年に3回、他大学の研究仲間と会い、担当になった人の報告を受け、議論をする。いつもと同じように、とても充実した半日を過ごせた。
報告を聴きながら、いろいろなテーマに派生することを感じる。たとえば、教員のことばについて。
言語という括りから、方言、あるいは自分のことばへと次第に具体化される。日本語を話しているからといって、それは関西弁かもしれないし、「マイ言葉」かもしれない。こうした文化的・社会的な階層性を帯びて、教室において教員の言葉が発せられることになる。
教育方法の議論では、「魅力ある授業を」といったテーマが設定できる。そこで口火を切り、授業を進めるのは教員である。だから、彼ら/彼女らがどんな言葉を、いかなるアクセントや抑揚で用いているのか、あるいは、書き言葉はどうか、が確かめられなければならない。そこでは、中教審答申も、学習指導要領も、教科書も、学校経営方針もまったく微力である。児童・生徒に向き合う最前線にあっては、そうした「公式用語」は多分に無力化され、メディアである教員を通じて、相当に幅あるものとして再生されるのだ。
だから、教室で教員がどんな言葉をどのように遣っているのか、それを逐一追いかけられないならば、言葉に対してどんな語感やニュアンスを感じるのか、を問うことからこの不思議に迫れないかと思う。
良くも悪くも教室は、「教育の現実」に一番近いところであり、そこに至らなければ見極められないという点で、最終の意思決定がなされる場である。そこに去来する教員の辞書、発現される言葉、そしてそれを巡ってなされるやりとり、そうした思惟、規範、そしてダイナミクスに着眼する必要性を感じている。