学校・教職員の現在と近未来-榊原禎宏のブログ

「いい子」再論

現職教員の方だろうKojiさんからコメントをもらい、そういう見方もあるなあと思った。

その趣旨は、「いい子」として周りの空気を過剰なほどに読んで、「自分らしさ」を抑制し、気がつけば自分に自信がないという、どこかで聞くような評論に対して、自分の周りには、自己中心的というべきか、空気を読まない子どもが多く、そんなに周りを気にする子どもがいるのですか、と問うものだった。

この受け止めの違いは、次の二点を示唆するように思う。その一つは、注目する子どもによって、子どもの見え方はけっこう異なるなあということ、「空気を読む」子どもに着目すれば、そんな子が多いようにも見えるが、たとえば「学級崩壊」など「もっと空気を読んでほしい」と思うような子どもに注目するならば(注目せざるを得ないならば)、我が儘に過ぎるのでは、もっと周りに合わせてと、「今どきの子ども」は見えるということ。

だから、片や「学級崩壊」(空気を読まない状態)を問題と言い、もう一方で「空気を読む子ども」を問題をあげつらうような教育評論家は、趣旨がバラバラで、場当たり的なことを繰り返しているのである(だから評論家であって、けっして大学人ではない)。

もう一つは、問題の設定は、自分に疑問や不満があって「自分探し」を試みる中で始めて可能だということ。たとえば、過度に空気を読んできた元子どもは、大学生あたりになって、その反動と言うべきか、これまでの過剰適応を問題に感じはじめ、もっと「自由に」「自分らしく」と思考上の傾向を強める。こうした問いは、過剰はもとより、不十分にしか適応しなかった元子どもにとって、あまり意味を持たないだろう。

心理学者は心に何か引っかかるものを抱え、教育学者は自分の受けてきた教育に不満や疑問を持つ、という業界会話に従うならば、心理上、教育上の主張をする背景には、かつての自分を否定することで浄化、「生まれ変わり」を期待しているのかもしれない。

だとすれば、幼い頃には多少の負荷(ストレス)をかけて、青年期を迎えたら、それを批判させるという反面教師的な側面もつもりする必要があるのかも。適時性という言葉を借りれば、時期によって重点を置くべき内容に違いがあるから、小学校・中学校の頃は、守・破・離の最初の段階にあると考えて、のちにやってくる反発と批判の種を蒔いておくというアイディアはどうだろうか。
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by walk41 | 2013-06-11 12:31 | 学校教育のあれこれ | Comments(0)
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教育学の一分野、学校とその経営について考えます。
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