学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

ホームページ開設のお知らせ

拙ブログをご覧くださっているみなさま、

整理が十分でなかったり、感情が先走ったりと恥ずかしいことですのに、拙い文章をいつもご高覧いただき、ありがとうございます。

この度、家人の多大な助力を得て、ブログも含めたHPを以下に設けました。ご興味のある方には、論文ほか小さな記事を読んでもらえますし、ドイツの学校ほかギャラリーも加えていくつもりです。

私の分野から「よりよい」学校教育についての議論と実践が広がりまた深まりますよう、いっそうのご懇意をお願いいたします。

榊原禎宏HP: https://walk411.wixsite.com/yoshihirosakakibara


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# by walk41 | 2017-07-24 10:28 | Comments(0)

かぶる

この間、学期末の学生のレポートを読んでいる。

前から気になっているのだけれど、「かぶる/被る」という言葉の遣い方に強い違和感を覚えており、この表現がレポートの中にも出てくるので、なぜ気になるのだろうかと考えてみた。

私の授業では、学生のレポートをクラスメイトである他の学生がコメントする(紙上対話、「赤ペン先生」と呼んでいる)スタイルを取っており、最終レポートでしっかりそれができるように、授業間にミニワークと称する小さな課題にて「赤ペン先生」の経験を重ねている(2回生向けの授業では、今期5回行った)。そこに記される、「私の考えと被っていて…」という表現が、とても気になるのだ。

そこで「かぶる」を引くと、従来の意味といっていいだろう、頭や顔などにそれを覆うものを載せる。また、全体をすっぽり覆う。「帽子を―・る」「面を―・る」「毛布を―・って寝る」「雪を―・った山」のほか、写真で、現像過程の失敗、露出過度やフィルムの欠陥などのため、フィルムや印画紙の画面が曇ってぼやける。「この写真は―・っている」。あるいは、すでにある色や音などの上に、さらに他の物が加わる。「日陰の撮影でやや青の―・った画像になる」「会話の音に電車の通過する音が―・る」、「一方の発言と、もう一方の発言が重なる。「同時にしゃべりだして言葉が―・る」」(goo辞書)という説明が見つかる。

ところが、「意見がかぶる」「考えがかぶる」は、これらと違うのではないか。その理由を考えたところ、次のような感じかなと今は思う。

①辞書に載る意味での「かぶる」は、色や音、発言あるいはフィルムといった具体物の重複である。客観的にダブっており、それにより色や音などが変質する。

②これに対して考えが「かぶる」とは、同様の考え、近い考えを指しており、抽象的な話である。よって、それらが「かぶる」ことがあっても、互いに影響を及ぼすことはない。独立したままである。

何ら意識していた訳ではないけれど、こんな点で自分勝手に言葉の線引きをしているのかもしれない。だから、私は違和感を拭えないのだ。

もちろん、これまでも書き散らしているように、言葉は時代によって移り変わるから、昔を懐かしんでも仕方がないことは承知している。ただ、移り変わりの過渡期だからなのだろうか、頻繁に聞こえるように思われ、より鬱陶しさを感じるのかもしれない。まさに、言語は思考を支配する、違和感のある言語に触れると落ち着かない、といった辺りか。

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# by walk41 | 2017-07-23 17:13 | ことばのこと | Comments(0)

生きる力を奪う人

ある院生から大学院の様子を聞く(京都教育大学の学生ではない。念のため。)

その君の指導教員の対応が恐ろしくまた貧しく、大学院生活を続けるかどうかを悩むほどだという。授業に15分から30分ほど遅れてくるのは茶飯で、この間は、授業前日の深夜、Lineで「休講にします」と連絡があったらしい。それを読むことなく大学に来た学生は当然のことながら脱力する。その後、その教員と会った際も「ごめんねぇ」と説明なく済まされたとのこと。なぜ休講だったのかの説明がないままに。前日の夜に「疲れたから、明日の授業は休講にしよう」と決め込んだということか。

ゼミの様子も同様で、無断で遅れて来ては、学生が用意したレジュメとはおそらく関係しないだろうお喋りに時間を費やすそうだ。論文指導の時間は文字通り、論理に関わる話をしなければならないのに、「私は感性の人だから」「ネガティヴなことは考えず、楽しくやりましょう」と嘯くとも聞いた。授業回数の半分を学生の自己紹介に使ったり、シラバスとは全く違う卒論の紹介やこれからの論文構想について話して、と進めるような教員も別にいるとのこと。どこかの教科書にある目次を写したかのようなシラバスと実際の授業とが違っていることは「臨機応変な対応」とは異次元であり、二重帳簿そのものだ。

さて、先の教員に戻ると、授業回数を確保するために土曜日にも当てられている授業について学生が尋ねると、「やらない、やらない。土曜日なんて」と返したという。おぞましき「教授」である。

学生を論理的に鍛えずに、何が論文指導なのか。「名目上の時間だから」と話すとも聞く。自らが所属する組織に対する、入学する学生に対する不誠実さ、さらに公的資金を使っている点で納税者に対して給料泥棒といってよい。

こんな人と時間を過ごすことで、関係する学生はいたく生きる力を奪われることだろう。論文への展望が開けず、その「問題教員」と会わなければいけないと思うだけで滅入るような精神的ダメージを受けつつ、学生を続けなければならないという理不尽を与えられるのだから。いったい何の罰ゲームなのだ。

先の拙ブログで「なるほど」と記したが、生きる力は学校教育業界では教育を通じて獲得するべき/できるものと措定されがちだ。けれど、実は自らの生きる力は他者によって促され、また潰される。自分だけで生きる力を得ることは難しい。だから、自分の生きる力がより高まるように、自身の周りの環境を整えるべきだが、それでも叶わないことは少なくない。

この君のように、不本意に不幸な環境に置かれた場合、ほとんど為す技は残されていない。大学の自治や教育の自由は、厳しい自律性に支えられる。それに耐えることのできない「教員」をどうすればいいのか。おまけにそういう教員はまま、自分を客観視できない。「いい教員」だと思っていたりするのだから。

これに対しては、情けないことであるが、学長や学部長、あるいは校長でも答えられない。難問である。どうすれば、「学校教育の質保証」は成り立つのだろうか。

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# by walk41 | 2017-07-21 22:25 | 身体 | Comments(0)

生きる力

家人と話をしていて、身内ぼめながら、とても感心することがあった。

曰く「生きる力とか言うけれど、誰かのために頑張ると思えれば、その人が生きる力を与えてくれているってことでは?」。

鋭いです。教育議論はともすれば、自分が持つべき力という前提でおしゃべりをしがちだけれど、他者のために、他者を励みに、生きる力を得るという立論は、実にしっくりくるではないか。

コミュニケーション力ほか、「〜力」は今なお興隆しているけれど、こうした言葉の遣い方のそもそもの前提をどれだけ問うているだろうか。自分でできることなど、たかが知れている、他者によってこそ力が引き出され、自身が生きる力を結果的に得ているという実際により注目するのも大切ではないだろうか。

だとすれば、生きる力を持つとは、自身のあり方もさることながら、自分の周りに自らのやりがい、生きがい、喜びをいわば用意すること、そうであって初めて、自身が生かされる、と導ける。個人単位で「学力」を測ることの愚かさ、周りがあってこそ自分が存在するということに気づかない幼さを反省することができる。



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# by walk41 | 2017-07-19 23:27 | ことばのこと | Comments(0)

教員の有給休暇

ドイツにてフィールドにさせてもらっている学校があり、今度また伺うので日程等の打ち合わせを電子メールでしている。

日程が決まったメールの末尾にこうあった。「いい夏休みを。こちらは3週間、クロアチアで過ごします。」

今さらながらだが、年度変わり目の期間(ドイツの学校は9月から新年度)について、こんなお知らせができる校長って。

ちなみに彼は、第1学年から第10学年までの生徒、しかもキャンパスが二つに分かれている学校の校長である。在籍する生徒は数百人、教員も50人は下らない。こんな学校の校長がかくも長きの(日本標準で)休みを公然と取るなどと考えられるだろうか。

そんな話を大学院生にしていたら、こう返ってきた。「知り合いの高校の管理職の先生の話ですが、こういう立場になったら、外国はおろか長期の旅行も諦めなければいけない、と聞きました。」

さもありなん。そんな勤務状態で、斬新なアイディアや思い切った意思決定などできるのかしらん。教員の職能成長と唱導するのならば、グローバル時代に外国経験の一つもできるように。ところで、これって誰に言えばいいのかな。

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# by walk41 | 2017-07-18 22:14 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

学校に行くのは我慢を学ぶため!

