授業に使えるかなと、昔のテレビ映像を見直している。さっき見ていたのは、1995年のNHK教育番組「原爆をどう教えるか」。アメリカのスミソニアン博物館に、広島に原子爆弾を投下した飛行機、エノラゲイを展示することをめぐり、アメリカの学校でもこの問題を授業で扱う動きが見られることを取材したものだ。
原爆が投下されたから戦争が早く集結した、いや、アメリカは天皇制維持を条件にした日本と交渉せずに戦争を引き延ばした、さらには、戦争を終わらせたのはソビエト連邦の参戦であって原爆ではない、云々。中等学校の生徒たちが、事前に調べて発表したことをもとに、議論を行うシーンがあった。けっこう白熱している。このあと、授業を担当した教員の発言が以下のようだった。
「教養があるとは、ひとつの結論にたどり着くことではなく、いろいろな筋道を通って、さまざまな考え方のできること」。
こんにち、価値観の多様化やグローバル化が叫ばれるのであれば、この見方はいっそうもっともと思われる。これは教育評価だけでなく、学校評価や教員評価にも連なっており、ゴールではなく過程こそが大切という立場だ。
ある収束される達成の追求というよりも、どれほど拡散された、いわば思考と行動の裾野を広げることができたか、これを起点に学校の評価論が形作られるべきと強く感じる。