今春から4回シリーズで放送されているNHKスペシャル「ヒューマン」、とても興味深く観ている(元号だけで報道せえへんかったら、ええ放送局なんやけど)。
第2集はグレートジャーニー。およそ6万年前にアフリカを旅立った、わずか数千人の人類が、1万年あまりの間に、ネアンデルタール人と同時代を過ごして、地球上のほとんどの地域に広がっていった背景を探る。
大脳新皮質の占める割合により、生き物が社会を構成できる規模がほぼ決まるという理論によれば、人間社会の限界はおよそ150個体まで。にもかかわらず、これを大きく上回る社会ができたのは、投擲機と呼ばれる人間の身体を大きく超える範囲を狙える、飛び道具の発明が決定的なのだという。
さて、その後半に紹介されるのは、同じ刺激を与えられても、受け手の理解は異なるという説明。暴力シーンを見せられた時、それが仲間だという理解のもとでは、島皮質という脳の神経細胞が反応して、不快感を得るが、同じシーンであっても、それがその社会の制裁だという理解のもとでは、側坐核というところが反応して、快感を得るのだそう。同じ刺激でも、反応は異なるのだ。とてもおもしろい。
これを、学校教育でしばしば話題にのぼる、「いじめ」問題に重ねてみよう。「いじめは正義だ」と看破したのは板倉聖宣だが、まさに上の事実に重なるだろう。「不当な」暴力には不快感を感じる。だから、許せない。これに対して掟を破った罰、さらには報復の暴力は快感である。なぜなら正義が行使されているのだから。
「いじめを撲滅する」といった浅はかな道徳論をあざ笑うかのように、子どもたちは祖先から受け継いだ行動様式をしっかりと踏襲している。仲間には博愛を、ただしルールを破った者への制裁を伴うものとして。