年に3回、遠方からも集まってもらい研究会を開いている。今回も大変盛り上がり、貴重な時間を頂戴した。

休憩時間のお喋りに、こんな話を聞いた。

小学校2年生の女の子、すでにローマ字入力でキーボードが打てるほどなのだとか。きっと賢い子どもなのだろう、「学校がつまらない」と連発するのだという。なるほど。

そんな折、保護者、子ども、担任教員の三者懇談会の席で、教員はこう応えたのだと。「◯◯ちゃん。学校がつまらないって言うけれど、我慢することを学ぶのも大切よ。」

中学生の後半ならばまだしも、彼女は小学校の低学年である。学校生活がつまらないと言わせている自分を振り返るのが、教員が一番にすべきことだろう。なのにこのセリフ。まさに給料泥棒である。

学校はつまらないところだと教員が公言していること、そして、一方で「楽しい学校、面白い授業」と吹聴していることとの矛盾にまったく無自覚なこと、少なくともこの二点で恐ろしいことだと思う。ここにも「子ども相手の仕事」をしている人が見える。

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# by walk41 | 2017-07-16 13:33 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

倉敷宣言(2016.5)

みなさんは、ご存じだったろうか。2016年5月に岡山県倉敷市にて、G7教育大臣会合があり、カナダ、ドイツ、フランス、イタリア、英国、米国、日本、そしてEUとOECDからの参加もあって開かれたことを。

不勉強なことながら、私はこのことをつゆ知らず、「国立教員養成大学・学部、大学院、附属学校の改革に関する有識者会議」の議事録に目を通していて、そこでまとめられた「倉敷宣言」が引用されていたことから知った次第だ。

この会合は、「今、世界が置かれている経済的・社会的な状況、今の子供たちが今後置かれることになる新しい時代を見据え、①「教育の新しい役割」、②「その役割を果たすための具体的な教えや学びの向上・改善策」、③「新たな国際協働の在り方」について、各セッションに分けて議論」(http://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/detail/__icsFiles/afieldfile/2016/05/31/1371532_4.pdfより)し、成果文書として先の宣言を採択したのだそう。

その中に、次の一文がある。「教職の向上と支援:資質能力向上のための職能開発。教師の社会的地位や待遇の向上に向けた取組推進。教員自身の異なる文化の人々と協働することができる力やグローバル化に対応した能力の重要性。異文化・異宗教、異なる言語的背景を持つ児童生徒をグローバルな視点から教育で きる教員をG7各国が協働して育成。効果的かつ十分な教員配置の重要性を確認 。」この方向に賛成だが、同時に難しさも感じる。

たとえば、「異なる文化の人々と協働することができる力」とあるけれど、学校外はもとより、まず学校内に異なる文化が存在するから、校内でいかに協働できるかが吟味され、それが促されるような方略や構えが求められる。教育はある意味で、自身の信念の開陳あるいは吐露のようなところがあり、しかも、自分のやっていることがそれなりに正しいと思わなければできない部分もある。

なぜって、「正しい教育」など本質的には存在しないにもかかわらず、それがあるかのように仮構することで成立する部分が多いからだ。「正しい言葉づかい」「マナーや礼儀」「望ましい集団生活」「生きる力につながる学力」など、歴史的にはほんの一時の限られたアイディアに過ぎないのに、それが「ずっとそうだった」かのように見なす、振る舞うことで、学校の秩序が維持され、教員の面目が保たれるからである。

だから、倉敷宣言のような方向でこれからの教職を考えるのならば、教職に就く人には、児童・生徒に対する愛情と合わせて、これと時に反する突き放した距離感とそれを可能にするメタ認知、感情のマネジメントのよりできることを求めたい。「一人正義」や「熱すぎる教員」といった「自身に対する相対的感覚の欠如」は、「異なる文化の人々と協働することができる力」を阻害する。この力は、自身の小ささ、頼りなささを自覚した上で、他者から学ぶ、他者に対する尊敬の念を伴うものだろう。他者を軽んじたり、ましてや蔑視していては、他者とともにあることの幸せなど、感じようがないからだ。

結局のところ、平凡かつ困難な日々の振る舞いによって自身が鍛えられるのではないだろうか。自分から挨拶する、笑顔で接する、厳しいけれど楽しい場づくりに心を砕く、こんなことが先の力にも繋がることではないかと改めて思う。そして自分もそうありたいと願う。

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# by walk41 | 2017-07-15 10:14 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

学校教員が部活動顧問を担うこと

部活動のあり方については、教員の働き方、安全管理、生徒の健康、推薦入試との絡みなどの観点から論じられているが、教員と生徒との距離(感)という点からも考えられると思う。

授業にて、学生からの提案を受けて部活動のあり方を話した際に、次のようなエピソードを聞けたのが印象的だった。この君は、高校で運動部系の部活に入っていたが、その学校の教員でもあった部活動顧問の授業では「決して寝ない」という不文律が、部員の間であったという。

それは顧問に対する敬意の現れかと思いきや、あまりそうではなかったようだ。むしろ、授業中の態度が不真面目と判断されることで、なれるかもしれないレギュラーの座を失いたくない、顧問に「いい生徒」と思われることで、部活動上も有利に立ちたいという思惑のあったことを知らされて、なるほどと思ったのだ。

「生徒のことをよくわかっているから、部活動指導上も有効」という声もあるが、それは諸刃の刃で、まずいこともある。割り切りができず、野球そのものへの態度や能力の評価が他のことで左右されうる。

この君からはこんな話も聞いた。定期試験中、部員と顧問で試験対策のための、宿泊合宿が行われていたのだとか。学校のものかバスを使って山の家にといったところに出かけたそうだ。くわえて、顧問以外の教員も来て、教科指導を行い、しかも「この辺が試験に出るかも」と匂わすような発言もしていたという。この部だけがこんな合宿をしていたのかどうかはわからないが、「えこひいき」と批判されても致し方ないだろう。

こうした様相を学校管理の立場から見れば、いろいろなことを懸念する。学校行事ではないのに学校のバスを使うことはできるか、宿泊時に起こりうる「問題行動」は防げるか、特定の生徒への「補習」は認められるのか、と。だから、こうしたことを事前に聞いていたならば許可することはないだろう。ということは、この件を管理職は知らなかった可能性がある。そうならば学校経営上、適切ではない。かくも、部活動が学校教育上に占める位置はグレイである。

新しい学習指導要領で、「生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化,科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等,学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,学校や地域の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行い,持続可能な運営体制が整えられるようにするものとする」(中学校学習指導要領、2017.3告示)と、文部科学省は謳う。

