学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

挙手の際の指

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南西ドイツの中等学校、9年生の授業風景です。中等学校でも、いわば普通に手が上がることを、自分が知っている中学生と違って面白いなあとは思っていましたが、何回となくこうした場面に居合わせているのに、次のことには、はっきりと気づいていませんでした。

その一つ、基礎学校の児童を含め、授業中に挙手して教員に当てられたとき、立ち上がる生徒はドイツで見せてもらう学校にはいません。日本でも中学校あたりになれば同様のこともあるでしょうが、小学校では指名されて立ち上がり、加えて椅子を納めることまで求められ、ようやく発言できるという、神経質なまでの行儀が強いられます。これは違いと言っていいでしょう。

もう一つは、手を挙げる際の指の格好です。人差し指を突き出すように挙げる様を、日本とは違うなあとは思っていましたが、その背景に、ナチズムが支配した時代の挙手仕方、「ヒトラー総統万歳!(Heil Fühler Hitler!)を忌避するべく、子ども頃から躾けられるゆえとは知りませんでした。五本指を突き出すと、確かにそのようにも見えますものね、なるほど全体主義を再来させてはいけないという一つの知恵なのでしょう。

見慣れているからこそ、気づきにくいことがまだまだあるのだと、今回も学ぶことができました。

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# by walk41 | 2017-09-25 09:35 | 身体 | Comments(0)

やっぱり美味しいBretzel

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ドイツに来ると思います。このパンBretzelの美味しさは、日本でなかなか味わえないなあと。

学校訪問先で、中休みの時間などに出して下さいますが、ご配慮と合わせて、有難いなと思います。ごちそうさまでした。



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# by walk41 | 2017-09-25 08:31 | ドイツのこと | Comments(0)

学習環境を整える

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ドイツに限ったことではさらさらありませんが、教室に花や鉢を置くというのはいいなあと思わされます。

いわゆるロッカー置かれた観葉植物、気持ちを和ませてくれます。一つ部屋に二つくらいあるのを見ると、勉強もきっと進むことだろうと感じます。

この鉢はどこから、と校長に尋ねると、学校予算から生徒に買ってきてくれるようお金を渡すそうです。現金だとするとちょっと大らかなだなと思いますが、それでも自分たちが使う部屋を快適にしようとのメッセージは十分、生徒に伝わるでしょうね。

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# by walk41 | 2017-09-24 17:13 | ドイツのこと | Comments(0)

やっぱり美味しいBretzel

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ドイツに来ると思います。このパンBretzelの美味しさは、日本でなかなか味わえないなあと。

学校訪問先で、中休みの時間などに出して下さいますが、ご配慮と合わせて、有難いなと思います。ごちそうさまでした。



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# by walk41 | 2017-09-24 17:03 | ドイツのこと | Comments(0)

強烈な皮肉

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「私たちは、あなたに暗殺者を送り込もうという訳ではありません。けれども、あらゆる万引きは図書館への立ち入り禁止と告発を招くことになります。」

南ドイツのある市立図書館内に貼ってあるポスターから。ユーモラスかつ強烈なパンチが効いていると思いませんか。

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# by walk41 | 2017-09-20 12:26 | ことばのこと | Comments(0)

全体主義を支えるもの

南ドイツのある街の比較的小さな博物館を訪れた。常設展に加えて行われていたのは、魔女狩りをテーマとした特別展だった。

恥ずかしながら勉強不足で、何となくしか知らなかったテーマだが、今回わずかでも学ぶことがあり、大いに刺激を受けた。というのも、歴史的な出来事ではあるけれど、そこに流れる物の見方や行動は、現在にもすぐれて通じると思われたからだ。

1480年あたり、南ドイツや北フランスを中心に天候不順が続き、作物が壊滅的な打撃を受けた。あるいは、犯罪者の増加が顕著であった。いわゆる異常気象や気候変動を説明できない状況にあっては、その原因を以前から存在を信じられていた魔女によるものと結論づける可能性が高まったのだろう。カトリックの司祭が、魔女狩りを始め、わずか数年の間にこの街では、46人もが処刑された。その多くは生きたまま火あぶりにされたと伝えられる。

この凄惨な出来事は、多くの研究者の対象となっているが、次のような着眼ができるようだ。それらは、説明できないことを何かにこじつけて説明しようとするメンタリティ(認知的不協和を解消しようとする傾向)、裕福な女性、あるいは美しい女性に対する嫉妬や不安といった、驚きべき女性蔑視に裏打ちされた人間観、自白が唯一の根拠とされた時代にあって、本人がそう言っているのだからという合理化などである。

この特別展に行ったとドイツ人の友人に話をしたところ、次のようなエピソードを紹介してくれた。魔女狩りの被害にあったのは女性が多かったが、男性も例外ではなかった。ある男性の妻が魔女として捉えられた際、彼は妻に家族のことを話をしてはいけないと手紙を送ったそうだ。というのは、家族に関わる出来事は魔女の仕業によるものだという論理が強かったために、そう結論づけられる、つまり妻が魔女と認定されることを恐れたのだ。

ところが甚だ皮肉なことに、その手紙が魔女裁判の中で発見され、家族のことを話すなということは、何かやましいことが家族にあるからだ、つまり、家族の問題を知っている夫は魔女(魔男というべきだが)であり、その妻も同様であると結論されたのだという。結局2人とも、処刑されたのだと。

このさまは、事実が何であれ、捉えた人物が魔女であると言う結論が先にあり、それを合理化するための論理が形成されたことを示している。つまり、ある論理の推論の仕方によって、結論は大きく異なり得ることを学べる。

拷問の道具、例えば鋲でできた椅子なども展示されていたが、これに15日間も耐えられる人間はそうはいないだろう。このほか、水責めなどもあったとか。自白すれば、「本人がそう言っているのだから、間違いはない」と結論づけられてしまう。

かつて、拙ブログに記したことを思い出す。ある学生が小学生の頃、クラスメイトのものがなくなったと騒ぎになり、たまたま同じものを持っていた彼女が盗んだのではないかと学級担任に疑われた。驚き、涙を流す彼女に、その教師はこう言った。「泣くってことは、本当のことを言われたからだよね。」魔女狩りや魔女裁判は、現在も生き続けている。

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# by walk41 | 2017-09-20 06:01 | Comments(0)

全校集会

南ドイツの初等・中等学校にお邪魔した。9月から始まる彼の地の学校にとって、新年度が始まって間もない時期に来客を迎えるのは、決して容易ではないと思う。訪問を快諾下さった校長先生ほか皆さんに深く感謝したい。

さて、新しい学年の始まりは、特に新入生にとって重要だ。どんな学校なのか、どんな人たちがいるのか、多くの児童・生徒に不安と期待が押し寄せているだろうから。そこでこの学校は、「褒める文化」(Lobkultur)を育てるべしと、校長の発案で、全校生徒およそ400人と教職員が月に一度、全校集会を開いていると聞いた。ちょうど、訪問した日がそれに当たり、日本から来た客と紹介されたとともに、ほんの少しだけご挨拶もした次第だ。

そこで驚かされたことの一つは、夏休み中に新校舎建設に関わって尽力した施設管理者(Hausmeister)、新しい学習材開発に取り組んだ教員ほか、と紹介して立ち上がらせては多くのメンバーを褒め、拍手を繰り返した校長の進行手腕だった。新しい教職員、一年生と五年生という、新入生の紹介の際も、楽しくこれからの学校生活をワクワクさせるすすめ具合だった。ともすれば、儀式は厳かであるべきと考え、言い方を変えれば暗く、重苦しいものにしがちな当事者に一人として、こんな進め方もあるのだと反省もさせられた。

