえて、少なくない子どもを預かる教員は、自身に対する相対的認識とこれに適ったセルフマネジメントの能力がいっそう必要だ。

実はそうでもないのに「社会は…」とか「人間って…」とわかったような発言を自重すること、「教育熱心」を肯定的だけでなく否定的にも捉えるバランス感覚を持つこと、「子ども理解」と自身が向ける眼差しと比べるべくもないほど、多くの眼差しを自分が向けられていると知ること、このように「先生然」としないように努めること、「教師らしくない教師の良さ」を常に考え携えることではないだろうか。

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# by walk41 | 2018-01-31 13:50 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

開店祝いの花の持ち帰り

みなさんはご存じだったでしょうか。お店の開店祝いに届けられた花輪の花を、近所や通り掛かりの人が抜き取って持ち帰っても構わず、むしろ縁起物だからと花が残っている方が寂しいのだという指摘までもあるということを。

きのう今日に開店したばかりだなあと思われるお店の前には、お祝いの花輪が所狭しと並んでいました。まるで花屋さんかのようなさまに家人と驚いていたら、その前で堂々と花を抜き取る女性がいるではありませんか。えっ、盗んでいる? 何かの冗談だろうか。それとも通行人をねらった「ドッキリカメラ」の類か、と思ったほどに、手慣れた感じでたくさんの花を持ち帰っていったのです。

「何をされてるんですか」と尋ねる勇気はもちろんなく、いぶかしげに帰宅して、webで関係する発言を探しました。そうしたら、何と同様の問いかけが見つかりました。それらを複数検索した最大公約数的には、地域差もあるだろうものの、縁起物なので一向に構わないという話が成立しているようです。それなりに長く生きてきたけれど、まったく気づかずにきたことの一つだなあと、知らなかった自分に驚いた始末です。

もっとも、その店の前には「イベント中のため、花の持ち帰りはご遠慮ください」と張り紙がしてありましたから、今の持ち帰りはまずいのでしょうが、この張り紙が出るくらいに、持って帰るのは当たり前ということでもあるのですね。

何となく思っている習慣や価値基準、まあ当てにはならないものですね。自分の物差しだけで世の中を判じてはいけないと、改めて思わされたことでした。ああ、びっくりした。

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# by walk41 | 2018-01-30 21:58 | 身体 | Comments(0)

ギムナジウムがもっとも好まれた学校種(ドイツ語記事)

バーデン=ヴュルテンベルク州ニュース、20180124(https://www.baden-wuerttemberg.de/de/service/presse/pressemitteilung/pid/gymnasium-bleibt-beliebteste-schulart/)より

2017/18年の学校進学は、全体として見ればふたたび安定的である。91444人の4年生の44.2%はギムナジウムに進み、前年比0.4%と微増となった(2016年は43,8%、2015年は43,4%)。

実科学校も同様に34.2%と、昨年度33.7%から少し増加している。また、職業実科学校/基幹学校は引き続き、減少傾向が明らかであり、最新の進学率は5.7%(昨年は5.9%)である。さらに、「社会的な学校(GMS)」は昨年の13.4%から0.9%低い、12.5%が進学することになった。

保護者は引き続き、基礎学校からのアドバイスに従っている。

ギムナジウムに進むことを決めた生徒のうち、基礎学校から職業実科学校/基幹学校への進学を勧められたのは1.5%(昨年は1.3%)、実科学校への進学を勧められたのは11.3%(昨年は11.7%)、そしてギムナジウムへの進学を勧められたのは87.2%(昨年は87.0%)である。

また、職業実科学校/基幹学校への進学を勧められた生徒が24.9%(昨年は25.2%)が実科学校に、実科学校への進学を勧められた生徒が56.2%(昨年も同率)、ギムナジウムへの進学を勧められた生徒が18.9%(昨年は18.6%)をそれぞれ占めるのが、実科学校への進学である。これを受けて文部大臣Dr. Susanne Eisenmannは「学校選択の状況は、政治に対して、特別に高い生徒の異質性に適った学校として、実科学校に資源の追加を強化すべきことを示している」と述べる。

