NHK,朝のニュースでは、大阪市立高校で起きた体罰暴行による生徒の自殺事件を引き続き取り上げる。東京女子体育大学で部活動と体罰の関係を研究されている阿江教授による、体罰の再生産という指摘がとても興味深かった。
曰く、生徒や学生だった自分が体罰を受けてきた経験が、自分が指導者になった時に、同様のことをくり返す可能性が高いというのだ。自分がやられたことを次の世代にもやってしまうという話を聞いて、次の文章を思い出した。
「…叩かれることに由来する身体的な痛みよりも、「親に愛されていないのではないか」という認知にともなう心理的な痛みのほうがはるかに強い衝撃となりえる。こうした「愛情をめぐる葛藤」に対して、体罰肯定観は、いわば「愛の鞭」といった観念のように「愛してくれていたからこそ叩かれた」という解決の図式を提供してくれるのだ。しかし、そのことで、自分のなかの体罰肯定観自体も、よりいっそう強化されてしまう」(西澤哲『子ども虐待』講談社現代新書、2010年)。
自分がやられたことが「いけないこと」だったのなら、自分の立つ瀬がない、だから「よかった」ことなのだ。あるいは、自分はそうして成長したのだから、次の世代にくり返しても構わない。こうして体罰という名前の暴力が再生産される。こんな思考回路を想定するなら、どうやってこの循環を断ち切ることができるだろうか。
自分の身体に馴染んでいる発想、行動の癖に気づき、敢えてそれとは違う考えや動き方をしてみること。アランはこう述べている。「…精神を解きほぐすことが必要なのだ。私は衛生の規則として、次のことを提唱したい。「同一の考えを決して二度と持つな。」」(「精神の衛生」1909年)
「これまでの経験によれば」とか「これが正しいんだ」とは反対に位置する思考と行動を目指すこと、これによりいくらかでも健康的な社会生活を送ることができる、と考えてみてはどうだろう。