家人とよく話になるのは、教師の子どもに対する好き嫌い。
当人いわく。小学校時代に、女の子にいたずらやからかいが過ぎる男子のことを、女性の担任教師にクラスメイトとともに言いつけに行ったが、彼女の「お気に入り」だった彼らが叱られることは何らなく、そのまま放ったらかしにされた。このことを、ウン十年経った今でも覚えており、「小学校の高学年にして、学校の教師って、たいしたことないって思ったわ」と、業界関係者には実に耳が痛い。
入職前の学生への授業などでは、「子どもが好き」というのは教師として大切な指標です、といった教育委員会関係者による話もなくはないのだけれど、ちょっと待って。「好き」というのは「嫌い」なこともあるってこと? それとも、どんな児童生徒でも「好き」かどうかを尋ねているの? それはちょっと無理やろ。どういう意味かな、よくわからない。
割り切ってやれば、働きかける対象が好きかどうかなんて、二の次のこと。そんなことを考えてるヒマがあるなら、ちゃんとしっかり仕事をしろ、って言いたくなることやろうな。そもそも、ほんとに「好き」やったら、「あんた、そんなんでええと思ってんの」って、指導ができなくなる。教育は相手を否定することで成り立つものでもあるんやから。
自らの認知と感情から離れ、使命にしたがい、いわば淡々と仕事をすること、余計な「色気」を出したり、求めたりしないこと。なかなかここまで徹することはできないなあ。「子どもとともに笑い合うクラスづくり」「一緒に泣ける学校生活」なんて夢見る場合も珍しくないのだから。教師の「やりがい」の大半を奪いかねない。大いなる矛盾ではある。
さて、いま渦中にいる、大津市で起きたいじめ自殺事件のクラス担任だった教師。あなたは、ひょっとしたら被害者の男子生徒を「好きではなかった」のではないですか。だから、「いじめ」られる彼を見ても、見ぬふりをしたのではないですか。かくも、感情を表立てながら、学校にいたのではないですか。