けれど、①全員強制加入など、「自主的、自発的な参加」とは言えないこと、②「親しませ」とはほど遠い、勝利至上主義が跋扈していること、③「勉強が駄目なら、部活で頑張れ」と「学習意欲の向上」に資するものとなっている訳ではないこと、④「教育課程との関連が図られるように」と絵に描いた餅のままであること、現在の学習指導要領と変わりない。こんなふうに形式主義に陥り、形骸化された学習指導要領で、教育課程の公共性が担保されていると言ってよいのだろうか。






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# by walk41 | 2017-07-13 15:35 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

発言/表現することに対する責任

小学校で管理職をなさっているKojiさんから、複数回コメントを頂戴した。ありがとうございます。

その一つ、「教え子を戦場に送るな」と記した拙記事について、本旨とは外れるがと断わられた上で、

>憲法改正が現実味を帯び、本気で意見をぶつけ合わなければならない時なのに、教員は公務員であるがために言論封殺。その前に各自の考え自体を持たない、正否を調べようとしない、偏った教えを子供達にすることは、もちろん行けないと思うが、教えてはいけないと言うことと、考えを持ってはいけないと言うことは、全く違うことのように思えるが、現実はそうではない。歴史問題しかり。教える側の教師が正しい知識と見解を持ち合わせずして物事の本質の何割を教えられるのだろうか。

と述べられている。このことをどう考えればいいだろうか。

いま、あるテーマの関係で、大学人のキャリアを少し調べている。その中に、エネルギー教育に関わる人がいたが、その方の名前を検索していたら、「とんでもないことを発言していて許せない」旨をブログで、名指しで非難する人のページを見つけた。福島原子力発電所の事故を受けて、あんな大惨事を引き起こしたのが「原発安全神話」でもあったのに、今なお、市民がエネルギーについて適切に理解することが大切だと述べるなど、その無責任ぶりに腹が煮えくりかえる、と言うのだ。

こんな一文に接するに、研究職はもちろん教育職も(この両者を兼ねている立場はいっそう)、自分は何を発信しているのか、表現しているのか、それは広い意味でどんな社会貢献に繋がりうるかを問わなければと知らされる。

もちろん、世の中の多くの事柄は、これが正解というものは少なく、時代や地域、立場などによって事柄自体の見え方も一様でないから、それらの交通整理を促すことも、立派な社会貢献だ。いたずらに正義を振りかざさないためにも、認識の段階ですでに慎重であるべきだろう。

その上で、何かを発言、発信することに伴う責任を引き受ける覚悟も必要となる。あとで「なんか、そうじゃないかなって思ったんで」とか「そういう言い方がもてはやされた時代だったでしょ」と、責任回避や転嫁をしない強さを持たなければ。

そんなふうに後々、責任が問われるようなテーマに臨んでいるか、火の粉が及ばないような「安全」なところでお茶を濁してはいないか。あるいは、大人であることの絶対的優位に乗じた「子ども相手の仕事」をしてはいないか、さらには、相手がすでに大人であっても、成績評価者であることに甘えて、いい加減な授業や応対をしてはいないか。

「学問の自由」や「教育上の自由」がそれなりに認められているのは、それを行使する者に自らを律する力のあることを前提にしているからである。なのに、雑談、放談や暴言を省みない態度(自分に甘く他者に厳しい)、あるいは、無頓着や迎合、歓心を買うさま(自分に甘く他者に甘い)という表現に陥ってはいないだろうか。使命を忘れ、納税者を忘れた「給料泥棒」と、誹りを受けないためにも、高い自律性を持つこと、そのための自身の広く修行が求められると、この頃いっそう思う。





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# by walk41 | 2017-07-11 16:12 | 研究のこと | Comments(0)

閾値を上げる

立ち読みで申し訳なかったのだけれど、南和友『人は感動するたびに健康になる』(マキノ出版、2012)に目を通した。間違っているかもしれないが、次のような説明だと理解した。

①自律神経は、交感神経と副交感神経から成るが、両者は随伴しており、片方の閾値を高めることで、もう片方の閾値も高まる。
②自律神経は文字通り自律しているので、意志の力で操作できるものではないが、経験を通して交感神経の閾値を高めることができる。
③心身が活動するときに作用する交感神経の閾値を上げるには、感動する、運動することが有効。
④閾値が高まることで、少量の刺激では反応しなくなる。つまり、より深く感動し、より長く強く運動できる。痛みにもより耐えられるようになる。

この説が医学的に妥当なのかどうかは素人目にはわからないけれど、多くの人が経験則とするだろう、視野の広さ、思慮深さ、大らかさ、慎重さと決断力、我慢強さ、などが相関する(無関係なものとは思えない)のならば、けっこう理に叶っていると私は思う。

仮にこの説明が事実に即しているのならば、私たちは次のような処世術を見出すことができるだろう。たとえば、
a 自分の言動を支えるのは、主体性や意志の問題でもあるだろうが、それらでも操作しえない自律神経であることを知るべき。つまり、より生理学的に自身を捉えるべきであって、栄養、運動と休息、睡眠、人間関係など、生き物として基本的な条件が自分の場合どうなっているか、に心を砕くべき。
b 交感神経の閾値を高めるには、自分の認知と感情の経験を意図的に拡げ、深めることが有効である。つまり、人間と社会そして自然とそこに生かされている自分について学ぶこと、感じることで、ひと・こと・ものに対して広く、深い理解のできる(「幅の広い人間」)自分になれる。
c これらを裏返せば、少ない刺激で反応する(閾値が低い)、つまり、すぐに身体に変化が現れ、露骨に感情を露わにする人は交換神経が劣っている、衰えているためであり、感動や運動の少ないことが考えられる。これらを得る機会をより設ける必要がある。そうでなければ「あんぽんたん」であるし、自分に疲れやすく不幸せなことだろう。もったいない。

著者の主張に対する読者のコメントには「トンデモ本」との評価も見られるので、上の説明の吟味はなお必要だ。けれど、ひと・こと・ものに対する眼差し、自分との関わりという点で、閾値の高い人がより魅力的であり、自分もそうありたいと私は思えるので、けっこうこの説に支持的だ。

「小さな出来事に大げさに騒ぎ、右往左往する」「すぐに感情を表出し、しかもその変化が激しい」「他者に批判的で自分に盲目的[こうなったのはあなた(世の中)のせいで、自分が悪いわけではない](外的帰属の場合)、あるいは、自分に批判的で他者に盲目的[こうなったのは自分のせいで、あなた(世の中)が悪いわけではない](内的帰属の場合)と、いずれも理解が単調である」といった人間像を想定するに(もちろん、自分もこれらと無関係ではない)、学び続ける姿勢を保つことの大切さを改めて教えられる。

世の中は複雑であり、想定外が多いこと(良かれと思ったことが拙くなる場合も少なくないこと)、人間は「生理的早産」をしているため後天的に獲得することが多く、時間経過の中で自身を変態させること(思っているほど、自分という存在は確かなものではないこと)などが、わかり行動できる人間か、そうではないのか。私たちは「人間としての器の大きさ」とか「人間の価値」といった言葉で、これらの意義を指そうとしているのではないだろうか。

謙虚であること、感謝すること、大らかであること、こうあるためにも人生修行として閾値を高める機会をより持つこと、を何度も反芻したいと思う。



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# by walk41 | 2017-07-10 06:50 | 身体 | Comments(0)

ロートル

長らく知っているのに、ちゃんと調べていないことが実にたくさんあります。

その一つ、ロートルという言葉の意味を、今更ながら知りました。老人を指す、「老頭児」という中国語から来ていたのですね。

1990年代、職場の年長の方が「自分のようなロートルが言うのも何だけれど」という表現をよくされており、文脈から年長である自身を謙譲的に話しているのだろうなとは思っていたけれど(この点、個々の単語を知らなくても、何となくわかるという面白さにも気づける)、中国語の日本語的用い方だったとは。

