女性の教育を受ける権利を主張したゆえに、イスラム教武装勢力に頭を撃たれたパキスタンのマララさんが、国連で演説、「唯一の解決方法は教育」と話したという。
16歳の少女は、文字の読み書きができず、それが出来る男性に対して自分たちが劣るのは当然とも思いがちな、狭い世界に閉じこめられている女性に教育機会を、と訴えている。
翻って、現在の日本のほとんどの地域では、文盲率はもはや問題でなくなり、男女間の差も見いだしがたい。むしろ、女性の「学力」が高いのではとさえ、言われるほどだ。
教育という言葉が輝きをもって語られる局面や段階、それに対して、教育が普遍化し、それが食傷、辟易、忌避されかねない局面、それぞれがある。時代、地域などによって、同じ言葉でもさまざまな彩りを見せるのだなあと思わされる。
従来の教育というイメージが音を立てて崩れている学校の現実、その音が聞こえるほどだという教員もいる、そんな世界もあれば、その真反対の世界にいる人も存在する。
もともと、何が教育なのかが見えるはずもない、というスタートに立ちもどり、それぞれの状況を見極める力、それが「学力」というものなのだろうな。万物は流転するということをわかっているのだから。
みなさんの身近な教育とは、いったいどんな色や形をしているのでしょう。それを交わす中で、「そういうこともあるよね」と確かめられれば、それは大きな意味があると言うべきではないでしょうか。教育に関わる人間が心しなければならないジレンマ、「正しい、と思った瞬間に、その答えはどこかに逃げてしまう。だから、初めから、正しいものを探すことは考えものだ」(自作)ということを踏まえなければならないのでは。