過日、日本の学校にお連れしたドイツの教育大学の教授たちから聴いた。
彼の国では、保護者が授業を見ると言うことはまずないだろうと言う。なるほど、そうかもしれない。
でもこれって、誰か研究テーマにしないだろうか。なぜなら、かたや授業を見る機会があるけれど、PTAは学校の後援会という日本と、授業を見る機会はないけれど、学校に対して親権者(教育権者)である保護者との軋轢を覚悟しなければならないドイツとの比較ができそうだから。
もう一つ、技術的なことも加えていいだろう。教室の出入りに際して、まず引き戸が一般的で、1つの教室に2カ所が普通の日本の学校に対して、ドイツの学校は、だいたいが扉は1カ所、しかも外の音がほとんど聞こえないほどのがっしりとした開き戸の教室である。
後者の場合に、たとえば、「お兄ちゃんの様子をちょっと見てから、妹の方を見て」といったような授業参観ができないのは明らかだろう。だって、授業がはじまったら、なかなか抜け出すチャンスがない教室の格好をしているもの。ちょっと授業を見て、次の教室へ、というのは、ある意味ですぐれて「日本的」なのだ。ずいぶんと前だが、日本の中学校をあるドイツ人の教授にご案内した際、教室の引き戸が開いているう様子を指して、「生徒たちは(教室の外の騒がしさに)勉強ができないのではないか」と尋ねられたことを思い出す。
こうした物理的な条件が先にあって、人々の行動が決められるのか。それとも人々の観念が物理的な条件を設定するのか。おそらくは両方相まってと思うけれど、授業参観の歴史や外国と比べた特質について、誰かちゃんと調べてほしいなと思う。