民放、情熱大陸、は予備校講師、林修さんを取り上げる。
ほとんど喋っている人なので、そのごく一部なのだが、印象に残ったのは、現代文の添削をしながら、受験上で学力の高い生徒の字は汚いと語る点、二番手は字がととのってくるとも言うけれど。
小学校あたりでは、「丁寧なノート」を書かせることに血道を上げる場合も見られるけれど、学習効果上の方略としては、望み薄かもしれない。にもかかわらず、その効果を確かめたいということであれば、丁寧なノートとそうでないノートのいずれが高学力か、を確かめる試みはあってよいだろう。ただし、決して、みんなに丁寧なノートを作らせるようなことはしないでね。何が効いたかがわからなくなるから。
また、仮にノートの丁寧な子どもと高学力の相関が明らかになったとしても、だから丁寧なノート指導をとは即、考えないでね。高学力が先にあって、その結果、丁寧なノートになっているのかもしれないのだから。もし、この因果関係ならば、いくらノートを丁寧にと教員が励んでも仕方ない。「高学力だったら、ノートは丁寧だろう」であって、「丁寧なノートならば、高学力になるだろう」ではないのだから。
こうした認識上の手続きを欠いたままに、丁寧なのは良い、話し合うことは良い、と教員の既存の価値観が揺るがされることのない話をいくら繰り返しても、結果は従前と同じである。だって、そういうことはこれまでなされてきたし、その結果として今があるのだから。だから、そのままでは、これからやることもさして変わらないだろう。
違うことをやってみて、結果を確かめるというのが、新しい実験や実践だ。つまり、研究に臨むなら、今までの自分をいかに批判できるかが同時に問われる。はたして、教員にその覚悟はあるだろうか。