講演や研修、あるいは出張で出かけた先で、切符を買おうとすると窓口で通じないことがある。
そう、彼の地で呼ばれているアクセントと、こちらが発する駅名や地名のそれが違うために、怪訝な顔をされるのだ。これは地名に限らない。たとえば、「雲」と「蜘蛛」、関西と関東では違うとも言われるが、この他、アクセントがちょっと違うだけで聞く側には別物とも伝わるようなことが少なからずあるように思う。
こうした、小さな違和感を気にとめる人がいるとすれば、コミュニケーションと、ままひとくくりされる言葉の束がいかに曖昧に、あるいはおおらかにやりとりされているかがわかる。我々は、おしゃべりを通じて、微妙な違いを確かめ、それに控えめながら反応し、あるいは、楽しむという時間を大いに過ごしているのだ。
こうしたやりとりが学校教育の場、数十人を数える教室の子どもと教師との間で行われているというのに、その捉え方はいかに乱暴なことだろうか。その一方で、十把ひとからげな議論として、教育課程経営や授業での教育方法の問題だという御仁すらいる。それぞれにセンサーを持つのにもかかわらず、どうして同じように受信されると前提にして、教員の「授業力」や「指導力」が足りないなどと言えるのだろうか。
かくも、教育-学習という議論の「目の粗さ」を否定できないのに、これを対象にPDCAサイクルを回すべきとか、学校教育目標の実現に向けて教職員が一致団結すべきとか、どれほど考え、悩んで、発言しているのかまったく疑問である。学校で行われていることを丁寧に観察すれば、そんなことは夢想あるいは暴論に過ぎないことはすぐにわかるだろうに。
にもかかわらず、そうした言説を大学教授や何とか研究官といった名前で続けるのは、ほとんどやけっぱちなのか、投げやりなのか…。繰り返しになるけれど、教育がこうした曖昧模糊な言葉に乗っかっている限り、みんなが同じように「事実」を捉えることなど、できるはずもないのですぞ。くれぐれも、そうした輩に欺されないようにね。