ちょっと気にはなっているけれど、そのままに放っておいている言葉は、それこそ山ほどあるでしょう。そんな言葉を引いてみるという習慣も、持ちたいものです。



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# by walk41 | 2017-07-09 10:11 | ことばのこと | Comments(0)

お勧めする本


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大学の図書館ニュース(2017年7月号、http://lib1.kyokyo-u.ac.jp/publication/librarynews/kuelibnews201707.pdf)です。アリやハチの研究から、人間の社会について考えることができます。

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# by walk41 | 2017-07-09 04:55 | Comments(0)

「教え子を戦場に送るな」

このフレーズを聞いて、昔を思い出される方がきっといるだろう。そう、これは日本教職員組合(日教組)が、戦争の推進役を担った学校教育に対する反省として、長らくスローガンにしてきたものだ。戦争に加担するような教育はしないぞという、教育の力が素朴に信じられていた時代の遺跡でもある。

この言い回しをふと思い出したのは、教員養成を担う大学にいて、学校という「戦場」に学生を送る面があると感じたからだ。

授業に意欲を見せない子ども、無理難題を寄せる保護者、話の通じない同僚あるいは管理職もありうる世界に、「子どもの輝く瞳と出会おう」「素晴らしい仲間と一緒に尊い仕事をしよう」と美辞麗句とともに、学生を送ろうとしている、これではまさに「教え子を戦場に送るな」と声が上がっても当然の状況ではないか。

目の前の学生が「未来の教師」となるべく、彼ら/彼女らに関わっている自身の立ち位置を振り返るに、こうも思う。学校が戦場でなくなることは根本的には不可能だが(なぜなら、教育とは前世代による後世代に対する攻撃でもあるのだから)、容易には「戦死」しないだけの能力を身につけてから、学校に送り出したい。

聞き分けのない子ども、無茶を求める保護者、個性的に過ぎる同僚や管理職も想定できる学校にあって、あるいは教育委員会による後方支援が必ずしも期待できない状況にあって、たくましく生き続ける力を保ち、高められる教員としてあってほしい。そして、もし居続けることがもう無理だと判じたら、戦線を離脱する勇気も持ってほしい。

厚生労働省の統計によれば、大学卒業者のうち、教育・学習支援業に就いた者の約半数は3年以内に離職している。公務員中心の学校教員とは待遇が違う面もあるが、それでも学校教員の中途離職率およそ1%台とは大きく状況が異なっている。「戦場」をより生きやすくする努力も必要だが、難しいことがあるかもしれない。

健康に働き続けられるような職場づくりに、研究の寄与できることは何だろうか。はたまた、そんなものは何もなく、「頑張れ」と煽るだけの「戦犯」なのだろうか。ある教育委員会の人事担当者の話にこうあった。「これからの教員には、理不尽さに耐える力も求めたい」と。こんな表現がさして違和感なく受け止められるのが、学校の一つの現実でもある。

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# by walk41 | 2017-07-07 16:43 | 大学のこと | Comments(3)

時に合わせて

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花屋さんでひまわりを求めました。

本当はガーベラがほしかったのだけれど、あいにくあらず。けれど、花屋さんに言われました。「ひまわりは、年中ある花ではありませんからね。」なるほど、季節感が乏しくなったとはいえ、時期ごとに合う花があるということですね。

周りを見渡すと、季節は確実に日々変わっており、今や初夏から盛夏へと移りつつあります。あんなに美しかった紫陽花はもう枯れモードに入ったといってよいでしょう。

昨日と同じ一日だけれど、また違う一日だということを改めて確かめるためにも、小さな変化にアンテナを張ることのできる自分であれればと願います。そのためにも、自身で決められる時間がより多いことは大切な条件でしょう。

多くの職場と同じように、学校で働く職員も小さな変化を慈しみ、楽しめるようなタイムマネジメントが重要なのだけれど。現実はどうもこの方向に沿ってはいないようです。

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# by walk41 | 2017-07-06 23:37 | 身体 | Comments(0)

ちょっと嬉しいこと

学校関係の会議や、教員を対象とした研修などで、名刺を交換する機会がある。

その際、「はじめまして。ご縁をいただきありがとうございます」と述べると、相手から「実は初めてでは無いんです。先生から以前に研修を受けたことがありまして」と返されることがある。「そういえば」と、かすかな記憶を辿って、受講されていたようにも…と思っていると「あの時のお話は、とても面白かったです」と言葉をつないでくださる。

もちろん、かなりのリップサービスも入った上のことだろう。けれど、いつのことやら榊原流の天の邪鬼な話を覚えてくださり、こんな機会に思い出してくださる方と出会えたことを、ありがたく思う。

あるいは、「先生のブログを読ませてもらっています」と言われることもある。そうか、こちらは存じ上げないけれど、読んで下さっている方がおられるんだなあと驚きつつうかがう(読んでもらうために駄文を晒しているのに、変なところで感心するものだ。いやはや)。

いま地球上には70億人を越える人が住んでいると言われるが、自分が出会うことのできる人はごくごく僅かである。そんな希有なチャンスで出会っているのだから、できるだけ良いご縁にしたい。それが一期一会という言葉の意味でもあるだろう。そんなことを確認させられる時間を得られることも、また有り難い。

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# by walk41 | 2017-07-05 17:30 | 研修のこと | Comments(0)

人は見た目

朝日新聞の記事「人は見た目が何%」を読んだ(20170702)。見た目で他者をどう判断するか、というお題である。

投書を読んでいて思ったのは、見た目で判断する、ということの反対は、見た目ではない部分で他者をどのように判断できるのだろうかだ。逆から考えてみよう。

見た目ではわからない部分というのは、いわゆるぱっと見た感じでは掴めないところなので、出身地、学歴、家族構成といった辺りだろうか。たしかに、見た目だけではなかなかわからないだろう。

けれど、「見た目」をその人の振る舞いまで広げると、どうだろうか。仕草、言葉遣い、服装、化粧などが射程に入り、価値観、社会的経験、動員しうる資本、文化的・経済的状況と接点を持つ話になる。見た目で、その人が慣れ親しんでいる物事を伺うことができ、黙っていても発してしまう、非言語メッセージの意味を持ち得てしまう。

ちゃんとはわからなくても、その人の雰囲気が感じられるのは、非言語が発する、あるには発しなくても感じられてしまうためである。「見た目」が瞬間的な判断を指すのに対して、「見た感じ」を得るには、もう少し長い時間を要する。

また、情報の効率的な入手にはなるべく短時間なことが望ましいから、勢い即断しようともしがちである。「見た目」が戒められるのは、人を即断することの愚かさだが、「見た感じ」に優れることは、自身の安全性を確保する上でも重要だ。適切に見て、妥当な判断をすること、これも人生の練習だろうなと思わされる。

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# by walk41 | 2017-07-02 20:29 | 身体 | Comments(0)

振る舞い

百貨店の「お客様コーナー」に行き、順番を待っていた。

先客の女性は待たされたのかもしれない、係員がお待たせしましたと平身低頭を示す様子を一顧だにせず、なぜかスマートフォンを机に投げ出した。と思いきや、差し出された小銭を含む現金と関係書類を、膝に抱えたハンドバッグに投げ込み、最後にスマートフォンをしまい込むと、係員に一言も発せず席を立ち、行ってしまった。目すら合わすことなく。その後ろ姿に、百貨店側は、深々とお辞儀をするありさまである。

短い時間ではあったけれど、こんな様子を見るに、自分の振る舞いを見ている第三者がいるかもと、少しは心しなければと思わされた。格好いいことならばまだしも、こんなに不細工なシーンをまったくの非当事者に見られるなんて。