もう一つの驚きは、集まったメンバーの座り方である。一年生はここ、二年生はその隣、そして一列に並ばせ、その順番も決まっている、集会が始まる前には学級担当などが生徒の様子を見て回り、服装や格好について「指導」する。そんなスタイルとは全く異なり、大人の集会のよう、つまり、司会を中心にいわばぐちゃっと集まっているだけで、列をなすわけでも、順番があるわけでも全くない、混沌としたさまである。どこに誰がいるかを全体としては掌握できない。好き勝手にいるのだ。

もちろん、起立、礼といった所作もなく、「顔を上げて話を聴くように」といったお小言もない。私のそばでは、寝転んでクラスメイトの膝に頭を預けていた女の子もいた。教員も適当にその辺にいるというだけである。さすがに、今日が登校初日の一年生の担任は、固まって座る児童たちの側にいたけれど。

それでも、決められた時間まで集会は静かに進み、かつ拍手と口笛も飛び交った。いい雰囲気だったと思う。そしてさらには面白いことに、予定された時間(5時間目だった)が過ぎると、生徒たちはとたんに騒がしくなり、ヤッケを着込むと帰り支度を始めた。

司会の校長が「最後に…」と話を終えるかどうかくらいで、みんなは立ち上がり、むろん一斉の「礼!」などあるはずもなく、校長が「ではまた明日」と上げる声もかき消されるくらい勢いで、蜘蛛の子を散らすように、ぱあっと去っていったのだった。ああ面白かった。





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# by walk41 | 2017-09-19 06:32 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

誠実さ(2)

自然科学の分野の特徴を踏まえて、この教育や学習にいかに臨むかについて先に記した。

ちょうどこの反対のことが、人文・社会系の分野についても当てはまると思う。

データを量的に多くを集められるテーマならば、法則的とまではいかないまでも、傾向として捉えられることがある。たとえば、女性の学歴が高くなるほど、出産年齢が遅くなり、結果として出産数は少なくなる。児童・生徒が学級担任に持つ肯定的・否定的イメージは、学級担任が児童・生徒に持つイメージと正に相関する。子どもの貧困率と虫歯の罹患率も正に相関するだろう。

この一方、傾向から外れる事例もたくさん存在する。担当教員を好きな方がその教科も好きという場合が多かったとしても、教員は好きだけど教科は嫌い、あるいはその逆もある。少人数指導によって学力が伸びる子もいれば、そうではない子もいる。勉強と部活動を両立させる生徒もいれば、片方で手一杯の場合もたくさんあるだろう。必ずと言っていいほど、例外の存在するのがこの分野の基本原則である。

だから、この分野では、「〜すれば、〜になる」と言えないのはもちろんのこと、そうならない事実があるのに「〜すべきだ」とか「〜でなければならない」と鼓舞や説教にも努めて禁欲的でなければならない。やってもできる公算は低い、そもそもできないとすら言い得るのに、「そうなるはずだから、そうならないのは、意識が低いからだ。意識改革が必要だ」などというのは、古くは竹槍でB29爆撃機を落とせというが如し、無理である。こんなことをまことしやかに言う輩は、誠実さを持ち合わせてはいない。

この点で、人文・社会系における誠実さとは、せいぜい傾向までのことをあたかも、相当の確率でそうなるかのように語らないこと、と導ける。まるで予言者のような物言いをするのは、思い込みの激しい人か詐欺師である。こうしたお喋りがあちこち巡っている様子は憂うべきだし、こうした「危ない人」に出会ってもうまく逃げおおせるような力を身につけることが大切だ。

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# by walk41 | 2017-09-16 13:09 | Comments(0)

誠実さ

教育実習中の学生の授業を見た。

先の拙ブログに記したように、教科内容の知識や理解が乏しかったり、教職経験の中で多分に身につけていく技術的な面がお粗末なのは、致し方ないと私は考える。けれど、授業を通じて間接的に伝わる学問の論理を蔑ろにするという態度は、決して認められない。

理科の授業である。自然科学は、実証主義、客観性、計測性、再現性などを前提とし、これらに反するものを基本的に除外する。地球から見て、東から太陽が昇るように見えるのは、普遍的なことであり、そんな気がするとか、どの角度から登るか測れないとか、明日のことはどうだか、といった話にはまずならない。この点は、人文・社会系の領域が、解釈、主観、測定困難、一回性といった傾向を帯びることと、好対照である。

だから、理科の授業をするとは、生徒に自然科学の論理、いわば掟を知らしめることでもあり、それが崩れては授業そのものが成り立たないと心すべきである。実証的でなければ理科として扱えないというメッセージを送っているのだから。

なのに、その学生は、授業の前半に「〜すれば、〜となる」と説明を繰り返したのち、いざ、実際にやってみると、そのようにはならなかった。実験上の不具合があった、つまり、条件をうまく制御できなかったのだろう。だとすれば、「先に〜と説明しましたが、実際には違ってそうなりませんでした。どうしてだと思いますか」と生徒に投げかけても良かっただろう。

けれど、その学生はこう言ったのだ。「実験に失敗はつきものなんだよ。」
これが自身の授業のみならず、理科さらには自然科学を否定する、あるいは弄ぶ言い草だとは、気づかなかったのだろうか。

成功や失敗などということは、最初から何が正しいのかがわかっていたことになる。どうかわからないから、授業の中で問いかけ、実験をしているのに、それが失敗だった/成功だったと言うのは、いわば「出来レース」と告白しているようなものではないか。

実証的であるかのように生徒に話していながら、そうでないことも当然かのように言って憚らない、この感性を恐ろしいと思う。「白を黒と言いくるめる」ことに躊躇しないのではないかとの懸念も持つ。何でもいいのか、何だそりゃ、と回りの反応が見えるようである。

一回生に話すことがある。「上級生の中には、手遅れの人もいるかもしれないけれど、大学の試験では決してカンニングをしないように。カンニングができる授業が問題なのかもしれないけれど、そのこととカンニングをしてよいということが繋がるわけではない。もし、カンニングをしたならば、やがて教員になって児童・生徒の試験監督に当たるとき、彼ら/彼女らをチェックさらには指弾できない。その上で試験監督を、したり顔でするようならば、自己矛盾の塊だからね。そんなことに耐えられる?」

自分が聖人君子などと夢にも思いはしないけれど、(最低限の)誠実さを持つことは、教育者に限らないだろうけれど、多くの場合に当てはまると思う。教員は、教育内容だけを扱っている(実質陶冶)のではない、その場を通じた態度や姿勢さらには信条をも扱うことになる(形式陶冶)。このことも想像しながら日々に臨みたい。

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# by walk41 | 2017-09-15 20:05 | Comments(0)

自分の仕事を大切にする

南ベトナムでの短い滞在の中で感じたことの一つは、自分の仕事を大切にすることの意義です。

自分が扱っている商品に自信や誇りがあれば、客に値段を決めさせるようなことはしないでしょう。ところが、観光客目当てのマーケットなどに行くと、いくらならば買うかと言う話を持ちかけられます。

売っているものの値段があってないようなのも変ですが、それ以上に奇妙なのは、その商品の良さを話すのではなく、何個を買うかというところから始まって値段の交渉に行く流れについてです。この基調は「この商品はこれだけの価値があると思って売っています。よかったらどうぞ買ってください」とは、ずいぶん異なるように思うのです。

