「人工衛星」と北朝鮮が称するミサイル発射に関して、公開された搭載機器が「張りぼて」ではないかと専門家から声が上がっているという。
その真偽が素人にはさっぱりわからないほどに、衛星やロケットというのは専門的領域に属する。つまり、事態を診断する力が高度に問われ、それができる専門家が求められる。
ここでひるがえって学校教育の専門性、とくに教員が児童・生徒を「正確に」診断するとはどういうことか、と考えてみよう。
その一つ、診断するためには相手をよく見なければならないが、彼らはよく動くので、なかなか固定して捉えることができない。ある瞬間の様子を指して、全体とはとても言えない。また、今日の子どもと数ヶ月後の子どもも違っているのが普通だが、かといって、子どもをレントゲンで見る病巣(失礼!)の推移のように捉えることもできない。
その二つ、子どもを見るときは、教員も子どもから見られているので、「どのように見られているか」を反映して「どのように見せるか」が瞬間的に決められ、行為される。居眠りしている様子を見られていると感じた子どもが居ずまいを正したとすれば、教員が捉えたのは、眠っている子なのか起きている子か。つまり、子どもを正確に見ることは、きわめて難しい。
その三つ、万が一、「こんな子どもになっている」と診断できたとしても、その理由や背景の分析、さらには方略に至るのはまったくの難儀である。子どもの様子は、教員との関係でそうなっているのかもしれないが、友人関係、家庭、地域、何よりも本人の内的世界ゆえかもしれない。「そう思ったから、そうなっている」と言われたら、これを教育-学習関係で何とかしようと考えるのは無茶だろう。つまり、診断を分析と実践に活かすことができない。
つまるところ、学校教育の診断は難しく、またそれを踏まえた手立ても妙案は浮かばないのだ。
だからこそ、発想を反転させよう。客観的に捉えられる、そして「問題」に光を当てて改善・解決できるという考え方から自由になるのだ。そこにこそ、「より良い実践」のヒントがあると思うのだけれど。