学校でも稀に遭遇することがある。残念なことに、公衆の面前で暴言を吐くような人を見てしまうことが。そんな振る舞いをするだけに足るような背景や事情は確かにあったのだろう。けれど、だからと言ってそう振る舞って構わないという話になるわけではない。まず、何といっても格好が悪い。百貨店での場合は大人として、学校での場合は加えて教員として、哀れなくらい惨めな姿を晒すのはやめてほしい。誰にとっても良きお手本にならない。リンカーンだったか、「40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」とはこの点の限り、当てはまるだろう。自身を省みて恥ずかしい思いもする。

また、そんな様子は間接的ではあっても他者を傷つける。まったく望まないのに、そのシーンを思い出しては、嫌な気持ちにさせられる。人間ってこんなに阿呆やったっけと、暗澹たる思いにもなる。そのときの映像が音と雰囲気とともに、しっかり再現される。これは結構なダメージである。そんな迷惑なことはできるだけ避けてほしい。自分の問題はまず自分で解決するように努めよう。

こんな不格好になるべくならないための余裕をいかに持つことができるか。言うは易しく行うは難しだろう。必死になりすぎないこと、笑いを忘れないこと、こんな辺りが私の言える関の山だ。





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# by walk41 | 2017-07-01 23:47 | 身体 | Comments(0)

結論とは

授業について、「よろしければ、先生がこの授業における意図(この授業で何をしたいのか)を、端的にわかりやすく提示していただけると嬉しいです」と書いた学生に向けて、「(榊原販)公教育経営を学ぶとはどういうことか」を、別ブログ記事に述べた。

また、こう書くこの君の文中に、「授業内にあまりにも結論が見えず、先生の意図が見えず…」とあるので、「結論」あるいは学校風と言っていいだろうか「まとめ」という言葉について書いてみよう。

たとえば、goo国語辞書によれば、結論の意味に、「論理学で、推論において前提から導き出された判断」とある。たとえば、”教職労働の個業性と分業ー協業性の衝突、交渉、調整”という表現は、学校を観察して見つけられる事実をキーワードで整理した結果、導かれる結論である。”学校では色々なことがある”では何の推論にもなっていなけれど、それとは異なる「事実の類型化、概念の当てはめ、説明の試み」を経て、先の表現のように判断される。これは結論そのものである。

ちなみに、まとめという言葉の理解にも時々、困惑させられる。「このようにも理解、あのようにも解釈できる、という多様な推論ができるような授業研究をしませんか」と学校や研修会で提案すると、「それでまとめになるんでしょうか」と尋ねられる。意地悪に言えば、この教員は「まとめ」という言葉を辞書で引いたことがあるのだろうか。

同じく、gooの国語辞書によれば、「物事の筋道を立てて整える」という説明がある。ある事実をこう見れば、このように考えられる、違うように捉えれば、別のことに気づかされる、というのは、それぞれに筋道をたどっており、いずれも推論である。問題はその推論がデータ的、論理的に妥当かどうかであり、そこにデータ収集や解釈の適切さ、論理的誤謬のなさなどが問われる。これが論文で言えば、議論や考察に相当する。だから、これらの作法(手続き)を経た上で示されているのならば、いくつあろうともまとめとしては十分に要件を備えている。

社会科学の分野ではもちろん、自然科学でも、一つだけの結論が導かれる知見は、そうそうあるものではない(『京都教育大学図書館ニュース』内「私のすすめるこの1冊: 働かないアリに意義がある」〔榊原禎宏]、2017年7月号、を参照ください)。なのに、それを無理して「わかりやすい話」をするというのは不誠実であり、またそれを聞きたがるのは怠け者だ。「わからないものはわからない」「解けない問題は解けないと言わざるを得ない」と述べることも、結論であり、まとめである。

この点で、教員を志望する学生にはいっそう、「わかりやすい授業」とは何かについて悩んでほしいと思う。





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# by walk41 | 2017-06-30 10:35 | ことばのこと | Comments(0)

人間相手の仕事

ご縁あって、ある看護師さんとあれこれ話す機会があった。

医療の高度化に伴い、看護の世界でもスタッフの力量向上が求められているのではと尋ねたところ、「そんなに変わりません。人間相手の仕事ですから」と言われたので、「教育の世界も同じだと思うんです」と返した次第だ。

言わずもがな、30万年の歴史を持つともされる人間の基本型が、せいぜい数百年の、いや「文明」の始まりからだと最大限に見積もっても、5000年くらいの「教育」によって影響を受けるという想定がかなり難しい、と私が思う。科学的な物言いではないだろうけれど、「教育」という人間の知恵が人間の経験と遺伝に優位するとはとても思えないのだ。

だから、自分の寿命の限り、あるいは前後二世代ほど、100年足らずの経験をもって、「教育」を評することの愚かさを重々に踏まえた上で、議論をすべきかと思う。なのに、長い間やっているからには、高度化、専門化していかなければならないという頭でっかちが優位するのだろう、実態に合わない話を始めて、「そうではないのでは」と指摘を受けても受け流して、素朴な発展論を疑わない。PDCA論も同様だ。そんな右肩上がりになっていったら、先々、発展する余地がなくて困るだろうに。

対人サービス労働をしている方、そうでない方を含めて、より他業種の人と話を機会を設けられるようにと思う。何となく、当たり前に見えることが、違う業界から見ればそうではないと知ることが、職能開発に対しても重要なことを学べるだろう。

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# by walk41 | 2017-06-29 13:14 | 身体 | Comments(0)

何気ない言葉

大学の授業における教員の口調について、こんな話を聞いた。

ある教員は、学生に向かって「話をしてもらっていいですよ」と言うのだとか。これを聞いたある学生は、なんか嫌だなぁと。

この受け止めは分からなくはない。教員は、なんとなくそう言っているのだろうけれど、聞く側に立てば、話をすることに許可がいるかのような印象を受けるのだろう。この不快が高じて、この授業に出たくないなぁ、参加したくないなぁと思われてしまうと、もったいないことである。

手前味噌になるけれど、私の授業では次のように発問するようにしている。「この点、とても不思議だと思わない?」「ここについて、みんなの意見を聞きたいんだけれど」。研修会や講演では次のように発することもある。「こんな疑問があって、皆さんに答えてもらえればなと」。

多少は演技が入っているけれど、問いに対して自分がわからない、あるいは他の考えも知りたいと思ってることは事実だ。もっとも、この「わからない」ということと「何も伝えていない」ということは雲泥の差だ。

授業が、受講者や学習者のためのものならば、彼ら、彼女らがより発言したくなるような、そしてより聞きたくなるようなデザインに、授業者はより心を砕かなければならないのだと思わされる。

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# by walk41 | 2017-06-28 07:56 | 授業のこと | Comments(0)

(榊原版の)公教育経営を学び考えるとはどういうことか

この授業で何を学べばいいのか、教員は何を伝えたいのかをわかりやすく教えてほしい、と学部生から質問があったので、これに答える格好で以下を記してみよう。

私の公教育経営論、実は社会教育や生涯学習などを含まない学校教育経営論なのだけれど、それはマクロ、メゾ(ミドル)、ミクロのレベルに大きく分けられ、おおよそ学校政策・行財政、各校の学校経営、(学校)教育実践の領域に対応する。

授業の目的の第一は、これらの領域に含まれる基本的事項を知らせることだ。ともすれば、いかに授業を準備し、実際に進めるかにもっぱら関心のある学生の場合、学校や教室が、文部科学省-都道府県教育委員会-市町村教育委員会と関わっていること、それぞれが法的・行政的権限と財源を伴って、人的・物的・財的な資源の管理と開発を担っていることを、全くといってよいほど知らない。