もちろん日本でも、家具屋や電化店で値段の交渉がありますが、自国びいきでしょうか、違うように思います。店側から提示される金額と実際に購入する金額の違いが数倍とあまりに違うこと、「じゃあ要らない」と答えると、「ここまでやったのに、買ってくれないと私、死んじゃう」と芝居を打つこと、「商品に誇りはないんか!」とつっこみたくなるあたり、まだまだ考えがまとまりませんが、違和感を感じるというに留めます。

贅沢な話かもしれないけれど、「いい仕事をしている」と、まずは自分がより思えるようにありたいものです。

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# by walk41 | 2017-09-14 08:17 | Comments(0)

「かぶる」再考

重複することを「かぶる」と、学校教員までが言うのを、さして違和感なく聞けるようになってきた。言葉は世に連れ、世は言葉に連れとは思うけれど、「ダブる」の変形のような気がして嫌だったのだけれど。

と同時に、これは「ダブる」の言い換えと言うよりも、「重なる」を一文字分短くしたものではないか、とも思うようになった。発声上の省エネ、エコの一つなんだと。

①自動販売機→自販機、就職活動→就活、と用語をつづめるもの、あるいは、②見られる→見れる、着られる→着れると「ら」抜きのもの、はたまた、③ATM(現金自動預け払い機)、AI(人工知能)と、アルファベットに置き換えるものと、いずれも少ないエネルギーで多くの内容を表現しようとしていると見なせる。

いわゆる若者言葉には、おはよう→おは、ありがとうございます→あざーす、と省略するとも聞く。ひょっとしたら新しい世代ほど、より省力化が図られているのかもしれない。

扱う情報が増大しているためか、伝達意欲が強まっているからなのか、伝達する相手が増えているからか。いずれにせよ、少ないエネルギーでより多くの内容を表現しようという指向性が強まっていることは認められるだろう。

この点で、教育論議においても聞こえる「昔と比べると、コミュニケーション能力が低下している」なんていう言い草が、いかに的外れかわかる。私たちは、いっそうコミュニケーションをしようとしており、実際にしており、だからこそ、必ずしもできていないことを「コミュ力不足」だと病むに至っているのである。

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# by walk41 | 2017-09-13 14:48 | ことばのこと | Comments(0)

物価はどう決まる?

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南ベトナム話が続きます。

小洒落たカフェのアルバイト大学生から、時給が20000ドン(約100円)と聞いたとは記した通りですが、その他、いわゆるアルバイトでどんなものがあるかとhttp://careerbuilder.vn/en/search-job/ほか、Webで検索したところ、次のようなものがありました。

○ベビーシッターの手伝い(英語が話せなくても可):月給600万ドン(30000円)⇒22-23日勤務とすれば、時給160円ほど。
○レストランのいわゆるボーイ:時給18000ドン(90円)
ネットワークに関するサポート(要、日本語能力):月給300-500万ドン(15000-25000円)⇒同様に、時給80-140円ほど。
○フィットネスクラブでの顧客サービス:月給300-400万ドン(15000-20000円)⇒同様に、時給80-110円ほど。
コンサルティングサポート従業員:月給200万ドン(10000円、ただし1日4時間勤務)

一方、ファストフードの値段を見てみました。ベトナムの通貨、1000ドンは約5円なので、円表記をすると、

マクドナルド(ビッグマック)約325円
ケンタッキーフライドチキン(オリジナルチキン)約170円
Baskin Robbins(クリームシェイク)約240円
Pizza Hut(コンビセット)約245円(写真にあるように。同社HPより拝借。)

どうでしょう。賃金に比して、ものの値段がずいぶん高いと思いませんか。だとすると、ファストフードは決して気軽な食べ物に非ず、となります。だって、ビッグマックを一つ食べるために、3時間ほど働かなければならないなんて。高嶺の花と言っていいでしょうから。

それでも、こうしたお店は2010年以降でしょうか、どんどん出店しており、賑わってもいるようです。また、日本に戻ってから知ったことですが、なんとAEONモールもできています。日本と似たような雰囲気で、違うのはバイク置き場の広さでしょうか。とても広いのです。利用者の多くがバイクで来ることの証ですね。

とまれ、物価はどのように決まるのか。この賃金水準で誰が買いに来るのか、どのように営業できるのか。謎は深まるばかりです。


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# by walk41 | 2017-09-12 18:17 | Comments(0)

身近な死者は傍に?

南ベトナムの道中、お墓らしきものが見えたので、現地ガイドさんに尋ねる。こちらは土葬ですか、火葬ですか、と。すると、伝染性の病気で亡くなった場合などを除き、土葬なのだという。

歩いていると、通りに面した家の側にお墓があり、墓標を読んでもらうと、数年前に40代で亡くなったその家の男性のものだそうだ。一般には、地下2メートル掘ったところに棺を置き、コンクリートを流して密閉するのだと聞いた。その上に三段ほどのタイルを組んで飾ってある。こうして家の敷地内にお墓を作れば、すぐにお参りに来ることができるとも。

死者を土葬にするか火葬にするかもすでに論争的だが、加えて、墓を身近に置くか遠くに置くかも、違いが生まれる点として興味深く思う。関係する業者などは「ご先祖を想う心の大切さ」などと墓の意義を説くものの、だからと言って残された者が住むまさに近くにとは提案しない。死者は「あの世」の住人であり、「この世」と隔絶されていなければならないという考え方から来るのだろう。

けれど、死者を想うならば毎日のように会えるところに墓を設けるべきとも言えるならば、わざわざ出かけなければいけないような所に墓があるなど、言語道断ではないか。遠くに追いやっているのに、大切にしているなんて、変な言い草だなあ。

自分がこの世を去ったら、火葬にしてもらって骨を残してもらう必要もない。笑顔の(真剣な顔つきではなく)写真を一枚、傍に置いてもらえれば十分だ。お供えも法事ももちろん要らない。思ってくれる人の心に生き続けるならば、肉体をはじめ物理的な事柄の面倒さを、何ら求めることはないだろう。



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# by walk41 | 2017-09-11 09:37 | Comments(0)

格差の大きな社会主義国?

あくまでもあくまでも、ごくごく限られた見聞きしか持ち合わせない。けれども、現在のベトナムが社会主義国だというのは、どうも当てはまらないように思う。

私の理解の限り、社会主義とは、最低賃金が生活上のベーシックな基準を満たしているものだろう。この点で、全体としての豊かさの多寡はともかくも、歩行者用の路上で物乞いをする人、あるいはそんな所に持ち込んだ七輪で火を起こして大判焼きのようなものを売る人がいる一方、その傍に建つショッピングビルに、つい数日前に入ったH&Mの商品を買い込む人がいるというのは、バランスを欠いている。

ちなみに、日本ではファストファッションとしてUNIQLOの延長線上とも言えるH&Mだが、ベトナムではそこでTシャツ1枚が20数万ドン以上、1000円少しで売られており、これは例えば、タクシーの初乗り1万1〜2千ドン、60円程度を引き合いに出せば、日本は約10倍になるから、先のTシャツは10000円くらいに映ると言えるだろう。

あるいは、小洒落たカフェでアルバイトをしている女子大学生に、賃金を尋ねると時給2万ドン(約100円)だと言う。店に入るときは1日8時間働いていると聞いたので、日給は16万ドンになるだろう。この一方で、先のH&MやZARAが入るビルの地下では、大衆食堂という看板の中華料理店のコンビセットが89000ドンと宣伝されていた。これは、この学生の半日の賃金を上回る。日本ならば、時期700円と考えて約3000円、これを大衆的とはなかなか呼べないだろう。現地ガイドさん話したときも、学生のアルバイトは時期15000ドン(75円くらい)と聞いた。この額では1日働いても、このコンビセットと飲み物くらいで消えてしまう。

