「あることを説明するときに、それを参照すること」、「ある状態の原因が、ある状態自身にあること」などと説明される自己言及(self-reference)、学校教育を理解する際に大きなヒントになる。
「観測者が同時に観測される側に取り込まれ、したがって自分自身にも言及せざるをえないこと」(ハイゼンベルク[Werner Heisenberg,1901-1976] の不確定性原理)は、観察する対象がまったく曖昧な学校教育において、とても重要な観点だ。
「ウチのクラスの生徒は、元気で明るくとても良い子たちだ」と観察するのは、教師自身であり、それは教師の価値観を少なからず投影している。別の教師ならば、「がさつで落ち着かず、悪い子だ」と観察するかもしれない。そこで前者の教師は、「だから、楽しく彼らとやろう」と学級経営方針を立て、そのように振る舞う。これに対して後者の教師は、「だから、強面で厳しくやろう」と方針を決め、同様に振る舞う。この両者が及ぼす生徒たちへの影響は異なることが考えられ、結果、前者では生徒たちと良い関係に、後者では悪い関係になることもありうる。こうして、教師自らの把握をいかにするかが、自身と周りに影響を与えるのである。
「教室のピグマリオン」にも通じるこの特徴は、教師の仕事の自己言及的な性格を示すものだ。だから、客観的に子どもや学級さらには学校を捉えるのは難しいという前提に立って、どのように自分が見ているのか、を振り返る、メタ化することによって、これから起こる未来に影響を及ぼすことが可能になる。
つまり、望む結果に近づくためには、どのような関わりをたとえば生徒と持たなければならないか、そのためには、生徒にどのように思われ、また生徒をどのように見る自分でなければならないか、と論理化することができる。ここから、「良い教育実践」ができるかどうかは、現状を「良い状態」と見ることができる教師かどうかに懸かっている、と導ける。
この観点から、教育実践とは、やったことの結果ではなく、やる前の眼差しのあり方を意味するのである。