さらに、職業実科学校/基幹学校への進学を決めた生徒の91.3%(昨年は92.0%)が基礎学校のアドバイスに従っており、実科学校への進学を勧められた生徒が7.5%(昨年は7.4%)が職業実科学校/基幹学校に、またギムナジウムへの進学を勧められた生徒はわずかに上昇して1.2%(昨年は0.7%)が職業実科学校/基幹学校への進学者の内訳である。

社会的な学校(GMS)への進学を選んだ生徒の65.3%(昨年は64.3%)は職業実科学校/基幹学校への進学をアドバイスされ、26.5%(昨年は27.3%)は実科学校、そして8.2%(8.4%)はギムナジウムを勧められた。「それぞれのGMSに多様な生徒がいる状況から言って、ギムナジウム上級段階(11-12学年)をGMSに創設することにより、私たちは、この学校種に対する十分な展望を持つこと、さらには信頼を勝ち取ることができる」と文部大臣。 GMS West in Tübingen と Gebhardschule in Konstanz では、2018/2019年からGMSに初めてギムナジウム上級段階を設置することが可能となった。

基礎学校から中等学校への全体として安定的な進学状況は、学校大改革の時期の後、学校構造における静寂と信頼がもたらされていることを明らかに示していると、文部大臣。「我々はさらに、教育の質の向上とデータに基づく追跡に関する多様なアプローチを背景に、既存のデータをより正確に分析するつもりだ。これにより、追加的な資源プランをより負担少なく建てることができるだろう」と期待を示した。

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ドイツの学校制度に関わり少し補足する。ドイツでは基礎学校4年生を終えると、子どもは大きく分けて、ギムナジウム、実科学校、職業実科学校/基幹学校、社会的な学校、のいずれかの中等学校に進学する。この州では2011/12年以前は、CDU(キリスト教民主同盟)による政権のもと、基礎学校での成績にもとづく保護者に対するアドバイス(勧告)は絶対的なもので、それに従い、中等学校を選んでいた。これに対して、保護者の教育権を侵害するもの、あるいは子どのも能力を固定的に捉えすぎと批判をしていたGruene(緑の党)とSPD(社会民主党)が政権を獲得することにより、このアドバイスは保護者に対して義務的なものではなくなり、あくまでも参考として提示されるにとどまるようになった。その後、2016/17年の州議会選挙の結果、GrueneとCDUの連立政権になったものの、この位置づけは変わっていない。

今回のニュースは、ギムナジウムへの進学はこれを勧められた生徒が87.2%を占め、実科学校については同じく56.2%、職業実科学校/基幹学校については同様に91.3%の生徒が、基礎学校からのアドバイスに沿う進学行動をとったことを報じている。つまり、ギムナジウムと職業実科学校/基幹学校については、ほとんどの生徒がこれらの学校を勧められたことに沿ったのに対して、実科学校を勧められた子どもは分化しており、ギムナジウム、職業実科学校/基幹学校、そして社会的な学校(GMS)へと散らばっている。このことは、実科学校の教育の在り方に大きな影響を及ぼしているだろう。

また、GMSへの進学を決めた生徒のうち、職業実科学校/基幹学校を勧められた生徒が微増、ギムナジウム、実科学校を勧められた生徒が微減という状況は、「GMSからどのような教育修了(卒業)も可能」という政府のスローガンが現実味を帯びなくなる可能性も示している。日本では9年生まで「学力差」がない(はず、あってはいけない)という社会的な「無言の了解」が得られており、高校進学に至ってようやく、階層分化するのに対して、ドイツではこれが5年生に上がる段階で明らかになっている。このことの良さと拙さはそれぞれあるが、私は公然としているドイツに、勇気と「割り切り」を見る思いがする。