路上で物乞いをする人がどのくらいいるのかを知らないし、この地方では学生のアルバイトの賃金が低いのかもしれない。けれども、日本ではいずれも稀なように思う。ひょっとしたら、以前に比べれば格差は縮小しているのかもしれない。それでもなお、人々の平等がそれほど実現されていないのだとすれば、現代の社会主義とはどういうことなのだろうか、と考えさせられる。



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# by walk41 | 2017-09-10 18:14 | Comments(0)

遵法精神

たとえば交通ルール、赤信号の時は止まる、直進車が優先といったことは、多くの人がこれらを守ることによって成立する。守られないルールは、たとえ法律に定められていたとしても意味を持ち得ない。

なんとなくではあれ、あるいは警察の取り締まりがあるからと理由はともかくも、こうしたルールを守ることによって、道路の状況は、設計した形に近いものとなる。けれど、たとえ信号があり、センターラインが引かれていても、これらにお構いのない人が多数出てくると、言わずもがな、道路はカオスとなる。

赤信号であっても堂々と交差点に進入する、センターラインを越えて走行する、歩行者用の道路をバイクが走るといった光景を、ここベトナム南部のホーチミン市で当たり前のことかのように見ると、日本の多くの街でおおよそは整序だって自動車やバイクが通行していることが、実は凄いことなのだとわかる。

クラクションを鳴らすのは、よほどの時だと思っていたけれど、これだけ左右から車やバイクが飛び出してくると、クラクションはとんどウィンカー(パッシングを含む)代わりに使われていることに気づかされる。大阪弁風に言えば「どきや」「入るで」「早う行きや」と伝えるべく、決して大げさな物言いではなく、四六時中クラクションが鳴らされている状況だ。ノンバーバルの道具と意味が、ここでは違っているのだ。

それでも、衝突や伝統といったことがあまりないのではないかと思われるほどに、皆さんの運転技術が高いのにも驚かされる。地元ガイドさんによれば「ホーチミン市内は、あまりスピードが出ないので、事故は少ない」とのことだけれど、それって喜ぶべきことなのかどうか。とまれ、移動上の効率と排気ガスによる環境へのダメージについては、すこぶる悪いと思うけれど。

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# by walk41 | 2017-09-10 10:15 | Comments(0)

名前を呼ぶこと

引き続き、教育実習の学生に関わる話。

学生は文字通り学ぶ立場にあるのだから、仕事っぽくできなくても当たり前だ。だから、教育の内容や方法に通じていなくても、さして問題とは思われない。その上で、同じ学生でも違いの見えるポイントの一つが、生徒の名前を覚え、名前を呼ぼうとするかどうかのように思う。

短い期間に、たくさんの生徒の名前を覚えることは、決して容易ではない。けれど、覚えようとしている学生の姿勢は、多くの生徒にとって好感を持てるものだろう。そうした関心を自分に向ける学生の授業は、そうでない場合と比べて、より肯定的なはずだ。

①ある学生はがんばって生徒の名前を諳んじようとする。②別の学生はそこまではいかないので、実習校から渡された席順と名前を記した用紙をこっそり見る。③さらに別の学生は、その用紙をどこかになくしたのか持たず、もちろん覚えてもおらず、生徒が付けている名札を見ては、授業をしようとする。これらの違いが、生徒とのラポールに及ぼす影響のあるとは、仮説していいだろう。

ことほどさように、「いい教員」とは教科の内容に通じているだけでは決してなく、曖昧きわまりない児童・生徒と彼ら/彼女らの力学に臨むべく、柔軟に対応できる態度と能力を有することと導ける。学校風に言い換えれば、生徒指導に関わる力だろう。

これは、勉学に励んだから身につくというものではなく、日々の経験とその反芻や反省の繰り返しの結果とも言えるだろう。それは、教えることが難しく、それぞれに学び取るしかない。「大学における教員養成」つまり、大学に入ることが教員養成教育の前提とされているとは、教えられるだけでなく、学ぶ潜在力を予期してのものである。生徒ではなく学生と呼ばれるのは、学ぶことができるだろうとの期待を込めてだと、心してほしいな。

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# by walk41 | 2017-09-06 15:41 | 身体 | Comments(0)

「先生」を安っぽくしないで

教育実習中の学生の授業を見に行く。

知識がいわゆる平板で説明が不自由、誤解すら招きかねないことは、教員の卵の卵くらいなので、致し方ないとしよう(実習校にはお許しを願いたい)。けれど、気になるのは私だけだろうか、解せないのは、学生が自分のことを「先生はね」と多用することだ。

拙ブログをご覧下さっている方は「また言ってるなあ」と思われることだが、やはりおかしいと思う。授業者が「先生」であることは、子どもには明らかなのに(だからこそ、授業ができる。「先生」でない人の話を聞く義理はない。)、それをなぜ強調しなければならないのだろう。

授業後、学生と話をする。このことを尋ねると、実習指導の教員から「子どもと差別化するべく、私や僕ではなく、先生と言うように」と伝えられているのだとか。学生本人は、(大学の授業で、榊原に「洗脳」されたこともあり)自分のことを先生と言うのは変だなと思ったらしいけれど。

実習校でそう言われては、違うスタイルを取るのは難しいだろう。じゃあ、と一つ提案をしてみた。「一人称を遣わなくても、子どもに話をすることはできるよね。」

◯「先生がいま見に回ったところ、色々な意見が書かれているね」→「いま見に回ったところ…」
◯「先生が後で見るから、ノートを出してね」→「後で見るから…」

思い出せば、日本語は一人称を省略する傾向が強い言語とも言われる。「そう思うなあ」「そんな話、してないよ」「眠れなかったなあ」と、全て私や僕を省くことができる。「僕はトマトが好きです」「私はそう願います」と聞くのは珍しい方だろう。なのに、「先生はね」のオンパレード。

学習指導要領にも、教科書にも書いていない「学校文化」としての「先生はね」表現、これは必要なものだろうか。また、これは教育的に効果が認められる方法や方略だろうか。そもそも、関係するデータはあるのだろうか。評価やエビデンスが大切と喧伝する向きには、示してほしいものだ。

繰り返そう。先生は他者が敬称として遣うものだ。それを自分で言うと、とたんに安っぽくなるからね(医師や弁護士が自分のことをそう言わない[だろう]のは、まことに賢明である)。学校教員もぜひ止めてほしいな。


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# by walk41 | 2017-09-05 10:33 | Comments(0)

いつも崖っぷち

長崎県立大は1日、男性教授4人を、懲戒処分にしたと発表した。このうち3人は、同大大学院人間健康科学研究科の50~60歳代の教授。昨年度後期の選択授業について、本来この3人で計8回行う授業をせず、受講した全学生5人に単位を与えたという。学生らの知人から教務課へ相談があり、わかった。その後改めて授業を行い、単位を認定したという。この授業の責任者の教授を停職1か月、ほかの2人は訓告とした(読売新聞、20170902)

ーーーーーーーーーー

8コマとは、オムニバスの1単位の授業だったのだろうか。変な感想だが、3人の教員がうまく意気投合したものだと思う。勘ぐれば、それだけ手馴れていたということか。


ずいぶん前の拙ブログに書いたことではあるが、文字通り一回も授業のなかった、大学院の授業のことを改めて思い出した。


1985年度前期、大阪大学大学院人間科学研究科でのことだ。履修申告をして、授業がいつからあるのかを担当教員の助教授に聞きに行ったとき(今考えればまったく不思議な話で、授業期間に従って授業は行われるはずだから、尋ねにいく必要などなかったのに、当時の「常識」では、いつから授業が始まるのかを、学生が確かめなければ行われない可能性がある、と思っていたのだろう。過日の朝日新聞にも、京都大学物語として、休講通知ではなく「開講通知」が出たという回想が記されている。)彼は大学院生にこう言ったのだ。「榊原さんは優秀だから、授業をしなくてもいいでしょう。」


