教育委員会関係の会議に出席した。
議事の中で、ある校長が自校の今年度の基本方針を話されたのだが、その中に、「子どもが校門をくぐったら、子どもの体内時計に合った時間が流れるようにしたいと思っている」旨の発言をなさったことが、なかなか印象的だった。
確かに、勤務時間として学校で過ごす教職員と、学校生活というようにまさしく生活時間として過ごす子ども-とくに小学生にとっては-大きな違いがあるかと思う。なにしろ、曜日と時間にしたがって、学校は「こなしていく」ことを至上命題にするのに対して、子どもはよくわからないままに学校での時間を過ごすのがおおよそだからだ、
勤務時間として過ごす大人は、計画-実施-評価と考えがちだが、児童生徒にとっては、仕事として臨んでいる訳ではない。そこを教職員とくに教員は「だらだらしている」とか「けじめが足りない」と「子どもの課題」を挙げたがるけれど、そもそもの構えが違っているのだから、初めからないものねだりだということに、どうして気づかないのだろう。
大人にとっての勤務時間以外と言えば、職場を去ってからあるいは土日などのプライベートな時間だろう。そこで、「なぜこのことをするのか」「予定どおり進んでいるのか」「どのように評価するのか」と尋ねられようものなら、困惑さらには不満が出てくるのも、まったく当たり前ではないだろうか。なんでそんなこと言われなあかんねん、ってね。
学校における時間、これは時間割の設計の問題ほか、流れる時間の受け止めについても議論できるかと思う。学校生活というならば、緊張と弛緩、厳しさと楽しさ、目的追求型とそうではないもの、と、児童生徒にとっては、少なくとも両者が混在していること、を了解する必要がある、と思わされたのだ。