平田オリザ『わかりあえないことからーコミュニケーション力とは何か』(講談社、2012)を読んでいる。コミュニケーション力のあるなしは、どんな問題なのか、話せばコミュニケーションなのか、会話と対話との違い、冗長であることなど、これまで読んだものと重なりを見せながらも、おもしろい。
過日のある会議でも、小学校の教員たちが見つけた児童の「問題」が報告されていた。発言が乏しい、のだそうである。私も一度だけ訪れた学校だが、全校児童が130人ほど、各学年単級の、しかもクラスあたり20人あまりの小さな学校である。子どもたちも幼い頃からよく知り合っている仲だろうし、そばにいれば雰囲気を感じることもあるだろう。
そんな場で、授業中の発表回数を増やすとか、お話タイムを設けるとか、あいさつ大賞を渡すといった取り組みを進めていると聞いたので、思わず「話さなくてもわかっている(つもりの)子どもたちの行動が合理的なものとも考えるべきでは」と発言したところ、指導主事の一人が「教師がそうさせたいだけなんでしょうね」と返したのが印象的だった。
このところ、私の書きぶりは教員批判をいっそう強めているけれど、それは期待と希望の現れ、と捉えて欲しい。コミュニケーションとはどういうことだろうかと悩むことなく、子どもが何か話せば、また続けて話せば、「つながることば」なんて露骨なロマン主義に酔ったままの観察眼で、どんないい仕事ができるというのだろう。さっぱりわからない。黙ってるのも、立派なコミュニケーションやん。
教育実践を良くするなど、自分が変わることに他ならない。にもかかわらず、子どもに〜させる、保護者にちゃんとやったかチェックしてもらう、といった他人任せの様を、いったい、いつまで続けるつもりだろう。教員のみなさんからの反論をぜひ伺いたい。忙しいなどと言っていないで。