ちょっと考えればわかるだろうものを、あんぽんたんな院生は、「そうか、授業がないのか」と喜んだのだ。実際に、一度も授業が行われることはなかった。もちろん、試験もなしである。そして、後期が始まる直前に、受けとった評価は「優」。さらに馬鹿な院生は「ラッキー」と思ったことだ。「君を相手に授業をするほど、ヒマではないんだ」と正直に言うのではなく、学生をおだてるという狡猾な手を使われたのに、である。ちなみに、この御仁は定年までおり、大阪大学名誉教授になっている。まさにいい加減そのものである。


こうしたエピソードが昔話に留まらず、今なお行われていることに驚かされるが、幸いなのは、学生が賢くなって、事務に問い合わせをするようになっていることだ。大いにやってもらいたい。


今や、当時の助教授の年齢を超えるに至って思う。大学における「専門性」とそれを担保する自律性を保持するためには、最終的にはそれぞれの教員の克己心や誇りに拠っており、それはいつも崖っぷち、危ういものだということである。


屋上屋を重ねれば、制度や仕組みをこうしたら、うまくいく部分もあるだろうけれど、それでもなお、個々に委ねられる部分が残り、それは学長ほか管理職でも触りようのないものであり、これもまた「専門性」ゆえということ。このことを踏まえて、いかに自律的であるかがいっそう問われており、それが伴ってこそ「大学」にふさわしいと知らなければならないと。






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# by walk41 | 2017-09-03 21:32 | 大学のこと | Comments(0)

数字は世界言語にあらず

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ネパール・インド料理のお店に入った。
見慣れない数字のカレンダーが貼ってある。西暦2015年のものだが、ネパールの暦、ビクラム暦では、2072年になるらしい。もっとも、アラビア数字に馴染んでいる身としては、「7」に見えないのだけれど。

なぜか、6月16日から7月16日までの月めくりのカレンダーで、しかも、6月16日から順に、1,2,3,と日にちも記されている。ところが、自分が見慣れている「1」は「9」のようだし、「4」はまったく違うので見当もつかない。幸いにと言うべきか「0」はだいたい同じようだ。

ある方のページ、https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=784058318323958&id=669264723136652、を引かせてもらうと、

1->१ Ek(エク)
2->२ DUI ( ドゥイ)
3->३ Teen ( ティン)
4-> ४ Chaar ( チャール)
5-> ५ Paach ( パーツ)
6->६ Chha ( チャー)
7-> ७ Saat ( サート)
8-> ८ Aath ( アート)
9->९ Naau ( ナウ)
10-> १० Daash ( ダースュ)

になるそうで、この数字の複雑さにくわえて、発音もバラバラ(ネパール語がわかれば、事情が変わるのかもしれないが)、少なくとも英語やドイツ語に明らかな規則性がないように見えるのだ。

自分がその世界に疎いものだから、勢い「数字は(ひいては数学は)世界言語だから」などと、わかったようなことを言ってきたけれど、事実はそうではないことに気づける。漢数字だって、世界標準ではないことを思い起こせば、そんなことはとうに解っても良さそうなものを。

己の愚かさに改めて気づかされた午後だった。

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# by walk41 | 2017-09-03 00:06 | Comments(0)

机の距離

ご覧になった方もいるだろう。テレビの民放「学校に行こう」の中に「未成年の主張」というコーナーがある。校舎の屋上から生徒が全校に向かって叫ぶという企画である。往時はすでに15年ほど前かと思うけれど、web上に上げられているので、懐かしく観た。

その中に、こんな「主張」をした男子中学生がいた。クラスの憧れの女子生徒に近く自分の席があり、その距離は30センチメートル。近いところに座れて、幸せな日々を送っていたらしい。続けて彼は叫ぶ。「ところが、学校の妨害が入りました」「席替えです」。可哀想なことに、彼は彼女と5メートル50センチメートルまで離れることになった。環境が一転した様子に、彼はこれを機にと、彼女に好意を告白することになる…

ことほどさように、座るべき席が決められている条件のもとでは、どこに座るかが生徒にとって極めて重要になる。ある生徒にとっては、近くに意中の人がいることは励みになるし、その逆も然りだ。言わずもがな、生徒は学級を中心に「学校生活」を送っている、生活をしているのであり、そこには喜怒哀楽、愛憎が交差する。思春期と言われる時期の生徒にとっては、それこそが学校に通う誘引になったり、学校に行きたくなくなる要因だったりする。私たちも自分が中学生、高校生の頃を思い返せば、思い当たることもあるだろう。

なのに、教育する側に一度回ってしまうと、生徒を見る目は、授業指導案に見られる平べったい「生徒観」に回収されてしまい、ある生徒にとって、教室がどんな場であるかを考えることはおろか、想像することすら忘れてしまう。「好きな子が近くにいるから、いい格好をしようとする」「好きな人に出しゃばりと思われたくないから、控えめな態度を取る」といった、当たり前の出来事に目をつむり、それぞれの生徒と生徒間の関係を観念的に捉えてよしとする。生徒との関係で最前線にいる教員が、頭でっかちの、机上の空論を振りかざそうとするのだ。

大人になれば、そんな恋心を甘酸っぱく思い出すだろうが、渦中の生徒にとっては大問題である。こんな世界が教室にどっしりと横たわっていることを踏まえて、どんな授業論が可能だろうか。彼ら/彼女らにいかに影響を及ぼすことができるだろうか。

そもそも、生徒たちによって生じる力学に授業者はいかに影響を受けてしまうのか。また、影響を受けた場合の、自身のマネジメントはどうありうるのだろうか。こんな基本的なことを確かめずに、「教員の働きかけに対して、予想される生徒の反応」といった、現実離れした話ばかりしていていいのだろうか。





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# by walk41 | 2017-09-01 22:41 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

「自分くらい」が自分の首を絞める(社会的ジレンマ)のだけれど。

本来は医薬品なのに、美容にも有効だからと、多めにさらには家族の分もと処方箋を求める患者が増えているという(朝日新聞、20170831)。保険適用だと自己負担は少なく、市販の類似するものよりも、はるかに安く手に入れることができるからとは、確かに魅力的だ。

ただし、上の新聞記事でも指摘しているが、患者と病院のコスト意識の低さがこの傾向を助長するならば、ただですら医療費は増大しているのにこれを加速させることになり、近い将来、保険適用外の医薬品が増えてしまいかねない。回り回って、前ならば安く手に入った医薬品がそうでなくなることが起こりうる。これが社会的ジレンマと呼ばれる現象だ。

「自分くらいこうしたって、大したことはないだろう」という見立ては、「自分」が限られる規模ならばその通りなのだけれど、それが大量になると、文字どおり「大したこと」になってしまう。たとえば、本来はごみ置き場ではないのに、そこまで行くのは面倒だからと、近くの空き地にごみを放棄する。不適切に捨てる人が少ない間は、誰かが片付けてくれるけれど、たくさんの人がこれをすると、その場所はいつの間にかごみ置き場のようになってしまう。本来ならば必要のなかった回収費用がかさみ、ごみ袋の有料化、さらには回収頻度の低下等へと発展すると、生活に支障が生じる。「ごみを楽に捨てられてラッキー」と思ってしたことが「ごみを捨てることが難しくなる」結果を導く点で、これも社会的ジレンマである。「自分くらい」が少数に留まる場合、問題は顕在化しにくいけれど、この両者が逆転しかねないような事態になると、話はまったく違ってくる。

