引き続き、大阪市立高校での体罰暴行による生徒の自殺事件について。
渦中にいる部活動顧問の教員が、公益通報窓口に体罰の告発があった2011年以前から部員をたたいていたと認めていることがわかった。 11年の調査には体罰を否定しており、「たたくことが体罰とは認識していなかった」と説明したという(2013.1.11 読売新聞)。
-----------
恐れ入った。数十発ということもあったという平手打ちを体罰ではないとするなんて。
この教員は、「部員がいい方向に向かうので、体罰とは認識していなかった」と釈明したとも同紙では伝えられている。なるほど、「結果オーライ」、何をしたかは結果から出てくるということね。じゃあ、いい方向に向かわなかったら、体罰になるのかしらん。いいやそうではないのだ。
この論理は、中世に行われた魔女裁判を想起させる。
ある女が「魔女だ」と捕らえられる。女が「私は魔女ではない」と言っても、「魔女だろう、さっさと白状しろ」と拷問される。それでも「魔女ではない」と女は答えつづける。拷問は熾烈を極めていく。そして、最後まで拷問に耐えた女に下された判決は、「ここまで耐えられるのは、魔女に他ならない」というものだ。
ある生徒の気合いが足りないとターゲットにされる。気合いが入るように平手打ちをする、でも変わらない、もっとたくさん手を上げる。それでも気合いが入ったようには見えない。最後まで暴力を振るった教師は生徒に言い放つ。「ここまで気合いを入れても変わらんのは、よっぽど気合いが足らんのやな」。
自分のやっていることが「正しい」「良いこと」と信じるのは危険である。正しいことをしているのに事態が変わらないのは相手が悪いからと考えてしまうから。
こんな点での教員の「学力」の状態はいかに。生徒の「学力低下」の心配をしている場合だろうか。