マクロな公教育経営の観点から、言語の問題を取り上げた授業後の感想を読む。
「フランス万歳」と黒板にアメル先生が板書して終わる「最後の授業」(ドーデ)が、1980年代後半から日本の教科書から消えたこと、アルザス地方にはアルザス語があり、フランスによる併合によってフランス語が強いられたことなどを扱った授業だった。
「思い浮かんだのが、戦後の黒塗り、墨塗り教科書のことだった」「高校の時に行ったコリアンタウンのことを久しぶりに思い出しました。日系韓国人の方が多く住んでいて、話を聴かせてもらうという貴重な体験をしました。名前を変えさせられたり日本で働かされたと聴きました」といった、日本の戦争に引きつけた感想が多く、「国を支配することはきっかけが武力であってもそれが全てではない。その国の文化を支配することができなければ… 文化を統制するためには、その国民に自国の文化を教育しなければならない。だから、教育が戦争で担う役割は大きい」とまとめた感想もあった。1990年代生まれの学生たちだが、それぞれに理解し、受け止めていることを思わされる。
その中に、シャープだなと感じたものがあった。「敵性語、とは何ともバカげていると思った。ワシントンを華府に直したというが、そこで使われている漢字は、いま戦争をしている中国のものである。国風文化のもとに作られた平仮名も、もとは漢字である。全ての敵性語を排除したら、日本は文字を失ってしまうのではないか。」
なかなか良い着眼だと思われませんか。文字なくしては新聞もワープロもケータイもなし。生活が成り立たない。「敵を撃滅する」なんて威勢よく言っても、天に唾するごとく自分に返ってくることを知っていること、それが「国際人」の素養かもしれない。