学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

「どこでも同じようにできる」

今でも思い出す大学の授業のワンシーンがある。

当時わたしは、大学院生として学部の授業を聴講していたが、授業中に女子学生が手を挙げて教授に質問したのだ。

その趣旨は、「教育制度の研究をして、どんな意味があるのですか」というものだった。わたしは、「ええ質問するなあ」と心の中で拍手をしたのだが、これに対する教授の言葉には、大いに肩すかしをくらった。正確ではないが、ほぼこのままだったはずだ。

「正しい教育制度について知っていれば、どこでも同じように教育ができる」と。

ここからは、ずるい後智恵(いわゆる正当化、合理化)も含まれるが、そのとき直感的に「なんか、違う」って思ったのだ。

後智恵というのは、その数年あるいは十年くらい後かもしれないけれど、こうした言い方については、ちょうど、聖書やコーランを正しいと見なして、その近くに身を置く自分を疑わずに、まるで司祭のように振る舞うのが「研究者」だと捉えれば、うまく現実を説明できるなあ、と気づいたことだ。

正しさが所与のものとして存在し、なぜかはわからねど、その近くにいる自分は、「神の声」を届けることができるという構図、いうまでもなく、「信者」あるいは「迷える子羊」は、教育学の後進または学校教員である。

これが、「教育学徒」もしくは「教育教の信者」だが、彼らもやがては目覚める。いつまでも司祭の言うとおりには世界を解釈しない。

はたして、司祭の言うような世界が正しいのか、それとも他の司祭を捜した方がよいのか、はたまた、そもそも「真理」へと導く司祭などペテンのようなものなのか。あれから四半世紀が過ぎ、「最後の審判」も近づいたように思う。

当時の関係者には厳しい言い方が続くが、これもまた、「教育効果」の一側面だろう。将来、自分の授業やゼミのことを覚えているかもしれない今の学生にやがては審判を受けること、まさに他山の石、大いに自戒しつつ励みたく思う。
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by walk41 | 2012-07-28 22:23 | 研究のこと | Comments(0)
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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