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# by walk41 | 2018-01-27 20:15 | Comments(0)

雪だるま

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この歳になって初めて雪だるまを作りました。家人の趣味に合わせたモードになったけれど、ご近所から「写真を撮っていいですか」と尋ねられたくらいなので、可愛くできたとしましょう。

みなさんは寒い冬、どんな風に楽しんでいらっしゃいますか。

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# by walk41 | 2018-01-27 12:34 | Comments(0)

ゲルピン

家人が遠藤周作の著作集を借りてきて読んでいる。その一つ「わたしが・棄てた・女」(1963年)の文中に、「ゲルピン」という言葉が出てくる。ドイツ語の貨幣(Geld)とピンチ(危機)あるいは「貧」の組み合わせと言われる、お金のない様を指した言葉だ。

それを見ていて思い出した。以前の勤務地で知り合った化学の教授で、ご自身が学生だった頃に、お金が足りない時に「ゲルピン」とよく言ったものだと話をしてくれた。遠藤周作のこの作品にも出てくるが、お嬢さん(ドイツ語でMaedchen)を「メッチェン」と言っていた件も聞いた。

私より20歳以上は上の方だったかと記憶する。その彼が学生だったときに、ドイツ語をかじっていたのは、きっと学生のシンボルでもあったのだろう。哲学、医学ほか多くの学問がドイツ語圏からやってきていた中、ドイツ語に引っかけた造語がなされたのは、ごく自然なことだったと思う。

「インテリ」(知識人)としてのステータスシンボルが、外国語を知っている、さらには操れることだったかつてと比べれば、今ははたして何がこれに相当するのだろうか。学生帽はもちろん学生服も着られなくなり(ごく一部の「お嬢さん大学」に残されるばかりとなり)、街に出れば誰が学生かわからないほどだ。

大学生が高校生の延長に位置づくだけならば、ステータスシンボルは不要である。こうした大衆化(民主化)されたことの良さを喜ぶべきか、頭でっかちでも「ちょっと違う」と思わせるものがなくなったことを嘆くべきか。ええっと、大学ってどんな場所でしたっけ。


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# by walk41 | 2018-01-26 22:12 | ことばのこと | Comments(0)

熱さと温かさ

北九州市若松区の市立小学校の男性教諭(20歳代)が今月23日、校内で6年生の男子児童の顔を蹴り、けがを負わせていたことが市教委への取材でわかった。児童は市内の病院に入院中で、福岡県警若松署が教諭から事情を聞いている。市教委によると、教諭は、体調不良を訴えて保健室にいた児童に、教室に戻るよう指示。その際にトラブルとなり、廊下で児童の顔を蹴った。児童は一時、意識を失い、病院に運ばれたという。市教委には保護者から「鼻付近の骨が折れた」と報告があった。 教諭は同日、校長らとともに病院で、児童の保護者に謝罪。24日から自宅謹慎中で、学校の調査に「感情的になってしまった。けがをさせて申し訳ない」と話しているという。市教委は「事実関係を確認し、捜査の動向を見極めながら厳正に対処する」としている。(読売新聞、20170126)

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「教師としての熱意」「情熱あふれる指導」「ダメなことはダメという熱血漢」と、教育に関わるお喋りには「熱さ」が含まれる。「熱を帯びる授業」といった言い方もある。教育への懸命さ、熱心さは、教育者の強いエネルギーを象徴し、これをより放出し、子どもに照射するかのような状態を望ましいと見なす価値観を成立させているのだ。


ただし、教育的文脈における熱意は、教員だけではどうしようもないことも踏まえなければならない。熱を照射する対象がモノであれば、おおむね操作できるけれども、ヒトはそれほど素直でなく、天邪鬼になることがある。相手への反発や茶化しから、白けたふりができるからだ。


