私が担当する教職専門科目、この後期は学部2回生が中心の授業だ。
前回、「プログラム化された授業というものがあれば、もはや教師は要らなくなるのでは」と感想があったことを紹介し、PDCAサイクル論と授業との関係をどう捉えればよいのか、「計画的な授業」「可視的な授業」と私たちが抱きがちな授業イメージとの間には、齟齬があるのではないかと問うた。
すると、今回の感想に次のようなものがあった。「中学生のときの先生が、参観日の前に、『明日はこういう質問をして、○○君に当てて、そして君はこういう風に答える』というデモンストレーションをされたことを思い出しました。そんな授業を見て何か意味はあるのか?」と。
ほらね。教師たちは喜んで認めるものではないけれど、「やらせ」があるじゃないの。もし、こんなグロテスクなことが、参観日や「研究」授業の前に、結構な数の教室で行われているとすれば、いったい授業って何をしているんやろね。ましてや、授業「研究」って何のためにあるの? そして、計画-実施-評価を唱道する論者は、こうした「準備周到な」授業をええこっちゃ、って諸手を上げるの? ぜひ聞かせてほしいな。
何回でも言う。授業は予想どおりにならないからいいの。学校や授業者のできることは、あくまでも「だいたい、こんな感じで」の域を出ることはなく、曖昧模糊だからこそ、ロマンがあるのだ。「きっちり」「正確に」が良くて、自分の授業や指導がそうならないことを自分の力量のせいと思うこと、そのためにつまらない「授業もどき」をするなんて、愚を犯してはいけないよ。