大変な作業になるのだろうなあ。一人ひとりの子どもを見て、書いて、考える、ってこと。
新刊案内に、中坪史典『子ども理解のメソドロジー』というタイトルを見つけた。目次だけ見ると、子ども理解の方法として、エピソード記述やエスノグラフィーなどが挙げられており、「見る‐書く‐考える、営みが子どもを見る目を鍛える」とあったので、なるほどと思わされたのだ。
この本は保育者向けのようだが、学校でも「みとる」という言い方で、子どもを捉えることが強調される。その具体は、まさに見て、記録して、反芻することなのかもしれないが、その内実はどのようなことだろうか。
子どもを見る、元気そう、落ち着きがない、反抗的…-教師が依拠する認識上の枠組みはどのようなものだろうか。
子どもを記録する、文字で、映像で、音声で、イラストで…一番多いのは、文字で言葉にすることだろう。そこで教師が持ち合わせるのは、もっぱら形容詞で、印象批評を超えるだろうか。また記録するのは、教師にとって印象的な場面だろうけれど、それは、その子のどの部分なのだろうか。
子どもを考える、どうしてあんなことをしたのだろう、なぜあんな態度をとるのだろう…-教師にとって説明のつきにくいことを、何とか合理化しようとするものではないだろうか。
そして、子どもを見る、記録する、考える教師である自分は、どんな眼差しを子どもに注いでいるのだろうか。教師は街中の電信柱ではない。立っているけれど、そのことをほとんど意識しないような存在ではない。教師の前だからこそ、いい格好をしようとする、つっぱってみる、無視する、迎合する、応援する、と様々な姿を子どもは見せる。
ということは、教師の目に映る子どもは「教師の子ども観」の投影ではないか。これは、どのような子ども理解につながるのだろうか。