相手との関係が成立してこそ熱意が有意義ということがわかっていなければ、「一人芝居」「空回り」とも言われる事態に容易に陥る。では、相手との関係を成り立たせるのは何か。それもまた、温かさ、思い、教育的愛情といった「熱」であることに異論はないだろう。「熱い」と「熱すぎる」の違い、「熱さ」と「温かさ」の違いを知り、さらに行為することは、かくも難しい。




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# by walk41 | 2018-01-26 16:15 | 身体 | Comments(0)

ハッピーに終われない

授業も大詰めを迎えた。レポートが提出され、学生間でコメント交換をし、私も読んでコメントをくわえて、学生に返すまでに達している。「失礼な学生」で記したようなことはあったにせよ、それ以外は期日をしっかり守って臨み、よく励んだね、とハッピーに終わるはずだった。

ところが、蓋を開けるとそうではなかった。その理由では期限内にレポート提出できないことを認められない、提出しただけでコメント交換をしていなければ最終までたどり着かない、と伝えていたにもかかわらず、あるいは、前回の授業から1週間もあったのにその間、何も連絡をせず、なぜこの段に至って、という学生が現れるのだ。これはいったいどういうことだろう。

家人に愚痴ると、レポート提出と合わせてコメント交換をある授業時間に限ることが遠因ではないかと言う。確かに、その時間に来れない場合がある、ましてやこの寒い冬の時期に体調を崩すことは十分にありうることだろう。とはいえ、圧倒的な学生はそれに間に合うように段取りをして当時に臨んでいるのだから、不公平が生じるのではないかといたく懸念する。

また、大学時代の経験で提出したレポートが返ってきたケースはほとんどない中で、レポートを返すことを盛り込むからこうしたことが起こる(出しっ放しにすれば、期限内であればいつでも出せるのだから、の意味)のではないかとも指摘されたけれど、大昔の自分の経験、出しっ放しの不快さを繰り返したくないから、それはできない、そもそも学生へのフィードバックにならないと、是とはできない。つまり、極力この時間に来てもらわなければならない。

ブラックとも言われるアルバイトに従事している場合もあるだろう。他の授業での負荷で体調不良になることもあるだろう。けれどその上で、予め指定した日時には、どうにかでいいから「帳尻を合わせる」ことも一つの能力だと思うのだ。段取り力がより問われる教職に関わる授業ならばなおさら。

とまれ、そんなこんなで著しく消耗することになった。大上段に構えれば、授業は教員と学生との二人三脚で作っていくものだろう。ならば、互いの信頼と努力に基づかず何が授業かということになる。一つの授業の形として、学生たちには「こんな変な授業もあったなあ」と思い出してもらえるようであれば、嬉しく思う。



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# by walk41 | 2018-01-23 13:08 | 大学のこと | Comments(0)

「させていただく」

昔のファイルを整理していたら、1985年の夏、大学院に入ったばかりの頃、学会にて共同研究を発表した際の原稿が出てきた。初めての学会参加と発表で、読み上げることもできるように用意していた発表原稿である。

その冒頭にこう記されているではないか。「以下、続けてご報告させていただきます」。

なんと、「自分の動作を指して、”させていただく”はおかしい」と吠えている自身が、この通りの発表原稿を用意していたこと、しかも今から30年以上も前にである。しかもご丁寧に、自分の発表を「ご報告」と指している。「”以下、続けて報告いたします”、で十分」と今なら叫ぶこと間違いない。

「なんや、あんた、問題やっていう言い方を、しっかり遣うてるやん」と批判されても返しようがない。

自分の記憶がいかにいい加減かということ、またこの表現が最近現れたとも言えないと、知ることになった。あ-あ、情けない。


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# by walk41 | 2018-01-22 15:29 | ことばのこと | Comments(0)

正直

週末をつかって、学生のレポートを読み終える。仕事だから当然だが、けっこう骨が折れる。

その作業の中にあって、懸命に取り組んだ学生が多いことはとても喜ばしい。フォーマットの整い、キーワードの活用、論理的展開、アクセント豊かな語尾、学生自身の変化とテーマとの関係が明確、といったレポートは、読んでいて嬉しくなるほどである。