たとえば、学習指導要領と教科書検定、教育職員免許法と地方公務員法、教育公務員特例法、学校に置かれる職位と職権についても、まず何も知らない。官僚制と組織、言語・非言語コミュニケーション、集団力学、意思決定、認知と感情についても、ほとんど説明できない。そもそも教育人口はどれくらいで学校はどれほどあるか、地方自治体はいくつ、教員の給与水準は、学校のものの値段は、といった、教育系を専攻したならば常識的であるべきことにすら学生はまだ出合ったことがないのだ。

だから、これらの極く表面的なことを伝え、まずは知っておくようにと話をする。もちろん、これらを授業で網羅することは時間的に不可能だから、私が扱うのは断片だけである(ずっと説明しても退屈だろうし)。あとは自学でやってもらうことにして、ミニワークを授業間にも課してこれを促す。学校教育の用語辞典の類を見て、だいたい意味がわかるようであれば合格だ。

ところで、学生たちは児童・生徒の経験はあっても、学校で働いたことはないからイメージの得られない場合が少なくない。それを補うために学校でのエピソードを紹介したり、映像資料も見せる。学生の経験も掘り起こし、それが教育側にはどのように映るだろうかと問いかけもする。もって学校を見る視点の転換をねらう。

授業の目的の第二は、学校教育の基本的事項が人工物、つまり人間の作り出している所産だから、常に論争的であり、葛藤していることを伝える。自然科学ならば基本的事項を知ること、それらをいかに観察するかに傾斜するのに対して、人文・社会科学では、基本的事項そのものが相対的、暫定的だから、現在は何が論的なのか、さらには論点そのものが転換する(基本的事項そのものが書き換えられる)可能性を提示する必要がある。

学校は言わずもがな近代社会の産物であり、そこには時間的・空間的な条件と価値が色濃く投影されている。それは、「子どもの成長」「高度に発展した社会」イメージに見られるように、社会発展像に呼応した成長・発達論、分類と配列にもとづく秩序志向などを柱にする。そこで論点となる、葛藤するのは、たとえば、教育と学習、学習と学習棄却、認知と感情の操作と「自然」、文化資本と学力、セクシャリティ・ジェンダーと子ども、国民教育とグローバル化、教育水準の維持向上と「教育上の自由」あるいは地域性、人格的行為としての労働と組織人としての業務遂行、教育計画と「失敗」など、枚挙にいとまがない。

学生たちは高校まで「正解」があるはず、と教えられてきているので、論点を知る、何に葛藤しているかを知るという「考える」ことに馴染みが少ない。けれど、「正解」は必ずしもなく(むしろ、ほとんどなく)、曖昧なこと、不確かなこと、そして無常なことを、大学では学ぶ必要がある。「考える」ためのヒントを知り、考え続けるための態度や体力を養うことが必須である。ひょっとしたら、質問の君も「正解」があるとまだ縛られているが故の疑問かもしれない。

考えるヒントを得ることは、「わからない」「どちらとも言えない」と終わるけれど、それは「何もわからない」とは全く異なることを、学生は知らなければならない。学校教育がどのような構図で理解されうるか、そこで論点となるのは何か、それぞれを裏付けるデータや論拠はどのようかを突き合わせ、より「もっともらしい」捉え方ができるようにならなければならない。そこで求められるのが、モデルを構成する力、メタ認知の力、生産的な議論を交わす力などである。思い込み、決めつけ、常識的判断といったものから距離を取り、学校をいかに多面的に捉えられるか、が問われる。

以上、二点を目的に私は授業を行っているけれど、学生はこれについて来てくれているだろうか。学校教育のマクロ、メゾ、ミクロの各レベルに該当する基本的な知識と理解は伴っているだろうか。また、それぞれの領域で考えるべきこと、改められるべきことに関わる議論を組み立てられるだろうか。たとえば、教員と児童・生徒の関係論(ミクロ)、教職の同僚間の協働と個人の裁量、あるいは管理職の権限(メゾ)、外国人児童・生徒と国民教育(マクロ)、それぞれの具体と問題を説明できるだろうか。

このような「問い」を立てるに足るだけの知識と理解が学生に身についているかどうか、が授業者からの評価の眼目になる。質問に答えられただろうか。ならばこの方向で大いに励み学んでほしい。

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# by walk41 | 2017-06-27 18:09 | 授業のこと | Comments(0)

考え方の癖(歪み、偏り)

授業の最後に学生に求める感想文を整理して、次の授業レジュメの冒頭にA4一枚程度紹介し、補足あるいはコメントを示している。今回、感想文の中に次のようなものがあった。

…スポーツをする人は寿命が短いという指摘があったが、自分の意見の押し付けはいけない。そういう意見多いに結構だが、ならばスポーツを止めろと言うのか…

うーむ。この手の思考上の癖はよろしくない。この君がではなく、ともすれば「もっともらしさ」をもって通ってしまいかねない、こういう話し振り、書き振りを危惧する。こうした癖を持って教育職に就くならば、なお危険なことである。

なぜそう言えるか。二点あげられるだろう。
その一、事実と意見の区別をつけていないこと。私が授業で話したのは、選手などスポーツを過度にする人の寿命が短いと指摘するデータ、事実であって、「〜と思う」という意見ではない。「朝、お日さまが東から上る(ように見える)」のは事実であり、意見ではない。事実を前にしては、誰もがまずそれを受け止めなければならない。

「ご飯を食べないとお腹が減る」も「木からリンゴの実が落ちる」のも、「それは君の意見だろう。そう思うのは結構だが、それを他者に押し付けてはいけない」と返せば、議論を試みたりわかり合うことは不可能である。

その二、授業で述べたのは(ある限られた)事実だが、仮に意見だったとしても、それを過度に推量して「〜と言うのか」とあたかも相手がそのように述べたかのように扱うこと。このやり方は、アンフェア、不誠実である。相手が言っていないことを指して、「じゃあ、こういうことを(引き続き)言いたいんだ」と持っていくのはズルい。

たとえば、学級の場面でイメージしてみよう。学園祭で学級劇をやることに対して、「僕は劇をやりたくない。そんなの意味がないと思うから」と意見を述べた生徒に対して、「じゃあ君は、そんな意味がない学級劇を止めろというのか」と迫る構図である。そんなことは言っていない。自分はやりたくないと言っているだけだ。

あるいは、学級でいじめ問題が起こったとき、ある生徒が「いじめた側にももっともな理由があるんじゃないかな」と学級会で意見を出したら、「じゃあ君は、いじめを認めるってことだな」と脅す如くである。いずれも針小棒大と言うべきか、意見をすり替えてしまう。

こうしたやりとりが「なんとなく」行われているとすれば、まったく恐ろしいことである。自分を含めて発想、思考上の癖により気づき、修正、革新できるように努めること、「コミュニケーション力」の向上は、こんな点からも問われる。



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# by walk41 | 2017-06-26 11:55 | 身体 | Comments(0)

人格で仕事をするけれど/していいと思ってはいけない

元中学生の話を聴く。

部活動の顧問の教員は、納得する結果が出なかったり、練習が不十分と思った時には、中学生に向かって「歯を食いしばれ」と命じて、顔を殴り、その勢いでよろけて後ろに下がった生徒を追うように再度殴ったという。その結果、生徒がグランドの端から端まで、よろめき、下がるまで、殴られ続けたのを見たと。

ウン十年も前の話ではない。世はすでに体罰許さずというモードになっていたはずだ。なのに、こんな状況があったとは。

部活動は教育課程に含まれない、聖域でもある。その危険性は重々承知のはずだ。にもかかわらず、そこでプチ君主のように振る舞って、自身に疑問を持つことがおそらくなかっただろう教員の話に触れるに、何と怖ろしいことかと思わされる。

