学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

いじめは「正義」?

小2担任、いじめ誘うような発言で勤務外される【平山亜理】
東京都調布市立小学校の50代の女性教諭が昨年、担任していた2年生の学級で、複数の児童へのいじめを誘発するような言動をしたとして、同校の勤務を外されていたことが分かった。体調を崩した児童もいたという。
保護者や市教委によると、この教諭は、給食の時間に特定の児童に「1人前もらうのやめてくれる? ○○さんの、少なくしてくれる? いつも迷惑だから。ねえみんな? 迷惑だよね」とクラス全員に同意を求めていた。この児童には「○○さん、髪の毛、触らないでくれる? 気持ち悪いから」とも発言した。
 別の児童には「動物じゃないんだから、言葉で質問されたら言葉で返そうよ。反応が遅いのはだめだよ。人間やめて下さいと一緒だよ」と発言していた。この児童がよそ見をした際には、クラス全員に対して謝らせたうえで「いいよと思っている人、いい加減にいやだな、と思っている人」と全員に手を挙げさせたという。
 昨秋、子どもが登校を渋るのを不審に思った保護者が児童にボイスレコーダーを持たせて授業の様子を録音し、発覚した。市教委は今年1月、この教諭から事情を聴き、「暴言など子どもの人権にかかわる不適切な指導があった」として都教委に報告。同校勤務から外して研修させた。懲戒処分には当たらないとの都教委の判断を受け、担任は持たせない条件で3月末に同校に復帰させたが、保護者が反発。学校は教諭を再び学校勤務から外すことを決めた。
 市教委は「場面によっては、いじめを誘発するような発言もあった。厳正に対処する必要があると考えた」としている。この教諭が担任を務めていた児童の保護者の一人は「先生が先頭になって、いじめをしていた。人間として許せない」と話す。児童は昨年4月ごろから、家で急に泣き出すなど情緒不安定になったという。
学校長は「(教諭の)言動は許されない。子どもが混乱しないよう学校として精いっぱい対応したい」と話す。 (朝日新聞、20130418、一部改変)
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教員が「いじめ」とも捉えられる言動を繰り返していたとの報道だが、こうした集団力学を利用した学級経営の場面は、決して珍しくないと思う。

「クラスのまとまり」や「みんな仲良く」を追求するならば、その構成員に同調を求めることはほとんど不可避だろう。それぞれが自発的に同調してくれれば学級担任としては、願ったり叶ったりだが、それはそれでまた気持ちの悪いことではある。

そもそも学級は、いわば学区地域と学校の都合で編成されており、「この指、止まれ」と呼びかけられる契機を欠くために、児童・生徒のメンバーシップが乏しいのが一般的だ。教員が音頭をとって、「クラスみんなの意思」を体現しようとすることは自然な成り行きかもしれない。

その長と自認する立場にあって、必ずしも構成員が「一丸」となっていないとき、少し悪意も込められた同調を誘う、強いる言動をとるのは、教員と生徒の間に限らない。学校管理職と教員の間でも起こる。

最近では、さいたま市桜区の市立中学校の男性校長(55)が宴席に遅刻した教諭2人に腹をたて、腹部を殴る暴力を振るっていたことが判明、市教育委員会によると同校は、市内の居酒屋で教職員の歓迎会を開催。既に酒を飲んでいた校長は、校務のため30分~1時間遅刻した20代の男性教諭2人に腹をたて、別室で2人の腹を殴った。2人にけがはなかったという(埼玉新聞、20130412による)。生徒の間でも生徒会活動や部活動などで、似たようなシーンを想定できるだろう。

過度に一致団結や足並みを揃えようとすると、こうした暴力的な性格が露出しがちだが、これを抑止しようとすると、組織としていかがかという面も現れる。つまるところ、「適度な」ということだが、それは優れて関係論的なので、決まった度合いを示すことができない。「縛られて嬉しい」こともそれが「鬱陶しい」ことも、いずれも私たちそれぞれにあるから。

だから、「いじめを撲滅すべき」といった「犯人」に仕立ててお終いではなく、誰もがそのチャンスや危険性を持っていることをまず踏まえること、この作業なくしては、「いじめ」問題の軽減を望むべくもないと思う。
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by walk41 | 2013-04-19 09:07 | 学校教育のあれこれ | Comments(9)
Commented by 式部 at 2013-04-19 17:56 x
「いじめ」に関しては個人見解なのですがいじめる当事者は現在の自分がおかれた環境が自分にとって幸せではない状況(家庭環境やコンプレックス等)に対するジレンマを他人を攻撃することで自分の精神を保とうとしているのではないかと考えています。家庭環境などの場合は周りからは見えますがコンプレックスの場合は他人が理解することは難しいものだと思います。そう考えるといじめを根本からなくすことなどは不可能だと思っています。
Commented by walk41 at 2013-04-19 23:02
式部さま、コメントをありがとうございます。ご指摘の「いじめる」側の分析もさることながら、「いじめられる」側がおかれる位置についても検討が必要でしょう。正義の発露とすらなりうるような、スケープゴートとも言いうるような立場が生まれることをどう考えればよいのか。