さて、こうしたレポートを読んでいて、受け止めに迷うのが「正直」という言葉の遣い方である。「正直無理だと思う」「正直精神的に病むと考える」、あるいは「正直に言えば」という記述だが、自分としてはなかなかしっくりと来ない。なぜそう感じるのかを考えてみると、私が次のように理解しているからだろうなと気づいた。

社会科学(と称する)の分野の記述は、複数の事実の関係を捉える(説明する)ことを目指すものであり、そこに事実を観察する人間の存在は、直接には現れないか、現れたとしても、せいぜい控えめでしかない、というのがマナーである。人文系であれば、「私は…感じた」「そんな感情を僕は抱いた」と書いても一向に構わないのだけれど、社会の出来事を説明可能なように想定し、それがよりできることを目標にする分野では、そうした観察者、当事者の主観性はできるだけ抑制されるべきと考えられる(もちろん、そうしたことは不可能だと、参与観察の立場があるし、社会を科学的に捉えることはそもそもできないという立場もある)。

こうした文脈にあって、自身の受け止めや感情の表出と親和性の高い「正直」という言葉を見ると、場違いに思うのだろう。感想、雑感を記す中では何とも思わないこの言葉が、可能な説明に臨むべき箇所で見られることに対して違和感を感じるのだと思う。

科学としてより純化されていることが必要な自然分野を想定すれば、明らかだろう。津波やハリケーンの研究レポートに「正直、こんなに大変だとは思わなかった」と記されていれば、調査後の雑記としては読めても、「本論中には入れるなよ」と、突っ込みの入ること必至である。学生にも少しづつでいいから、こんな感覚を培ってほしい。



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# by walk41 | 2018-01-22 10:37 | ことばのこと | Comments(0)

アニミズムと神社

実に遅ればせながら「初詣」に出かけた。神社に行ったが、かといって神道を信じているわけではない。ハローウィンやクリスマス、七夕と同じように、季節の節目に何かしようかなという域を出ず、風物詩の一つとしてである。

本宮を訪れると、赤ちゃんを抱く人を含む数人が館に上がっているのが見えた。特別に依頼したのだろう、その少し前に鎮座した神官が祝詞をあげる間、ひたすら頭を垂れている。幼子の健康祈願に来られたのだろうか。

それを尻目に進むと、小さな祠が続き、学業成就の神様、夫婦円満の神様、台所の神様と、いろんな神様がいるものだと感心する。こちらは大半を「へえ-」と前を通るだけなのだが、一つ一つを回り、お賽銭を投じて柏手を打ち、深々とお辞儀をする人たちもいた。そのために神社に来ているのだから、当たり前と言えばその通りだが、アニミズムと神道の奇妙な共存が見えて興味深い。

井上寬司『「神道」の虚像と実像』(講談社新書、2017)を紹介する講談社HP http://news.kodansha.co.jp/20170503_b02 によると(自分で読んでおらず、すみません)、神道は、中国から輸入された仏教の向こうを張る必要から「日本的なもの」として形成され、その一方で多神教としての「神仏習合」の経験も長らく積み、さらに、明治期を前後して政府主導による「国家神道」になることで、「日本古来のもの」というフィクションをとくに戦争期に勝ち取った(「神風」)と見なせるようだ。

つまり、表面的には、靖国神社を頂点とする神武天皇以来の「万世一系」という物語性を保持しつつ、実態としては習俗的な、ましてや昨今はグローバル化の波を受けて、より鷹揚な場として位置づけられている(「来る人は拒まず」)と見るのが妥当なのだろう。特段、神道に法りという訳ではなく、アニミズムすなわち、どこにでもおられる八百万神を崇めることの延長として、とはいっても、少しは改まった場としていわば折り合いを神社がつけていると見れば、私のような不信心の者もやって来れるというものである。