教職は人格的な行為が多く、これを避けることはできないけれど、そのことと、人格的に振る舞ってよいということとは同義ではない。教員はあくまでも学校あっての職である。自身の行為の源泉が人格に由来するかのようなとんでもない勘違いをすると、上のような暴挙が起こりうる。

重ねて言う。教員は国家、教育委員会、学校が背光現象として位置してこそ、成立する立場だということを忘れてはいけない。「子ども相手の仕事」(残念ながら、昨今では大学生、さらには大学院生との関係においてもこう言えるだろう)をしてはいないか、学問の自由、教育の自由を組織的あるいは自律的に行使しているか、が納税者に対する説明責任として問われる。
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# by walk41 | 2017-06-24 21:17 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

生徒それぞれのカリキュラム

学生たちと、教育課程や「カリキュラム・マネジメント」について話をする。

すると、学生の中には学習塾でアルバイトをしている君がいて、聞くと中学生で同じ教科なのに、4種類ほどの塾作成の教科書のほか、市販の教科書も含め、生徒によって遣い分けているとのことだった。なるほど、「みんな一緒に」「学びの共同体」といった教育神話が強い学校と違って、塾は柔軟だなあと思わされた。個に応じた指導になってるやん。

考えれば、カリキュラムが学校として一つだということは、学習より教育に傾斜した、一斉教授を前提にしている。そこでは、どんな教育をするかという入力(input)にもっぱら注意が向けられており、結果どんな力がつくかという出力(output,outcome)は二の次になるので、生徒の多様性や異質性を等閑視したモデルができあがる。

言わずもがなと言ってよいだろう、教員が一斉にあることを説明しても、その理解の程度、活用の様子は相当に異なる。ある期間の後に、同様の結果に至ったとしても、そこまでの過程は一様ではないし、そもそも同様の結果に至る可能性がどれほど低いかを顧慮すべきである。「みんなが同じところまでわかる、できるようになる」「教え合いなど、助け合うことを通して、同じくらいのスピードで目標に達する」のが、かなり現実離れしていることを認めてはどうだろうか。

ならば、目指すべきは「学校としてのカリキュラム」ではおよそなく、「生徒それぞれのカリキュラム」なことは明らかだ。なぜなら、学校や教員の願いやつもりはさておき、①児童・生徒の個別性(特別支援を要する場合を含めて)を無視することができない、②しかも集合的(学校ではなぜか「集団的」という言い方が好きだ)であることを志向する程に、偶発性・蓋然性が高まる(どうなるかわからない)な傾向が強まる。このため、クラスを単位にいかに計画やつもりをしても、その通りに進むことはあり得ない。③くわえて、意外な出来事が教育的に価値あるものと観念されている(「~君がおもしろい発言をしてね、良かったよ」)。これらが、クラスやさらにはクラスを越えた規模でのカリキュラムのマネジメントと整合するはずはない。

教育課程は各学校で編成する、としても、その具体は集合的であることが難しく(学校行事などは別扱いと言っていいだろう)、目標、内容と方法はできるだけ多様、個々に根ざすことが望ましい。すると、そこでの教員ほかスタッフの働き方も違うように見えてくる。教員は一斉の教授者というよりも、生徒一人ひとりの学習伴走者である。授業時間は学習時間を基本とし、教員は彼ら/彼女らを見守り、診断、評価する能力がより問われる。教授しながら評価することはほとんど無理なので、教授者が診断能力を身につける機会は乏しかっただろうから、これは大きな課題である。

よって、教員は公開授業や研究授業などでスーツを着て現れ、教壇に立つスターではなく、横や後ろに静かに控えるサポーターとなる。一人ひとりにとってのカリキュラムという考え方が、教員像と学校像を変えることになる。
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# by walk41 | 2017-06-22 15:14 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

授業者のことが含まれない「授業研究」

大学院生たちと、教材研究と授業研究について話す。

そこで改めて気づかされた。「授業研究といっても、授業者のことはほぼ研究されていないやん」って。

どういうことかって? 授業は授業者、児童・生徒、教具・教材のほか、教室空間とその時間的条件から構成される。そして、「いい授業」とは、これらがより望ましい状況にあることと措定する。

教室の広さや時間割の単位、教材の内容などを明日から変えることは難しいから、埒の外に置くとしよう。変えようのありそうなものとして残されるのは、授業者、児童・生徒となる。

ところが、児童・生徒には「彼ら/彼女なりの都合がある」から、授業に肯定的とは限らず(授業者が嫌い、教科が苦手、夜更かしをして眠たい、など)また、生徒たち自身も予想できないような偶然の出来事(昨晩に見たテレビ番組の評価がクラスメイトと違ったことでケンカ、体操着をうっかり忘れたことで頭がいっぱい、休み時間に転けて擦りむいた傷がうずく、など)に影響を受けて、教室の状況は形づくられる。その正確なことは、ほとんど予測不能である。教員がよく口にする、児童・生徒の「見とり」とは言っても、その妥当性を担保できない。つまり、彼ら/彼女らのことは、操作の対象とすることが困難と考えるべきである。

こうしたことから、最後に残るのは授業者となる。そのいでたちや醸し出される雰囲気は、児童・生徒に受容されやすいだろうか。基本的に楽しげで明るく、開放的な空気を誘っているだろうか。あるいは、話すことばは明瞭で、遅からず早からずだろうか。アクセントやリズムにメリハリがあり、聞き手を飽きさせないだろうか。さらには、黒板の前にばかりいないで、小まめに教室内を動き、ときに児童・生徒に近づき、離れと彼ら/彼女らの視線をよく動かしているだろうか。

授業の進め方と言えば、発問、資料の種類とその提示、一人/ペア/小グループ/クラス全体での活動の指示、板書計画などだが、そこに、授業者の「人となり」はほとんど含まれていない。発問に限っても、その前後の生徒とのやりとりはどのようになされているのか(相づち、うなづき、視線、冗談、膝をかがめる、など)を抜きに、その適切さを論じてどれほど意味があるだろうか。ラポールが成立していれば、ときに一言も発せず、「目力」だけで生徒の発言を促すこともできることを考えれば、言語的な働きかけはむしろ限定的で、それ以外の要素が生徒への刺激になると見るべきでもある。

ところが、授業研究において、授業者がどうであるか、何を変えればより望ましいかが論じられることはまずない。人格的行為でもある授業でその筋の話をするのは不可侵であり、マナー違反ということを、同僚あるいは教職業界人はあまねく知っているからである。

そんなことに言及しようものなら、返す刀で自分のことも言われる、そんな怖ろしいことを招く必要はさらさらなく、相互に不干渉であること、これでこそ同僚性が保たれる、「みんな仲良しだよね。あなたのことも指摘しないから、私のことも言わないでね。自律性が大事だもんね」と、悪しき蜜月関係が築かれる。なあなあの、ズブズブの世界がこうして出来上がる。もし、意を決して発言してしまったのなら、相手からの冷ややかな視線、無視の態度を覚悟しなければならない。「子どものために良かれ」と思ったことが、とんでもない仕返しを招くこともある。

かくして、授業研究と銘打っていても、ある意味で一番重要な要素、授業者について研究されることはない。「誰がやってもうまくできる授業」という、ありもしない夢想に依拠し、やりがいのない、研究主任に誰もなりたくない校内研修、授業研究がまた再生産される。
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# by walk41 | 2017-06-21 08:07 | 授業のこと | Comments(0)

挙手

学生たちに話す。教室にあって、あるいは教室以外でも「生徒には生徒なりの都合がある」って思わない? って。

そこでグループで話し合ってもらうと、こんな話が出てきた。ある女子学生「手を挙げすぎたら、クラスメイトに目をつけられるかなあ。目立ちすぎると、いじめられるかなあ。」ある男子学生、「みんなが手を挙げないので、自分が頑張って挙げないといけない、と思ってよく挙手をしていました。」

