あくまでも、学校でいう「校内研究」に限った話。
どうしてこんなスタイルになっているのかわからないけれど、教育委員会所管の教育センターがこの指南をしていることは明らかだ。たとえば、http://www.edu-c.pref.miyagi.jp/longres/H15_A/pdf/gkgb09.pdf
一例を引くと、「国語科の『話すこと・聞くこと』の指導を中心とした発表活動において,話す内容を考える際に使用する学習カードを工夫したり,友達の発表の要点や発表の仕方の良い点等に気付かせる支援の仕方を工夫したりすれば,話し方・聞き方が深まり,意欲的に意見を伝え合うことができるようになるであろう。」
話をつづめると、「~の工夫をすれば、~になるだろう」という話。これをおかしいとは思わないだろうか。
だって、「学習カードや気づかせる工夫」と「深まり、言い合うことができる」とは、ほとんど同じことを言っているから。「雨が降れば、雨傘を差す人が増えるだろう」の方がまだちょっとは違っているくらいだ。
そのため、生徒の深まりや伝え合いが、工夫の結果なのか、それとも、深まりや伝え合う様子を見て、工夫をしたと判断できるのか、がわからない。さらには、これまでそんな工夫をしてこなかったの?とたずねたくなるほどである。
こんなことを続けていても、授業は何も変わらない。そのことを当の教員は知っているから、校内研究は決して「やりたいわけではない」、研究主任にはなりたくない、指定研究もできるだけ避けたい、御免被る、となるのだ。
もうこんなことは止めや、と声の上がらん辺りが、「まあ、ええんとちゃう」という踏襲型の硬直した組織ゆえか。「学力向上」って子どもに変わることを求めるんやったら、教員と学校も変わらんと、あかんやろに。ええい。