お参り、詣で、お祈り、参拝-人々の精神世界を理解することは難しく、またおもしろい。

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# by walk41 | 2018-01-21 17:20 | Comments(0)

見て見ぬふりをしている自分

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上の画像は、http://masterlow.net/?p=217 より拝借。

映画「この自由な世界で」(2007年、イギリス)をインターネットで観た。イギリス作品ということで米語とは違う英語が新鮮だった。

さて、この作品ではイギリスにおける移民、難民問題が正面から扱われており、ポーランド、ウクライナ、ルーマニア、コソボといった東欧やロシア方面、あるいはイランなどからやってきた人々の状況が描かれる。ドイツ、フランス、オランダやイタリアといった国の名前は挙がらない。同じヨーロッパでも扱われ方は違うこと、さらにその周辺の国々に対する、イギリスのおおよその世論を出演者に代弁させているように思われた。

こんな映画を観ると、「順法精神(コンプライアンス)が大切」といった行政官の物言いや、「みんなが規則を守らないと世の中が乱れてしまう」と物知り顔でいうような教師の言が、いかに安定した、平和な社会にいるからこその世界観に基づいているかがよくわかる。それは、守りたくても生存が、生活が優位するから、守れないことを想像できない、あるいは「嫌だったら、国に帰れ」がいかに酷い言い方かを共感できないことと、さして違わないと思う。みんなが守るべき法や法律があって当たり前と思う「脳天気さ」(「豊かさ」)を疑わない/疑えないか、知っていて知らぬふりを決め込んでいるか。いずれにせよ、褒められた話ではないということだ。

同フィルムの中にこんな感じの台詞がある。”国では教師や看護師、医者だった連中が、ここではウエイターの仕事しかない。しかも最低賃金でだ。” 日本は移民を「最劣等生」なほどに受け入れていないので、一見、「一億総中流」に見えなくもないが、実際には「不法移民」がいるだろうし、彼らだからこそ担ってくれる仕事もあるだろう。

選挙権/被選挙権を持たず、そもそも住民であると胸を張ることもできず、それでいて消費税ほか税金はしっかり取られるという不利な立場の人たちがいることを薄々知りながら、知らないふりをしている自分がいる。「なんとなくだけど、そうじゃないの」と常に流れ込んでくる「常識」に便乗してしまう自分が、見ようとしなければ見えない事柄に対して、知らないふりを決め込む。「知っているふり」をするのは、新しく知ることを恐れているのか、それとも怠惰が勝っているからなのか。自分が批判されることをいかに遠ざけないでいられるか、と考えさせられる映画だった。



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# by walk41 | 2018-01-20 23:26 | 映画・ドラマ | Comments(0)

「失礼な学生」

オヤジだなあと陰口をたたかれかねないような、「若者は失礼」とか「学生は失礼」とは言わないが、「失礼な学生」は残念ながら存在する。ここで言う「失礼」とは、いわゆるマナー違反という意味よりも、いたずらに他者の手間ひまをかけさせる振る舞いを、わざわざすることを指している。次回以降の履修する学生に周知するためにも、以下、事例を記しておきたい。思い当たると思う学生には、ぜひ振り返ってほしい。

○レポート提出の日、肝心のレポートを持参していないことを申し出ず、授業者がどうしたのかと声を掛け、無言でいる様子に、さらに授業者が「出せなかった理由を何とか立論、説明できないのか」と「弁明」を促す事態。

○理由を認めた上でのレポートを持参すべき約束の時間までに現れず、夜になって部屋に戻ると、メモも付けられずレポートが投げ入れられていた。その後、このことの説明もなく、何よりも提出後に学生がすべき「レポート交換」に進めないにもかかわらず、そのまま放置。

○授業が始まる十数分前に欠席の連絡、「レポートを出せないのでどうしたらいいか、連絡ください」と返信を要求。

学生にも事情があるのかもしれない。けれど、ちょっとした配慮でできることもあるはずだ。気をつけていても他者の手を煩わせることがあるのだから、互いに忙しい身でもあるのだから、より丁寧に関われればと思う。