と同時に、このジレンマについてはおもしろいことにも気づける。というのは、誰もこうした「ルール違反」をしないような事態とは、極度に同調圧力が働いている証だから、ある意味で異常である。そうではなく、「ほどほどに」ルールが守られることこそが重要ではないのだろうか、と。

思い出したのは、ずいぶんと昔の学校調査のことだ。その小学校のPTA総会の保護者の出席率は100%に近く、休むと回りから「どうしたの」と尋ねられるくらいと聴いた。運動会などの行事における保護者の協力も徹底しており、ほとんどの方が参加されるのだとか。この学区地域では、近所のおじさんが勝手に他所の家に上がり込み、冷蔵庫に入っているビールを空けても問題にならないとも伺った。まったく凝集力の強い地域社会である。こうしたところでは、逸脱者は生まれにくい。けれど、だからといって「望ましい」かと問われれば、手放しで喜ぶべき状況でもない。学校が嫌な子ども、家庭教育を大事にしたい保護者、プライバシーを重んじる家族にとっては、息苦しいこと、この上ないだろうからだ。一つの「望ましい」を価値化することは、全体主義的である。

つまり、「みんながルールを守る」のは無理をしすぎている点で問題があり、かといって「多くの人がルールを守らない」のも規範が正統性を持ち得ない点で問題になる。「多くの人がルールを守る」もと、「少ない人がルールを守らない」ことを冷ややかに見る、ときに厳しく指弾することで、「ルールを守らない」方向へと雪崩を打たないようにする、この辺りが「健康な社会」の条件ではないだろうか。



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# by walk41 | 2017-08-31 17:00 | Comments(0)

「余計なこと」で経営資源を無駄にしてはいないか

家人から、小学校時代の思い出話を聴く。

高学年だった時の給食の時間、担任だった教師は、牛乳瓶の紙キャップを置くためのザルをどこから持ってきたのか、班ごとに用意する一方、牛乳が滴れることからそこにティッシュを敷くように言ったという。また、誰がティッシュを用意するかは、それぞれの班の「自治」に任せるべく、児童につもりさせていたのだと。

4人ほどの班だが、いつの時代も同じかどうか、多くの男の子はティッシュなど洒落たものを持たないから、勢い女の子がティッシュを出すことになる。さらに、女の子の中でも、いつも携えている子とそうでない子に分かれるから、家人は結構な確率で、ウサギの図柄が入ったような可愛い系のティッシュを提供することになった。毎日のことだから、子どもには結構な負担だったことだろう。今は言う。「そういうものを子どもに出させるのは、おかしいと思う。」

加えて、誰もティッシュを出せなかった時、担任は児童を叱ったとも聴いた。それって本末転倒だろう。ジャムやマーガリンの包装容器と同じように、食器を下げる時に一緒に片づければ済む話じゃないの。なぜそうしなかったのだろうか、うーむ。

こんな儀式があったのはこの学年だけだった、ということは、学校の方針でも何でもなく、学級担任教師の「好み」に過ぎないことを、児童に押し付けたものだったこと、要らない(この教師にとっては必要な)儀式のために、自らの認知的、感情的資源を浪費し、しかも児童に徒らなストレスを与える点でも、無駄なことであった。そんな拙い意思決定をしたのも、担任教師である。

この教師は、他の教員たちと情報や意見の交換しなかったのだろうか、学校管理職はこのことに気づかなかったのか。学校では副校長、主幹・指導教諭と職位が増えて、統制が強まった、教員評価が入って窮屈になったと言う人もいる。けれど、裏を返せば、どれだけ個々の教員が裁量を持ち、言わば好き勝手にしていたのか、今なおそれを謳歌しているのか、を見つめる必要もあるというべきだろう。

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# by walk41 | 2017-08-30 07:56 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

裁判官ぶる教師

読売新聞Web上の「発言小町」というコーナーをよく見せてもらっている。そこに、35年前の学級担任だった女性教諭の理不尽ぶりを投稿した主がいた(http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2017/0826/816715.htm?g=01)。


小学校高学年に転校生だった投稿主が、クラスで激しいいじめに遭い、持ち物を壊される、汚されるという被害も受けたことから、保護者が学校に相談したという。


すると、驚くべきことに、学級担任だった教職三年目の女性教師は、クラスみんなの前で、こうした行為をしたのかと尋ね、していませんと声の上がるのを待って、次のように宣ったらしい。


先生はみんなを信じています。いじめなんかする人はこのクラスにはいない。そんな子が一人もいないことを、先生は一番よく知っています。(投稿主に向かって、壊された鉛筆を握りながら)こんなことまでして、あなたの心は本当に醜いですね」


35年と十分な時が流れたにもかかわらず、投稿主は今なおこの季節を迎えると憂鬱になることがあるらしい。気の毒なこと、この上なしである。


学級経営という名前の「自分好みの学級づくり」を志向すると、学級担任は教員ではなく教師になり、マイルール、マイウエイと我流を行き渡らせようとする。学校あっての自分の職務なのに、そんなことお構いなしに、専制君主と化す。これが学級王国である。


ここに、学校のメンバーという組織人であること、また国家以下の公権力が控えていてこそ自分は「上から目線」を取りうる、ということを忘れた恐ろしさが見える。そこに公共性は担保されない。法令遵守(コンプライアンス)も一顧だにされることはない。それが、上のようなおぞましいエピソード生み出す。いじめがあるのかどうかの事実を調べる立場なのに、「いじめる子はいない」と一足飛びに判決まで下しているのだから。弁護士も裁判官も要らない横暴ぶりである。


子どもがまだ小さい、小学校で働く教員に対して強く思う。なぜ自分が「先生然」とできるのか、その由来について知り、考えるべきだと。相手が従ってくれているから「何となく」偉そうに振る舞うのではなく、どうして相手が少なくとも表向き従順なのか、を不思議に思う感性を保ってほしいと。



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# by walk41 | 2017-08-29 14:03 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

後手後手かなあ

来年度予算に計上すべく、文部科学省が教員支援策をまとめていると報じられている(朝日新聞、20170828ほか)。先日、年収100万円台で、計画的に進めにくい教員の業務に対する臨機応変な補助をお願いできる人が見つかるだろうかと記したが、他のアイディアにも首をかしげるものがある。多忙な学校現場を何とかしたいと思う、文部科学省の努力は認めるけれど。

たとえば、「外部の部活動指導員7100人への補助」に15億円を想定しているという。一人当たり20万円くらいだ。補助率を何割くらいで想定しているのかわからないが、プリント補助などを担うという「スクール・サポート・スタッフ」が3分の1の補助というのに倣うと、部活動指導員に約60万円を支払うつもりをしていることになる。

時給を1500円とすれば、勤務可能な時間は年間で400時間、月あたり33時間ほどになる。月曜日から金曜日までの平日は1時間半、土曜日または日曜日は4時間と考えると、週あたり11.5時間、月に3週間くらいならば担当できるだろうという算段だろうか。ところが、これは直接に生徒に接する時間のみであり、その準備、記録整理など、事前と事後の時間は含まれていない。もちろん、大会ほか対外試合への引率の時間も入っていないだろう。

