龍安寺に置かれる石に「宇宙」や「世界」を見いだすように、人は客観的に存在するものに対してすら、それぞれの脳でさまざまな像を結ぶ。となれば、自身を離れて捉えることのできない主観的なものが席巻する領域において、「共通理解」や「一糸乱れず」などがまずあり得ないのは当然だろう。
学校教育もその一つの場である。そこでは、「子ども」の「成長」「発達」を促し、彼らが「学力」や「生活習慣」を獲得することを目指して設計される。そのほとんどは、客観的な測定がまず不可能な、主観的なものから成っている。
ここで大切なのが、それぞれの物語であり、それは過去と現在そして未来という時間の流れを持つ歴史でもある。「明日を目指して」とか「伝統を重んじ」などといった言い回しが頻繁になされるのも、今だけでは作れない物語のゆえだろう。
その物語におけるポイントは、「おひとり様」ではまず成立しないということだ。登場人物が自分だけなんて物語になりえない。そこには友人や家族、仲間や同士、あるいは敵や宇宙人がいなければ文字通りお話にならないのだ。
さて、学校教育では「いかに児童生徒の意欲を引き出すか」が授業論のイロハとも言える状況だが、その理由を物語の不在に見つけられるならば、学校に大きな示唆を与えられる。
マルクスの「万国の労働者、団結せよ」と述べたことの卓越性を、内田樹が指摘しているが(2011.10.26. 日本経済新聞、電子版)、それは他者がいてこそ物語が創られることを意味するとも言えるだろう。
「やっておかないと困るよ」「親戚の間で自慢できるから」ではなく、君が関わる「世のため、人のため」に、君たちの勉強(この場合、学び、ではなく)があるのだという、因果を含めた話が学校から、保護者から、あるいは社会から発信されず、それが彼らの物語づくりにつながっていないことを知らなければならない。
「豊かな国」における、また「貧しい国」における「無気力」「無関心」ゆえに、子どもたちが物語を紡ぐ仕掛けが欠落していることが、「勉強から逃避」を招いているのである。