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# by walk41 | 2018-01-20 00:30 | 大学のこと | Comments(0)

標準学力テスト

今度、教職課程のテキストが改訂されるということで「ドイツの教育課程」を全面書き直しする中で学んだ。ドイツは今や、標準学力テストへの対応を前提に学校教育が動いているのだなあと。


この動向は、先にご紹介した、常設文部大臣会議(KMK)による「教育スタンダード」が牽引役になっているが、くわえて州レベルでも同じようなテストが整備されていることを確かめることになった。その一つが、北部ドイツに位置するハンブルク州で、次の説明が州HPに掲載されている(https://www.kermit-hamburg.de/)

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「遂行能力を打ち立てる」(„Kompetenzen ermitteln“ – KERMIT)という標語のもと、ハンブルク州のすべての基礎学校、都市部学校とギムナジウムは、2012/13年以来、標準テストを実施している。KERMITを通じて、生徒の学校的な達成がドイツ国家の教育スタンダードおよびハンブルク州の教育課程に適っているかを確かめることになる。テストの結果は教科ごとに、生徒の強みと弱みとして教員に知らされる。KERMITは、以下の学年と教科で行われている。


  • 2年生: ドイツ語、数学
  • 3年生: ドイツ語、数学(=学習状況3)
  • 5年生: ドイツ語、数学、自然科学、英語
  • 7年生: ドイツ語、数学、英語、自然科学
  • 8年生: ドイツ語、数学、英語またはフランス語 (= 学習状況 8)
  • 9年生: ドイツ語、数学、自然科学、英語
  • 10年生: (都市部学校のみ) ドイツ語、数学、自然科学、英語
  • ------------------
いかがだろうか。小学校2年生から標準テストを受け、毎年のようにそれが続くという学校生活である。もちろん、テストそのものは1日くらいで終わるかもしれないけれど、それに向けた日々の授業が行われると想像すれば、ドイツ各州の学校教育法に定められる「教育上の自由」との関係も含めて、学校での教育と学習のありようが変わってきているのかもしれない。

「予想外の展開」「ライブとしての授業」「脱線話の面白さ」といった偶然や蓋然にも重きが置かれる教育関係だが、標準化志向はそれぞれの児童・生徒さらに教員にどんな場をもたらすことになるだろうか。

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# by walk41 | 2018-01-18 11:25 | ドイツのこと | Comments(0)

ドイツ常設文部大臣会議(KMK)創設70年(ドイツ語記事)

ドイツは16の州で構成される連邦共和国、多くの権限は州(Land)に属する(連邦基本法、第30条「この基本法に規定または許可のない限り、国家の権限の行使と国家の責務の実現は州の事項である」)。この点では州こそが国家(Staat)であり、連邦と州の関係は、中央政府に対する地方自治体ではない。

そして、教育に関する権限も基本的に州にあり、連邦が関与できるのは「教育支援の規定および学術研究の促進」(同法、第74条(1)13)に示される範疇とかなり限られる(州の文化高権)。これらの法的関係の上に、各州には文部省(Kultusministerium)に相当する行政組織が置かれている。

もっとも、ドイツ全体として教育や学術分野の調整が責務であるという認識のもと、州をまたぐ必要な基準を設けるために、各州の関係省がメンバーとなる常設文部大臣会議(KMK)が1948年から設置されている。そこでは、州間の相互認定の前提である成績評価および卒業資格に関する合意、学校・職業教育・大学の質保証に向けた協議、教育・科学・芸術分野に関わる協力がなされている。このKMKに関するニュースが配信されたので、紹介する。------------

バーデン-ヴュルテンベルク州ニュース(20180115)

70年前、ドイツ諸州の教育大臣が初めて集まった。それ以来、常設文部大臣会議(KMK)は、州レベルの全国家的な課題を実現するべく設置されている。ベルリンでは記念式典が行われた。

