多様な教員を求めるということで、大学を出てから違う業界で働いた人や、ある分野で専門性の高い人を採用する、いわゆる特別枠が設けられている府県がある。
こうした枠で採用されることになった人たちへの教職の授業を担当した。20代のみならず40代の人もおり、各々の経験とそこで培われた物の見方から、学ぶ点も多かった。
授業の合間に雑談をしていたら、ある人がこんな話をしてくれた。「企業だったら、これまでのキャリアを比較考量して、まず給料、そして諸手当や、さらには赴任の際の費用などについての説明を一番にしてくれるけれど、学校教員への採用って、そういうことがまず説明されないんですね。まったくわからないままに、赴任の準備をしてるんですけれど。これって、言い方はあれですけれど、教員をなめきっていますよね」と。
なるほど。教員として働くのは、飯のタネのためではなく、「子どもを育てる」という尊い仕事、聖職なのだから、給料がどうこうというのは卑しいことだもんね。だから、この年度末の、退職金引き下げに伴う「駆け込み退職」に不快感を示す知事も出てくるはずだ。
教員は公僕であり、皆に仕える身だから、処遇を問題にするなんて論外なの。
こんなふうに「お上目線」でいてもいいけれど、問題は、それでもなお教職に就きたいと思う人がそれなりに居続けてくれるかどうか。ましてや、それなりに優秀な人において。
注文は多い、給料は下がる、文句は言われる、でも教職に、という訴求力を今どれほど、そしてこれからいかほど持ち続けることができるだろうか。教職の威厳、社会的地位も考慮した教職論を、中央政府はじめとした関係機関や「研究者」は示しえているだろうか。「やっぱり、先生はすごい」となりえなければ、学校に行く人が徐々に減っていくこと、疑いなしである。そうなると商売上がったりだろう。それとも、「すごさ」が伴わなくても、学校に「来させる」ことはなお可能と踏んでいるのだろうか。