なるほど、友人関係を慮って挙手を控えたり、反対に、教員を応援するつもりで挙手に励んだりとあるんだなあ。

けれど、授業論に回収されると、「生徒の意欲がよく現れた授業でした」とか「もっと挙手があるとよかったですね」と、「事後研究会」などと大仰な名前のもと、教育側の的外れな話が繰り広げられることになる。子どもを観る、みとり、と言っているのに、この体たらくである。生徒にはもっと考えなければいけない色々な事情があるだろうことが等閑視されがちだ。

現職教員のみなさん、目の前の児童・生徒にたずねてみてください。どうして手を挙げるの、また挙げないの? って。
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# by walk41 | 2017-06-20 10:51 | 身体 | Comments(0)

参加者による

現職の教育関係者への研修でおおよそ一日を過ごす。

新たな教員免許状を取得するための機会なこと、そのための費用を(サポートもあるかもしれないけれど)自分で払っている、ということが初期条件であっても、みなさんの熱心さ、懸命さは十分に余りあると思わされた。

何かを得ようと思っておられるからだろう。講師の一言一句とは大げさにしても、ちょっとした小話にもうなずき、笑ってもらえる。こちらが冗談で言おうものならば、けっこうな反応をしてくれる。授業の間に教室を回り様子をうかがうと、こちらが配ったレジュメ(ハンドアウト)にしっかりと書き込みをされている方、あるいは、それには手を付けず、持参したルーズリーフに逐一書き込んでいる方も多く見られた。いずれも、過言ではなくびっしりと記されている。すごいなあ、こんなに一所懸命に授業に臨んでくださるなんて。

こうした数時間を経て「今回はこれで終わりです」と述べた次の瞬間、参加者から拍手が起こった。また、退室の際も多くの人が講師に声を掛けて下さり、快く次回を迎えることができると思う。

かくも、参加者、学習者、被教育者の様子が、研修や授業に決定的ともいうべき位置を占めているということ、これを踏まえてどのような「授業論」(学習論ではなく)を構成しうるかを考えるべきだろうと強く、重ねて強く思わされた。「授業は授業者ではなく学習者が相当に決める」という命題が成り立つのではないか、とすら感じさせられる時間だった。
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# by walk41 | 2017-06-18 21:23 | 授業のこと | Comments(0)

いいです

ドイツから来た友人と話す。

日本に住んだこともある彼女は少しばかりの日本語を解するのだが、次のように質問された。

駅かどこかで「お先にどうぞ」と年配の方に話した際に、「いいです」と言われ、了解したのかと思ったら、向こうに行ってしまったので、不思議だなあと感じていたということ。「いいです」は良いのだから、申し出を受けるという意味ではないのだろうかと。

なるほど。なぜそうなのかは説明できないけれど、「いいです」とは「結構です」と同じように、断りを意味していること、「いいですよ」ならば、了解したという意味だが、申し出に対する返答としてはふさわしくないこと、を話した。日本語話者ならば、「いいです」と「いいですよ」の違いを考えることはあまりないものね。

そう言えば、「結構です」と「結構なものを」、さらには「結構な速さ」も大きく意味が違うけれど、なぜそうなのかとたずねられても、私は答えられないなあ。ドイツで友人たちに、"Teil"(部分)という単語について、"der Teil"と"das Teil”と二つあるけれど、どう違うのかと尋ねたら、口を揃えて「わからない」と返ってきたもの。

その言葉の話者は堪能でばあるけれど、馴染みのない人に説明することができるわけではない、という点は共通するかもしれないね。
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# by walk41 | 2017-06-17 19:56 | ことばのこと | Comments(0)

思い出に残る授業

教頭先生たちとの研修会、楽しく過ごした。

「校内研究は、教員の振る舞い研究と看板を掛け替えてはどうか」と提案した後、グループの中で話をしてもらったら、次のような経験談を出した方がおられた。

中学校の社会科教員として、卒業式に臨んだとき、卒業生が「社会の授業は…」と答辞をしたので、涙目で次の言葉を待っていたら、「雑談ばかりで…」と言葉を継いだそうだ。教育委員会ほか面々が臨席する中で、恥ずかしい思いをしたが、それでも「雑談」が幅広い話の意味だということは了解されたので、構わないとも思ったという。

こんなふうに、授業を受けた生徒がどのように受け止めるか、は当てのないものということ、さらには雑談や脱線話がむしろ印象に残るということは、学習指導案がいかに大らかであるべきかを示唆する。だって、指導案に雑談や冗談をあらかじめ書いておくことはできないし、これらは創発的なものとして偶然に発話されるものだからだ。

かくして、授業のPDCA論は成立しないし、それを求めることは生徒の学びを阻害すらしかねない。「案」という名前にふさわしく、おおよその目当てとして授業が構想され、臨機応変にそして創発的な気づきを促す場として授業が生成するように目指すのが、現実的な議論と言うべきである。

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# by walk41 | 2017-06-16 16:54 | 授業のこと | Comments(0)

信じてもらえない教員の労働時間

ドイツから客人を迎えて、「ドイツの学校制度と社会」をテーマに学生に話をしてもらう。学生たちも事前に質問を用意するなど、おしなべて熱心に臨んでくれた。やりとりも結構できたかと思う。

その講演のあと、今は教育委員会におられる方を交えて交流をした。短い時間だったが、日本とドイツの教員の働き方についてひとつ焦点があり、そうなのだろうなと思いながら、改めて、日本の教員、とくに中学校教員の長時間学校滞在(家庭訪問なども含み)と休暇の短さを確かめる場ともなった。

ドイツの教員は、早ければお昼過ぎ、遅くとも夕方には帰宅する。もちろん、家で仕事をしている面もあるけれど、かといって、夜の9時や10時、著しい場合には日付を跨ぐまで学校にいるという、日本の少なくない教員とは比べるべくもない。もちろん、ドイツの学校の土日は完全に休みで、学校は閉められている。金曜日の午後、13時も過ぎれば、校内にいるのは掃除担当の女性くらいだ。そんなところからやって来た客人は、教員経験10数年の女性だが、「そんなに遅くまで何をしているのですか」と問われ、日本側が返答に困ったシーンもあった。

ドイツでは仕事が終わったあとの時間を、"feier Abend”(祝いの夜)と楽しく過ごすことを旨とすると聞く。これに対して日本では、教員に限らず、仕事以外の可処分時間が著しく短く、帰宅後は楽しむ時間少なく、寝て終わりという場合も少なくない、いわば過労死直前の社会なことが大きな違いとは言えるだろう。

50年も遡れば、ドイツも休暇の日数が日本と同様、少なかったと読んだことがある。が、この半世紀ほどの間に大きく違ってしまった。ドイツの教員ならば、休暇は6週間、「日本の小学校教員ならば2週間くらいかなあ」と日本側が呟いたことにびっくりされ、くわえて、「中学校で部活に懸命な教員ならば、休暇は年に数日ということも…」と言葉をつなぐと、信じられないという顔をされた。

おおよそ既存の理解の限りだったが、学校教員の研究、とくに教員の労働や健康問題を看板に掲げているにもかかわらず、私には今なお、なぜかくも長時間の学校滞在と短い休暇にならざるを得ないのか、またたとえばドイツではなぜよりコンパクトに働くことができているのか、という謎に答えられないでいる。
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# by walk41 | 2017-06-15 12:45 | ドイツのこと | Comments(1)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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発言/表現することに対する責任
at 2017-07-11 16:12
閾値を上げる
at 2017-07-10 06:50
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