1948年、 Stuttgart-Hohenheimにおいて、ドイツ教育大臣が初めて合同会議に集った。大臣たちは当時、今日のドイツの文化政策における連邦主義的構造の基礎を築いたのである。それは、州レベルの全国家的な課題の実現に向けた誕生であった。

この素晴らしい合意を思い起こして各州の大臣、評議会メンバーベルリンで式典を行った。式典ではBaden-Württemberg州の Dr. Susanne EisenmannからThüringen州の文部大臣Helmut HolterがKMK代表を引き継いだ。式辞は前連邦憲法裁判所長官 のProf. Dr. Hans-Jürgen Papierが述べた。

Thüringen州の文部大臣は「70年を迎えてなおKMKは古い鉄(altes Eisen)ではない。私たちは、互いに協力し合ってドイツの教育政策を成功裏に導く、生き生きとした機関である。デジタル化、国際化、統合が、今日そして今後取り組むべきテーマである。私の任期中の重点の一つは、民主的教育だ。すべての生徒が参加、協同決定、互いの連帯が私たちの社会の基本的かつ当然の要素であることを理解すべきである。子どもと青年が民主主義に懸命となることを希望する」と発言した。

社会的対話に向けた重要な衝動

この70年間、KMKはドイツ全体で生活することと学ぶこととの関係を合わせることに成功した。諸州にとってこのテーマは未来においてもまた一つの挑戦である。なぜなら、ドイツ社会は生きものであり、常に変化のもとにあるからだ。KMKは、ここで社会的対話に向けた重要で決定的な衝動(インパルス)を設定する。昨年2017年にDr. Susanne EisenmannのもとでKMKが職業教育の強化を決定したのはその一例である。

Baden-Württemberg州のDr. Susanne Eisenmannはこう述べた。「州の間での交流は洗練されており、かつ大変刺激的な過程である。昨年の職業教育のさらなる内容的発展、連邦レベルでの教育スタンダードの導入、アビトゥア試験問題の協同蓄積、あるいはデジタル社会に向けた各州の教育戦略は、私たちKMKの仕事のよい結果である。70周年を迎えたKMKは、互いに学び、革新的で実りのある多くの教育上の試みを生み出す連続的な過程でもあることを示している。しかしながら、KMKは現在、大きな挑戦に直面している。私たちは早急に戦略的に、教育制度の共通的な質的開発のための新たなスタンダードを設定、定義しなければならない、KMKが未来に向かってさらに勇気と新たな道を歩むことを願っている。最後に、なぜ教育の連邦主義こそが正解なのか、これがドイツの教育政策の問題ではないことを、人々に説明しなければならない。」

KMKについて

KMKはドイツでもっとも古い専門大臣会議であり、教育、高等教育、研究あるいは文化的機会に関して各州の文部大臣が恒常的に決定を行う場である。KMKは教育と文化の領域における全16州の目標と利益を策定するとともに、すべての州のための自身の責任を自主的に引き受ける。その際、KMKは連邦、EU、欧州評議会、OECDそしてアメリカ合衆国に対して、諸州の利益を代表する。KMKはベルリンとボンの書記局に対して現下の業務に対応するよう命じる。

第一回ドイツ教育大臣会議は、2月19日と20日にStuttgart-Hohenheimで開かれた。1948年2月の会議には、すべての占領地域から参加があった。再統一の後、1990年12月7日にBrandenburg, Mecklenburg-Vorpommern, Sachsen, Sachsen-Anhalt und Thüringeの各州も参加した。ベルリン州は東西統一以来、ひとつの州である。(https://www.baden-wuerttemberg.de/de/service/presse/pressemitteilung/pid/gemeinsam-verantwortung-tragen-die-kultusministerkonferenz-wird-70-jahre/)


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# by walk41 | 2018-01-17 17:07 | Comments(0)



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