ある市では「学びの共同体」を推進しており、教室の机はコ型、話してくれた指導主事の子どもが通う中学校では私語が止まず、学級崩壊状態なのだという。PTAの会議では、「あの机の配置が元凶なのは明らかですから、止めて下さい」と保護者が訴えるも、学校は「市の方針ですから」「あと少し研究を」と回答、「1年生、2年生、そして今の3年生とやってきて、もう十分でしょう」と反論があったのだとか。
こんなことすら各学校で決められない「学校の自律性」論の虚しさもさることながら、より問題なのは「学び」という優れて個人的な体験に大きく拠ることについて、机の配置などやり方を決めて示すなど、両者が相反することになぜ教員は気づかないのだろう、ということだ。なんとか大学の先生の理論ですからと、属人主義に陥り、中身を吟味できないでいる。何ということだろう。
「こうすればいい」「こんな風にやれば上手くいく」という発想が、教職としての専門性を危うくしていること(教育活動のファストフード化)に気づかないほどに、教員の学力が低下しているのだろうか。まったくもって憂うべきことではないだろうか。