電車が駅に着くたびに、座席から立ち上がって譲るべき乗客を待つ少年たちの様子を見て、ほほえましく感じた30代女性が、これからも思いやりを忘れないでね、と投書。
「思いやりのある子」は、徳育上も望ましいと考えられているが、それはどのような計画-実施-修正という過程から生み出されると理解すればよいのだろうか。思いやりを持てるような場面を設定する? その素晴らしさを語って聞かせる? 映像を見せる? それとも?
また、この行為は主体的なものと見てよいのか。少年たちの間の集団力学の結果ではないか(「みんながそうやっているから」)? あるいは、周りを気にしてやっている訳ではないけれど、どうしてこうやるのかはあまり考えていない(「席を譲ることがとにかく大切」)ということはないか? さらに、これらは評価されることなのか、されないことなのか?
かくして、多くの選択肢の一つとして「思いやりのある子どもの育成」を意図した教育活動がありうるのだから、教育的働きかけとその結果、さらに評価を直接につなごうと考えることが、とても幼い発想であることは明らかだろう。
どうなるかは読み切れないからこそ、教育者は「実践に賭ける」のだろうから、その賭けにできれば勝つべく、子どもたちが多様な経験のできる環境を直接・間接に提供すること、「指導」とは違う点に、いっそう着目してほしいと思う。