九州の地元新聞、70代と80代、いずれも男性の投書を読む。
ひとつは、公衆トイレや電車でのゴミ放置を嘆くもの、もうひとつは、すれ違った中学生の一団が道いっぱいに歩いていたことに「喝」を入れたというものだ。
いずれも、子どもからのしつけが重要と教育論をぶつのだが、どうも思い入れ(思い込み)が強く、「はいはい」とやり過ごすしかない。
何百人と利用するのが公衆の場であり、タバコの吸殻を便器に捨てる「不届き者」はごく一部でも、たくさんの人がしているように見える。飲みかけの缶コーヒーをそのままに去る人もまあ少数だろう。みんながやっていたら、電車は缶コーヒーだらけになってしまう。
中学生を叱ったという話も、話に夢中になっていて気づかなかったと当の中学生が詫びているし、どれほどの問題なのだろうかと思う。コミュニケーション力が豊かでええなあ、って感心してもいいのに。
いずれの投稿主にも、誰しもありうるという寛容さが微塵も見えない。電車の中で大声で電話をする、マナーモードにしていないなどは、たいてい高齢者であろうに。後者の主に至っては、「君たちが交通規則を守らないならば、あの運動場は使わせない。私はここの区長だ」と叫んだというのだから、まったく始末が悪い。こんなことで脅してどないすんの、って感じである。
歳を重ねると、自分の気に食わないことは、しつけの不足や若者ゆえというふうに思考が偏りを増すのだろうか。これではまさに「暴走老人」、このように自己生長したのは、どんな教育の故なのだろうか。