多忙についてたずねれば、ほとんどの教員は「忙しい」と口にする。
そこで更にうかがいたい。忙しいというのは、「忙しいなあ、ってずっと感じている」のか、それとも「気がついたら、ああ忙しかったという感じ」なのか。
どうしてそんなことを聞きたいのかと言うと、もし前者だったら、いわば意識化された忙しさだけれど、後者だったら、無意識にやっている結果として忙しいと感じるように、両者は違うのではないかなって思ったので。
自分でもまだわからなぬまま書いているのだけれど、こんな例は当てはまるだろうか。
自転車を練習しはじめた頃、視線は間近に落とされ、ペダルの速さ、ハンドルの切り方、転ぶまいと一つ一つに懸命に注目する。しかし、自転車に乗れるようになれば、視野は遠くまで広がり、自分の足がどんな様子なのかを気にかけることもない。自転車にまだ乗れないときは、意識して乗ることでとても疲れるけれど、乗れるようになれば、この点で疲れることはない。
学校の仕事、とくに授業の場面を考えれば、一面でルーティンワークだが、その一方で、昨日のクラスと今日のクラスの雰囲気が違うために、臨機応変でもなければならない。そこで知りたいのは、教員の感じる忙しさとは、めまぐるしく場面が変わることに起因するのか。それとも、ルーティンあるいはパターン化された活動なのだけれど/あるいは、それゆえに、忙しいと感じるのか。
こうした点からの、多忙問題の解きほぐしがあってもいいかなと思ったので、今回は問題らしきことの提起のみにて失礼。