雨後の竹の子のように出てくる、部活動における「体罰」問題。
レスリング五輪メダリストの伊調千春選手らが育った京都府立網野高のレスリング部で、男性顧問(41)が指導中に部員に体罰を加えた疑いがあるとして、学校側が顧問に指導を自粛するよう命じていたことがわかった。(中略)
昨年11月中旬に学校側が「顧問が部員に体罰を加えている」との情報を得て調査を開始。今年1月に入って複数のレスリング部員や同部と同じ体育館で練習している体操部員らから「平手打ちをしたのを見た」などの目撃証言を得たことから、今月25日に指導自粛を命じた。(中略)レスリング部には監督と男女の顧問がおり、現在は残る2人で指導中。男性顧問は保健体育の授業は続けているという。(2013年1月31日 読売新聞)
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先日の拙ブログで「4点セット」と言ったことが、当たっているかもしれない。鬼の首を取ったように言うけれど、今回も、①男性、②40代のベテラン、③保健体育科教諭、までは該当する、あとは、④生徒指導部長かどうかだ。
自分が「体罰」を受けてきた経験を正当化(「だって教育愛があるから」)するために手が出る、という解釈をするならば、この問題は、前の世代、さらにその前の世代に遡ることになる。わかったような言い方をすれば、これは人間に対する操作主義、人を変えることが出来るという近代的発想に属するものである。
明治以降、自然(しぜん)と呼ばれることになったけれど、それまでの自然(じねん)という言葉を手がかりにすれば、おのずから、あるがままにという意味合いが強く、他からあれこれ働きかけてという発想は乏しかったように思われる。人間を変えることに対する樂天主義、だからこそ、変えられない時には暴力的にもなっても構わないという考え方は、この100年少しのことではないだろうか。
「言うことを聞かせるためには、手を挙げてよい」って言い始めた人たちは、もう鬼籍に入っているから、たずねる訳にはいかないけれど。どうだったのかな、その始まりは。