所変われば、ものごとの位置づけも変わるなあと感じたエピソードに接した。
奄美大島で出会った女性は、学校職員。教員ではない目から学校と教員を見ている。
この地では、教員が赴任すると、その引っ越しの手伝いを地元の人々がするのだという。これに引き続き歓迎会も行われるらしい。それほどまでに、「学校の先生」への期待は高いのだけれど、本土の鹿児島県ほどの教員は期待できないとの思いも見える。少なくない教員は離島への「へき地」赴任だから、地元からはこうして来てくれるだけでありがたい、との歴史的経緯も影響しているのだろうけれど。
かやた、街中では「モンスターペアレント」などとも揶揄されたり、それ自体が「教育問題」になってもいるが、学校内外の環境が変われば、かくも眼差しは大きく違うし、奄美の例など、勢い教員が尊大になることすらあるかもしれない。もちろん、それはそれで問題なのだが。
こんな小さなエピソードに触れると思う。「問題」というのは、すぐれて関係的に構成されるのであって、絶対的なものとして想定することはほぼ間違いだろうということ、したがって、「教育問題」や「学校問題」も、論者は自分の見ている世界からでしか発信できず、主張すればするほどに、その相対的感覚を持ち得ていないことを露呈しているのだろうということだ。
だから、保護者からの理不尽な苦情に苦しんでいる方、思い切って新天地で教職を志すのも一案かも知れない。えっ、今の生活があるって? それはそうだろうけれど、自分のものの見え方を変えるには、自分が変わることが大切、相手が変わることを待ってはいられないからね。「先生歓迎」の校区に移ったら、きっと世界観が変わることでしょう。