NHKの未解決事件ファイル、オウム真理教を追う。
麻原死刑囚の立てた筋書にしたがい、真理に目覚めていないものは、ポア(殺すこと)してあげるほうが幸せという論理で、信者殺人事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件などを引き起こした。
「真の教育改革」「本当に子どものことを考えて」「心から思うのならば」、これらはいずれも真理なるものがあるかのように仮構して、それに沿うことこそ、相手のため、ひいては社会のため、という論理を形成する。
たとえば、「真の教育改革」は、googleで66500件がヒットする。すべてが肯定的ではないだろうが、「真の教育改革は現場の声から」「政治家に真の教育改革はできない」とページが並ぶ。ところが、そんなものはあるのだろうか。私に言わせれば、「真面目にこんな言葉をつかってんのん?」である。
学校教育の世界が幸いなのは、オウムと違って、そのために武装化と物騒なところまで盛り上がらないこと。「教育改革」ができなくても誰も責任を負わないし、そもそも、改革が進まなくても大して誰も困らないから。
「いい」(「良い」とはちょっと違う)教育-学習や、「いい」学校は、それぞれに各々に、しかも偶然に生まれ出るもの。「救世主」を捜して、有り難い言葉を聞けばできることではない。
当事者である自分たちこそが、その世界の住人であり、自分たちでできることしか、なるようにしかならない、と考えるくらいがちょうどよいのではないだろうか。