少し前のブログで「教室はまちがうところだ」という詩に意見をしたが、すでに当時、消極的な学校像が垣間見えていたのかな、とも感じさせられる。
というのは、型という言葉との関連でも述べたように、「こうあるべき」と積極的な命題ではなく、「そうでなくてもかまわない」という消極的な命題にならざるをえない特徴を、学校が持つと捉えれば合点がいくように思われるからだ。
大昔、研究会で一緒だった元知り合いが、テレビ番組、金八先生の変遷を指して、初期は中学生が出産することに「生めよ」といった金八が、後期には自殺しようとする生徒に「死ぬなよ」と言うことに見られるように、学校の勢いの衰えを指摘したことが思い出された。鋭い観察だったと思う。
「こうでなければならない」と積極的に打って出ることのできない学校が、訓練や練習へと子ども達を駆り立てることは難しい。これとは反対の方向、「みんな違ってみんないい」(金子みすゞ)になりやすいことはよくわかる。だから、真似をするとも解せる「学び」がなぜか意味を反転させ、それぞれで良いと捉えられる余地を広げるのだろう。
新春の新聞記事で読んだ。二枚羽根の扇風機で家電業界にそれこそ旋風を起こした、池辺裕昭さんが語っている。小学校6年生の時、父親が自宅の机の前に張ってくれた紙には次のように書いてあったという。
「苦しみつつ、なお働け、安住を求めるな、この世は巡礼である」。作家、山本周五郎の座右の銘だったという。
こうした枠づけるメッセージのもとでこそ、人は努力したり、耐えることができるのだろう。その命題は公理のごとく、はじめは説明なしに無前提に与えられる。それは「掟」として現れるのだ。「自ら考えて」導くものでは決してない。