学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

学校教育研究の目的

ゼミで学生に講義する。学校教育について研究するとはどういうことか、と。

自然事象を観察し、データを集め、整理を試みる中で、新しいことに気づくこと、これが発見であり、それにより複数のことがらの関係を恒常的に説明できるならば、やがて法則、さらに真理と言われるものになる。これが狭義の科学の目指すものだ。

これに対して、人間と人間が作る社会の領域では、自然を観察することとは異なる二つの難問が立ちはだかる。その一つは、人間には意志や判断があるので、安定的な事象として捉えるのが難しいこと。つまり、人間と社会には行為や活動という余地が常に残されるから、ある事象を観察しても、それが繰り返し起こるとは限らない。むしろ再現性はほとんど確かめられない一回性の出来事の方が圧倒的に多い。このため、ある時期の、ある地域での、ある人々の間で起こったことを記述することはできても、これを別の時期や地域、人々に対する説明として用いることはできない。よって、ある事例から将来を予測したり、指南することもできない。

もちろん、それは同じと見るか違うと見るかの「虫眼鏡」の精度にも依る。個々の人間の単位では同じとは見なせなくても、ある数以上になれば同じように捉えることができる対象もある。人口動態はその一つであり、将来を予測するほぼ唯一の変数とも言われる。それ以外の変数でも、目の粗いふるいにかけるならば、ある傾向や特徴は見出せるかもしれない。

こうした領域に属する教育や学校教育を研究するとは、決して「~すれば、~なる」ことを発見することではない。それは全く勝ち目のない「負け戦」である。そのことは何十年という授業研究が示しているだろう。授業力の向上に寄与できる発見はほとんどないと言ってよい。

もう一つの難問は、人間や社会を観察しようとする主体が人間なので、どうしてもそのまま観察することはできず、また観察される対象も人間なので、そのままを見せることがないことだ。観察しようとすると、ある認識枠組みを前提にしなければならない。「ありのまま」を見ることはできず、必ず準拠枠を要するからだ。このため、自分の枠組みに収まらない事象は排除され、さいごには存在しなかったこととされる。研究発表授業は「こうした狙いのもとにこんな授業をしている」ことを観察者が知っているので、事後の協議では「狙いの達成された素晴らしい授業でした」という感想になる。それ以外を見なければ、である。これでは正確に事象を観察したとは言えない。また、観察されることに気づくと、人間はどうしても普段とは違う振る舞いをしてしまう。「ええかっこしい」になるのである。かくして、誰が観察しても同じように見えるような状態を想定することじたいが無理と言える。

こうした二つの難問を抱えながらも、私たちは教育や学校教育に希望や意義を寄せるから、教育言説は必ず生まれる。「個に応じた指導が重要である」「可視化された授業が求められる」あるいは「いじめをなくさなければならない」と。これらは「あるべき姿」への説教であって事実の説明ではない。ここに、放談に興じる輩が登場する。教育評論家や少なくない「教育学者」がこれに該当するだろう。

学校教育の領域で研究すべきは、こうした言説がいかに観察される事実とずれているか、違っているかを明らかにすることで、言説を批判することである。「個に応じた指導はどれほど可能なのか」「可視化された授業とはどういうことか」あるいは「いじめとは何か、これをなくす展望はどれほどか」と。こうした問いによって雨後の竹の子のように常に生まれる教育言説を相対化し、教員やその後進がある宗派の「信者」になることを抑止できるかもしれない。これは、学校教育を舞台にした文化闘争(Kulturkampf)である。

以上、学校教育を研究する目的は二つである。一つは、繰り返しの観察(記述、統計、回想などを含め)を通じて、ある傾向を見出すことができれば、それを手がかりに「より良い」公教育実践へのヒントを提供できること、もう一つは、正確に観察できない領域であるがゆえに跋扈する教育言説を批判し、教条的な公教育実践に陥らないように方向づけることである。

この研究目的は、「どうすれば良いか」を直截的に伝えるものではありえない。学校教育研究の意義は、実践(政策的・行政的・経営的な)主体の判断と行為の余地を残した上で、こういう点を踏まえた方が良いだろうと示唆できるかもしれないこと、あるいは、「学校教育はこうなければいけないんだ」とわかったような言説から距離を取らせることで、学校教育関係者それぞれの創発的・創造的な試みを助けられるかもしれないこと、にある。

したがって、これらと反対のこと、すなわち、学校教育を法則的なものかのように語ること(「~すれば~になる」)、そして、当為論(「べき論」)を唱道してそれぞれの偶発的で臨機応変な実践を阻害することは、学校教育の研究を志す者がもっとも避け、憎み、怒るべきことである。(榊原禎宏、2012.12.1記)
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by walk41 | 2012-12-01 10:13 | 研究のこと | Comments(0)
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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