学校で働く教師は、自分の実践の効果を確かめたいと、子どもに感想や意見を求めがちだ。近年は多忙だからと低調なようだが、実践記録が好まれるのも、あるいは板書をたくさんするのも同様、結果を「形」にすることを急く。教育という働きかけがどうなのか、どうだったのかが気になって仕方がないから、発話、発言を好み、その反対の沈黙を嫌がるのである。
ここで考えてほしい。人が話をするということの背景について。知り合ったばかりの人とは、生まれた町のことから、好きな食べ物など、たくさん話すべきことがある。これは、相手がそのことを知らないと前提にされているがゆえである。
これに対して、長い時間をともに過ごし、よくわかっている間柄になれば、話す量はぐっと少なくなる。いつぞやの川柳に、「もう離さない、10年経ったらもう話さない」とあったが、少なくない夫婦にあてはまるかもしれない。新しい興味や関心がなければ、「いまさら何を」と、話す契機を失うのだろう。
つまり、発言の多い授業、あるいは研修というのは、まだ相手がそこのことを知らない、ひょっとしたら自分でもよくわかっていないという、「謎」や「問い」がなければならない。わかりきっていることを話したがる人は少なく、「わからなさ」こそが興味、関心の源のゆえんだ。何年もクラス換えがなく、よくわかっている(少なくとも、そのつもりの)友人関係で、何を議論することがあるというのだろう。
以上から、話し合い活動やコミュニケーションと言われているものは、情報の周知や確認(「今夜、あのテレビ番組やるよね」)と、問いを深めること(「どうして…」)とを区別することが必要だろう。言葉が飛び交うこと自体に意味があるわけではない。それは、問いに気づいたり、他者と交差させるための一つのツールである。
にも関わらず、話すことそのものに価値が置かれがちなこと、教育論によくある手段の目的化が、ここにも見られる。まったく残念なことだ。