くわえて、「スクール・サポート・スタッフ」と同じように、そもそも一日あたり2時間あまりという短い時間を、毎日のように工面してくれる人がどれほどいるだろうか。現実的な線で考えている人に対して「無い物ねだり」になり申し訳ないけれど、現状を微修正しようとすると、木に竹を接ぐ格好になり、どうも上手く行かないように思うのだ。後手後手の感を否めない。そうではなくて、部活動を学校の外に持っていく、あるいは、補助ではなく、学校スタッフとして部活動(のみ)担当する新たなポストを設ける、といった抜本的な方向でなければ、

そこではより大胆な、けれどもある意味で当たり前とも言えるアイディアが求められる。教育課程に含まれない部活動に従事するスタッフの費用を、公的に支出するのを多くの人は認めないだろうと踏んで、部活動は私的活動だと明確にするのだ。部活動をもっとやれという熱心な保護者も多いということならば、その費用を当該の保護者に出してもらってはどうだろうか。

年間100万円くらいで来てくれるのならば、部員数で割れば、たとえば一人当たり3万円、あるいは5万円。この水準の費用の負担を保護者や生徒に求めることは、あくまでも個人的には、さほどアンフェアとは思われないのだけれど。「学校ではないけれど学校的な活動をしている」学習塾に充てている私的費用を考えれば、部活動も同様だと主張することが、無茶苦茶だとは言えないだろう。いかがだろうか。




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# by walk41 | 2017-08-28 21:46 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

やっぱり「上から目線」であってこその教育

「相手の気持ちをくみ取り、自分で判断して行動できるようになってほしい」と記した、小学校社会科の指導計画を目にする。うーむ、これは社会科の目標なんだろうか、そうだとしても、相手の気持ちなど汲み取ることができるんだろうか、と思いながら、駅に向かった。


すると、60代だろうか、いわゆるむさ苦しいオッサンが、別の客に対応しているにもかかわらず、駅員の袖をはたくように、「京都行きは次、何分や」と訊く。目の前の電光掲示版に示されているのに、である。それでも、駅員は親切に「55分です」と答えたら、このオッサンは次に「いま何分や」と宣う。おいおい、それは人にものを尋ねる時のセリフとちゃうやろ、と心の中でうそぶく。「50分です」と駅員はあくまでも丁寧だ。偉いなあ。


この御仁はまだ終わらない。「55分やな」と駅員に畳み掛ける。ええ加減にせえや、あんた。さすがにというか「そうです」と駅員の声が上がった。そりゃ、腹も立てるだろう。


困ったもんだ、と券売機に向かうオッサンを見たら、改札口を通り際に、持っていた帽子をこちらに向かって振り回し、こっち見るな、と闊歩していった。


さて、こんな人に相手の気持ちを汲み取ることを期待していいだろうか。そもそも、自分の気持ちを汲み取れているだろうか。無理だよね、きっと。


ことほど左様に、教育という世界に長くいると、人を変えること、いささか過激に言えば、操作することに違和感を持たなくなる。そこで抜け落ちるのは、操作できるのかという技術の観点と、操作していいのかという倫理の観点である。このいずれも、できるだろう、そうすべきだと、根拠のない「できる論」と、教育する側の善性を疑わない「べき論」が跋扈する。


指導目標や指導計画など、相手の子どもにとっては、どうでもいいことである(もちろん、先の御仁のような人ほか、大人にとっても)。子どもに関わることなのに、当の子どもには知らせず、ましてや相談もせず、勝手につもりをすることが暴力的でなくて、何だというのだろうか。


「上から目線」を保たなければ教育はまったくやりにくい。けれど、それが罪深いことでもあるという自覚と対応する言動を伴わなければ、恐ろしいことである。この両者を持ち得てこそ教育に携わることができる。このための指向性、思考と行為に関わる体力が必須な所以である。


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# by walk41 | 2017-08-27 11:28 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

リフレクションは仕掛けられるか

新聞の投書欄を読んでいて、あれ、見覚えのある名前だと思い当たった。ゼミは違うけれど卒業生だ。

もう小学校教員になって5年目くらいだろうか。初任期をおおよそ過ぎ、「一人前」に仕事をできるようになっていることだろう。

彼女は記している。「五年日記」をつけており三年目になるが、子どもとのやりとりで、ともすれば「やりがい」のあり過ぎる慌しい日々を送る中、以前の日記を読み返すと、今とは違う受け止めをしていることに気づかされる、と。読み返すことで、また頑張ろうと元気をもらえるのだろう。

大変だろうが、まずは元気に過ごしている様子を知るに嬉しく思うと同時に、こうも考える。こうした振り返りのできる教員は、たとえば日記というツールを通して、リフレクションできる仕掛けを自ら設定しているのではないだろうか。

教員の職能成長・職能発達にとって、リフレクションの重要性が指摘されて久しく、実習を終えた学生の振り返り、校内研修での話し合い、集合研修での自己省察と、何でもリフレクション状態にまで陥っている(ゼミ修了生の嵯峨根早紀(2017)「教員の力量向上における『reflection』議論の分析ー1990年以降の小学校教員を対象にした文献を中心にして」を参照)。そこで問われるべきは、この言葉が濫用されているという点もさることながら、それがどのようなものであれ、「振り返りの機会を設定すれば、反省的思考が促される」と想定することが誤りではないだろうか。

上の彼女のように、自分の様子を観察し、周りとの関わりを記述する姿勢や能力を持っている教員こそが、リフレクションの機会を得ているのであり、そうした場やチャンネルを本人以外が設けても、はたして有意義だろうか。「研修に来てほしい教員は来ず、来なくてもいい教員が研修に来てくれる」とボヤいた研修担当の指導主事の言葉を思い返すと、職能成長はつまるところ、その人に相当程度まで依るのであって、周りから研修や修養と持ちかけても、きっとダメなのだろうなあと思わされる。

と同時に、その人の内的な指向性にまで迫るような問いかけがあれば、リフレクションが促されるかもしれない、と考えるならば、それを担う講師や主任あるいは管理職が、自身を開示して問題を挟み、相手と対峙する必要があるとも感じる。はたして、そんな能力や覚悟は当事者にあるだろうか。

教職が人格的な行為であり、その人ならではの性格を色濃く帯びていることを踏まえれば、通り一遍の質問や、マニュアル化された手順で、相手が変わることが期待できるはずもない。やり方や手法として研修や講習が設計されること自体が拙い、とも知るべきではないだろうか。

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# by walk41 | 2017-08-26 12:47 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

どこまで分業できるか

教員の長時間労働を改善するため、文部科学省は教員の事務作業を代行する「スクール・サポート・スタッフ」を全国の公立小中学校に配置する新制度の導入を決めた。…(中略) 文科省によると、サポート・スタッフは都道府県教委がパートタイムの非常勤職員として雇用し、来年度は全国約3万校ある公立小中学校のうち規模の大きい3600校に配置する。文科省はその人件費の3分の1を補助する。担当する業務は児童生徒に配るプリントのコピーなどの授業準備のほか、校内掲示物の作成、行事や会議の準備・片づけ、調査統計のデータ入力などを想定している。(読売新聞、20170825)
……
スクール・サポート・スタッフ」の配置に、都道府県教育委員会に14億9000万円の補助を予定ということだから、一人あたり41万円ほど。これが三分の一ということは、年間123万円ほどで雇うことになる。時給を仮に1000円とすると、年間労働時間は1230時間、月あたり100時間くらい、週に23時間程度だろうか

