この8月、2回目のゼミを開いた。その夕方、学生と一緒に参加してくれた、小学校教員になった卒ゼミ生と一緒に飲む。
何かの続きで、「道徳」など教育で扱う価値についての話になったとき、彼女がこう言った。「直前に似たような出来事があると、扱うのは難しいですね」と。嘘をついたことでケンカが起こったようなクラスで「正直であること」を取り上げるとか、大切に飼っていた小動物を喪った間もなく「命の大切さ」を考えるといったことかな、と話を接いだのだが、なるほど、これは言えるように思う。
教育の材料になるには、児童生徒の経験や見方を下敷きにしながらも、ある程度の距離を取ることができるものでなければならないのだろう。当事者がいまは直面したくないような内容を扱うのは辛いし、そもそも考えることすらままならない。無理をして取り上げても、きっと詮無いことだろう。
数年前、ある中学校での校内研修にうかがったさい、社会科の教員が「子どもたちの身に迫る、リアルな授業をめざしたい」と発言したことに対して、「そんなこと、できますか」と食って掛かったことを思い出した。リアルなものが良い、それは扱うことができると素朴に思っているようなら、すいぶんとお気楽な授業をする教員なのだなあ、と今でも思う。
さらに、ある教材がある児童生徒にとってどんな風に現れるかは、教員はもちろん当人にとってすら直前までわからないということ。学校内外で起こるあれこれを予想できないことは無論、それらが各々にいかに受け止められるかも、本人ですらわかるはずもない。学習とはこうした土台の上に、新しいものを載せたり、塗り替えたりするものだから、どのような学習になるかは誰にもわからず、ましてや事前のつもりもできない。
にもかかわらず、計画どおりに実施して、しかも教員とは違う主体である生徒が学ぶようにさせる、あるいは、当人の声を聞くことなく、子どもが「学んでいる」などとしたり顔で述べるなど、なんと愚かなことだろうか。