NHKで放送している「ルソンの壺」(関西と鳥取、香川、徳島のみ)を見た。
神戸でワーキングマザーを総合的に支援する会社「マザーネット」が紹介され、急な子どもの発熱のケアから、妊婦さんに替わっての夕食の支度、子どもの宿題を見るといったスタッフの活動の様子が流れる。番組の最後、「将来の夢は」とたずねられた社長の上田さんの答えがまったく振るっていた。「マザーネットが要らなくなること」。
自分の会社がなくても、困った誰かを助けることが当たり前の社会をつくりたい、というメッセージと聴いた。こうしたミッションの立て方もあるんだなと。そこで以前に読んだ一文を思い出した。福岡で共産党の議員として活躍する男性に雑誌記者が問う、「何のために頑張っているのですか」、「共産党が必要でなくなる世の中を作るために」。同じように、刑務所の看守の夢は「刑務所が必要とされなくなること」と言えるだろう。
学校経営の議論では、ミッションなくして人は動かないという論理から、教職員に「何のための学校か」という問いを投げかける。目に見えにくい教育-学習活動だからこそ、構成員の使命感がいっそう重要と考えるのだ。そこでは「子どものため」「保護者のため」「地域社会のため」…と話は出るものの、「学校が不要になる世の中にするために」と語られることは決してない。その反対に、人々の学校体験が増えるほど、「学校は求められている」という論調が強まるほどである。
学校から巣立った子どもが立派な大人になって、学校がなくても次の世代を育てることができるような力を身につけること、自分たちは今そのために励んでいるのだ、と教職員が話すのは夢想だろうか。
天に唾するごとく、自分にも同じ言葉が降ってくる。「あなたは何を目指して教員研修を担当するのか」、「研修など必要としなくなる教員を生み出すために」って言えるだろうか。