わたしと小鳥とすずと
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
金子みすゞ [1903-1929]
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学校でよく引用され、国語の題材にもなる作品。作者の思いとは別に、教育的にどう位置づければよいか、という話として聞いて下さればと思う。
1.違っていることは積極的に捉えられているのか、それとも消極的、没価値的なこととされるのか。
⇒「いい」が、事実認識(「そうある」)としてそうなのか、それとも価値規範(「そうあるべき」)としてなのか?
2.違っているのかそうではないのか、を決めるのは誰か。
⇒「違う」「同じ」の線引きは曖昧だ。それを、教師が恣意的に行っているのではないか?
3.必ずしも同じではない子どもに、同じ時間、同じ内容、同じ方法で教育をするのが一般的な学校で、この作品を扱う意味は何か。
⇒クラスの"君臨者"たる教師が、「違っていいんだよ」と自身の世界観を謳いあげているに過ぎない、とは言い過ぎ?
相変わらずの教師への辛口、ご容赦の程を。