「5大学の学生4割、高校必修教科を未履修か」(読売新聞、2012.12.13)を読んだ。
高校生が週に2時間履修すべき「情報」が実際には週に1時間と学習指導要領と異なっていることを明らかにした調査結果だ。
以前には「世界史」の未履修が問題にもなったが、高校で「ちゃんとやっています」印の校長印は意外と軽いものらしい。
学習指導要領とは違う時間割で授業を行い、そして大学合格の結果が「良好」な場合、これは「良い学校」と言ってよいのだろうか。それとも、授業という「入力」段階が高校として不適切なのだから、「出力」のいかんにかかわらず、ダメと言うべきなのだろうか。
このエピソードから考えさせられること。その一つは、かくも学校教育の入り口、途中、出口の関係は曖昧で、何をもって学校の「実力」というべきか、そもそもの定義の段階でつまずくこと。
もう一つは、各学校に任せたカリキュラム運営はいい加減な部分を含むので、教育の結果について公証する段においては、校長ではなく入試あるいは国家試験に類するものを通じて担保すべきではないかということ。つまり、学校ごとの「ドラマ」はそれぞれに生じ、捉えられてよいし、高校卒業といった公的な資格については、各学校を超えたところで扱うべきと、両者の「棲み分け」をはっきりさせるべきこと。進級や卒業が学校長の権限になっているということ、これがもたらす混乱を整理すべきだろう。
さて、学校の自主性や自律性が必要だと叫ぶ論者は、今回の結果をどのように説明するのだろうか。