教育の議論がややこしいのは、次の二つのことが混在しやすいからだろう。
その一つは、実際、実態、現実と言われる、客観的に存在する(と思われている)事実。たとえば、年間30日以上、病気や怪我などではない理由で学校に来ない児童・生徒数、PISAテストでの平均得点など、量的データが多い。
もう一つは、観、思惟、まなざし、といった、主観的(あるいは、共同幻想的)なもの。たとえば、無垢な子ども、14歳の心の闇、など、質的なデータと言えるだろう。
やっかいなのは、この二つが完全に別物とは言えず、多分に重なるために、議論がどうしても混乱するということだ。
たとえば、「子どもが変わった」というテーマ、実際に子どもが変わったのか、それとも、大人がそう思うのか、を明確に分けることはできない。人の記憶は不確かでもあるので、いくつかのエピソードをきっかけに、「そういえば、今の子どもは昔とは違うよなあ」というイメージが醸成され、次いでアンケートやインタビュー調査が行われて、「変わってきている」あるいは「変わっていない」とデータが出てくる。テーマに注がれるまなざしの強さによって、どちらの結論に傾くかが大きく影響を受けるほどである。
このことは、子どもや教室、学校が、量的よりも質的に語られがちなことも影響している。学校の現実なるものは、もっぱら、教職員の肉眼のほか、聞く、さわる、感じるといった域を出るものではない。それは、測定機器の不十分さとも言えるが、同時に、測定がそうした主観的なものでしかありえない証左ともいえるだろう。子ども理解や学校の把握は、主観的そして質的なものにならざるをえない。
かくも、客観的に子どもを捉えることはできないという証拠として、「子ども観」という言葉が位置づいているのだろう。ここから導かれるのは、子どもをつかまえようとすることと、子どもがいかにつかまえられているかをつかまえようとすること、二正面作戦で臨まなければならないということだ。
子どもを語ろうとするとき、それは自分の子ども観の表出でもあること、児童生徒、そして学生に接する立場は、このことに慎重でありたいと思う。つまり、実態の分析も大切だが、どんな眼差しを対象に注いているのかという、自分の問題がいっそう重要という点について。