もう1年以上前になるが、宅配「おせち料理」の事件があった。宣伝と実際の中身があまりにも違う、飾られておらす残飯同様と、とんでもない商売をした店だったが、合わせて問題になったのは、店の一角で普段着のまま食材を盛りつけていた様子が、インターネットで公開されたことだろう。そう、ちゃんとしたおせち(に限らないが)を作るには、温度、湿度、衛生状態など、厳密に管理されなければならないのに、その真反対のことをしていたのだから。
ところ替わって学校、家庭との連携はともかくも、なぜか地域との連携が声高に叫ばれる日本では、とにもかくにも「開かれている」ことが大切なようだ。地域に開かれた学校として、学校公開をする、地域資源を活かした「総合的学習の時間」、地元の人も「先生」に、おまけに地域行事への教職員の参加(これは勤務か?)など、目白押しである。
だったら、「~すれば、~になる」といった授業研究ができないことは明らかだ。授業内外の環境が閉じられておらず「開かれている」、つまり、管理するのが難しい状況を自ら導いており、ある出来事がどうしてそうなったのかについて説明できない、因果関係はおろか、相関関係すらわからない状態ですよ、と宣言するに等しいからだ。
仕出し屋さん、なかでもおせち料理を作るような店に、「開かれた」はありえない。商品を管理できないからだ(危なっかしくて、とても食べる気にならんぞ)。なのに、学校は管理できない条件をかたや設定しながら、もう一方で、管理できてこそ可能な、一元的に説明可能な研究をやろうとする。授業研究は、「~すれば上手に授業ができる」ことを追求するものではない、それは、「いろいろなやり方があるんだなあ」と自らの視野を広げ、相対化することにこそ意義があるのだ。
なのに、この基本的なムリさについて、どうして気づいてもらえないのだろうか。