つまるところ、いずれであれ他者を意識することなく過ごすことが難しいのが、人間の特徴ゆえかもしれませんね。だから、おっしゃるように根本からなくすことは難しくとも、あまりに著しいことが起こらないためにはどうすればよいか、を考えたいと思うのです。
Commented by 式部 at 2013-04-21 01:07 x
返信ありがとうございました。日本人は基本的には農耕民族です。稲作することで食料を得て生きていけるのです。1年分の食料を得るには田植え稲刈りなどは人の協力なしには成し得ない仕事です、そうなると自分が生きていくためには人の協力を得なければ生きていけない、他人も然り、助け合いでしか生きていけないのです。そこに協調性のないものが入ってきた場合には村八分=生きていけないということになります。日本人にとっては協調性こそ生きるための力なのだと思います。多少からかわれる事は誰にでもあること、何よりその協調性について考えたこともない人はいじめ(加害者、被害者ともに)から脱却することはできないのかもしれないと思っています。ADHD,・アスベルガー・LDについての認識を深めることもいじめを減らすことにつながるかもしれません。
Commented by walk41 at 2013-04-21 07:53
再度のコメントをありがとうございます。強調性と言ってもよいと思いますが、同調を求める傾向があまりに強いと、おっしゃる発達障害に関わる人々は馴染みにくくなり、排除される、つまりいじめられることもあるのでしょうね。

くわえて不思議なのは、インターネットなどを通じて、いつでもどこでもだれとでも、つながることのできる環境が生まれているのに、あるつながりに拘ってしまい、同調と排除を繰り返す人間のあり方です。いまや第三次産業で生きる人々が、およそ7割。農耕ほか第一次産業に従事する人は、およそ5%に過ぎないにもかかわらず、出会った先で似たようなことをしがちな人間というものを、とても興味深く思います。
Commented by Koji at 2013-05-22 13:33 x
いじめ、、、、昔は誰もが加害者・被害者の両サイドを経験していたのではないでしょうか。やられてもカラッとしていた。程度にもよるが、やられて泣いて家に帰ると、「それでも男か!」と逆に怒られるから、親には言わず、自力解決を図る。それが教師からの叱責の時の体罰であったとしたら、「怒られるような子とするな」とまた親に怒られるのである。
だから、学校で怒られたことなど、バレない限り言わない。
そうしたいじめられたり、いじめたりして両サイドの気持ちを理解し、怒られたことは、自分の問題点として以後の言動に注意して生きてきた。
決していじめも体罰も美化するつもりは毛頭ないが、では、社会に出て当たり前に存在する「いじめ」や「厳重注意、叱責、パワハラ」を乗り越えるスキルはいつ習得すべきなのか。
私は、私を育ててくれた時代に感謝している。

Commented by walk41 at 2013-05-22 16:46
Kojiさま、コメントをありがとうございます。
この問題の是非とは別に、子どもの生活があまりに見られすぎるようになっているとは言えるように思います。隠れていたり、隠していたり、子どもの世界が大人にそれとは別に確固として存在していたことが、今との大きな違いかもしれませんね。このことが、いじめなどの語られ方を変えていること、つまり、大人が操作すべき対象として「問題行動」が注目されるようになっている、と捉えられるように思います。
Commented by Koji at 2013-06-10 12:48 x
たしかに『大人が操作すべき対象として「問題行動」』が、ますますその領域を広げていますね。
危険予測・危険回避、「自分の命は自分で守る」意識を高める、とか言いながら、一方では、施設所有者や管理者ばかりがメディアでたたかれ、誤った使い方をした人は、全くとがめられずにあぐらをかき、被害者意識むき出し。
これも、昔と変わってきましたね。
Commented by walk41 at 2013-06-10 13:45
Kojiさん、コメントをありがとうございます。マネジメントという言葉の隆盛のせいかどうかはわかりませんが、意図や意思をもってすれば、予定通りできるはず、できないのは、どこかに問題があるはず、という、ある意味で傲慢な発想が強まっているとは思います。

アメリカ辺りから始まったのでしたか、商品を想定外に利用して事故が起こらないように、但し書きが爆発的に増えた(という話を思い出すと、危機管理を要請することは、個々の人間の能力を低めることにも繋がるだろう、とは言えるように思います。
Commented by Koji at 2013-07-24 14:07 x
That's right!
家庭の教育力の低下を嘆き、その回復を教育改革の中で唱えているものの、一向に家庭に判断させ、責任を持たせるという具体策は出てきません。
結局変わらず、放課後の地域での喧嘩も、ゲームソフトの貸し借りの末の紛失も、自転車の乗り方が良くないという苦情とかも、全て学校が請け負ってしまっている。
これからも、こういう傾向は強くなるのではないかと思っています。
子どもの世界への介入もそうですが、家庭の領域への介入が当然になっている現実も深く関連しているのではないでしょうか。
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