NHKスペシャルは、コンピュータ革命。日本で誕生した「京」コンピュータが拓く未来を、垣間見せてくれる。
1秒間に1兆の1万倍の計算をするコンピュータ、データを読み込ませれば、それらを計算する速さは従来の比ではないようだ。
過去の幾万のデータから、自分の心臓を画像上に作りだし、病名の判断はもちろん、余命まで知らせてくれる。
そうか、科学は自分たちで観察、測定、観測できるデータから、より整合的な説明を試み、それを応用してまだ起きていない未来を予測できることを目指してきたのだから、その帰結はより精度の高い予想ということになるなあ。
ひるがえって、学校教育の研究。これは一見、過去あるいは外国を含む他地域での学校にまつわる出来事を観察し、解釈、これからを予想しようとしてきたが、そのデータの集め方、整理の仕方は、コンピュータ時代からすれば、「石器時代」に相当するほどであり、少なさ、粗さはいかんともしがたい。
だけれど、その素朴さ、アバウトさに人はなぜか惹かれるのだろう。そんなん、だいたいでええんやって。
学校教育の科学を志向しても、学校種、学校規模、教職員構成、地域性など多岐に及び、平均がほとんど意味を持たない世界なために、束ねることができる数はしれている。ならば発想を逆転しよう。文字化や数値化のできない世界が学校にはたくさんあり、これはデータに加工しがたいし、よって収集、整理もやりにくく、したがって、計画どおりの実施や近未来の推計など、できないに等しいということを。
捉えられない、つまりデータにできない学校教育、よって説明が当時者性を脱しない学校教育、したがって、これからを予想できない学校教育、それが人間の好み、ひいては強みだということ、を確かめよう。