この10年間に教員の勤務時間が増大しているという「教員勤務実態調査」の結果を受けてのアイディアだけれど、二つのことを考えなければならない。

①上のような報酬で業務に適う人が得られるかどうか。「これを40部印刷しておいてください」と大学の非常勤先などで、予め授業レジュメを渡しておけばやってもらえるような業務ならば、イメージは湧く。けれど、行事や会議の少なくとも準備となると、内容をよく理解しておかなければならない。それなりの学歴や経験も必要だろう。そうした人を、年間100万円代で見つけることができるだろうか。

ちなみに、入学式・卒業式や文化祭などの準備は、一時的であれ多くの頭数が必要になるから、学校あたり一人ふたりの「SSS」(スクール・サポート・スタッフ)がいても、それほど助かるわけではない。それは、教育実習中の学生に手伝ってもらうというイメージを超えないのだ。

②①とも関わるが、業務が固定的であって、そこに人が付くというよりも、流動的な業務を人が追いかけるという趣きが強い学校の業務(榊原「学校組織構造のメタファー」『京都教育大学紀要』113、2008)は、その性格ゆえに個人の裁量に委ねられる部分が多く、「どうやってほしいかを説明するのに、かえって時間がかかる」と反応されかねない。

「学級便り」の印刷を例にすれば、それがいつ出来上がるかを明言できず、SSSにいつ頼むかを事前に決めることができない。反対に「頼みたい時に、いない」ことが起こるし、複数の教員から頼まれるであろうSSSも、仕事をしにくいだろう。

仕事(業務)は歴史的に個人完結型であり、それが生産規模の拡大に伴って分業化されてきた。そこでは、個人で完結する場合よりも合理的であるために業務の単純化、明瞭化が不可欠である。ところが、学校での業務の多くはこれと反対の方向にある、つまり、個人でやる方が早い、適切だからこそ、個業的な性格を色濃く持っていると解すべきではないだろうか。だとすると、一つの仕事を多くで分担するよりも、仕事の単位を小さくして、それぞれが担うという方が合理的ということになる。

だから、教員数を増やして学級や授業、あるいはいわゆる校務分掌の単位を小さくすれば負担は減るが、業務の単位を変更しないで、サブ的な人を増やすのは、部分的に助かるものの、やりとりに割かれる労力や気遣いなど、負担はかえって増大する面もある。教員間ですら、ティームティーチングは不評なのだから。

以上、教育労働の多くは個人完結的だと捉え、業務の単位を小さくする(教員数を増やす)ことの意義を踏まえつつ、それができない場合は、分業により適した業務をサブ的な人に担ってもらうという、二段構えの発想が必要ではないだろうか。

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# by walk41 | 2017-08-25 10:12 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)

怖い自動販売機

朝日新聞デジタル、中村江里子「パリからあなたへ 自販機で買う時は『無駄なお金を使うかもしれない?!』という覚悟を」(20170822)を面白く読みました。パリの自動販売機事情を紹介しています。

その中に、コインしか使えない、商品が出てこないこともあるので、出てくるとホッとする、お釣りが無事に返って来たことはあまりない、という行で、南ドイツでも似たようなものだなぁと思い出しました。

私は飲み物やお菓子の自販機をまず利用しないので、わからないのですが、 電車の切符を買う時に同じようなことを感じます。私の知る限り、お札は使えても20ユーロまで、50ユーロ以上は受け付けません。しかも、お札はなかなか飲み込まれず、戻ってくることもしばしば。うまく機械に入ってくれただけで「やった」と小躍りします。クレジットカードも受け付けるとありますが、読み込まれないことが多いです。しかもクレジットカードを使えたとしても、金額にもよるのでしょうが手数料を自動的に取られます。

また、お釣りが戻ってくることはなかなかないのです、これは本当の話。「トラブルがあればこちらに連絡を」と電話番号が書いてありますが、そんな気になるはずもなく、諦めることになります。ドイツ人の友人に愚痴を言うと、「みんな、時間を急いているし、そのままになることが多い」と返ってきました。こんないい加減なことが日常なんて、絶句ものです。

ミュンヘン駅構内のコインロッカーで、往生したことも思い出されます。1時間いくらだったか、預けたのはいいのですが、2時間ほどして戻って来たら、表示されていたのは6時間ほど預けた金額に。びっくりしましたが、取り出さない訳にはいきません。けれど、20ユーロ弱と大量の小銭を持ち合わせず、近くのキオスクに両替を頼んだら、規則で何ユーロ以上は小銭に替えられないと言われ、お店をハシゴすることになりました。電車の時間は迫ってくるし、結構なストレッサーでした。

何気なく利用している自動販売機ゆえか、その素晴らしさになかなか気づけないのですが、日本のそれは大したものだと思います。一万円札までがたいてい使える、クレジットカードも問題ない、お釣りが出ないなんて想像できない、(コインロッカーに対しても)ICOCAカードなども使える、災害時には無料で配られる設定のものもあると、嬉しい意味で驚かされます。関係する方々のアイディアと努力に深謝です。

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# by walk41 | 2017-08-24 10:20 | ドイツのこと | Comments(0)

非言語に見られる自己認知と自己主張

youtubeを見ていると、道路上のトラブルを特集したものに出くわす。

怖いモノ見たさで覗くと、交通法規無視で暴走するクルマ、接触しかけたのか怒りでクルマのドアを激しく蹴るライダー、合流地点で入れる入れないのバトルを繰り広げた後、あろうことか自分のクルマを相手にぶつける輩と、驚くシーンが満載である。

こうした映像を見ていて思う。実寸よりは大きいけれど、クルマは自己主張のツールでもあり、その前提として自己認知が伺われる点で、「クルマとドライバーのありよう」を考えるのは一興だろうと。

たとえば、クルマに自身を投影させたい向きにとって、その大きさ、デザイン、色、性能、これらに伴う価格は、自己願望の投影である。この点で、借金をしてまでクルマを買うのは、「実物大以上の自分を求めているから」と解するのは、意地悪だろうか。所謂いかついクルマで「これに乗ってる俺って…」と思うのは、クルマという非言語を通して自分の強さ、大きさ、金持ちさをアピールすることでもある。お金を出せば選べるナンバープレートの番号に拘る人もいる。過日、ルール無視いっぱいの二台のワゴン車と遭遇したが、同じ数字のプレートナンバーだった。「お友達」なことを確かめたいのだろう。また、「・893」のナンバープレートを付けて無茶な横入りをした上、自分の前には決して入れなかったクルマを見たとは、家人の談だ。

ちなみに、サングラスは相手に自分の目を見られずに、相手を見ることができるツールである。「目は口ほどにものを言う」がゆえに、目力がないと自覚していれば目を閉ざすしかない。もちろん、目を開けない訳にはいかないから、サングラスを遣う(光に弱い方などは別にして)。相手の目を見ることができない相手は、非言語上のメッセージのやりとりができないから、不利になる。シールドいっぱいのクルマは、このサングラスと同じ理屈で見えないことによる不安を回りにかき立てる。まことに迷惑な話である。





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# by walk41 | 2017-08-23 11:41 | 身体 | Comments(0)

お店の名前

広島市を訪れる。

お好み焼きを食べながら、同席くださった方からこんな話を聞いた。

お好み焼き屋さんに女性の名前が多いのは、被曝後、連絡が取れなくなった家族や知人に、自分がここにいると知らせるために店の名前を付けたから、と聞きますよ。

そんなこともあったのか。一瞬にして町が崩壊、おびただしい方が亡くなったことに加えて、生き残った人も衣食住を失い、人々の繋がりも失った。

その痕跡がこうして残されていることを知り、言葉を失った。

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# by walk41 | 2017-08-22 09:11 | ことばのこと | Comments(0)



教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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