他大学で、校内研究と授業研究に関する集中講義を担当したが、その3日目、現職教員でもある受講生が、次のような趣旨を呟いた。
「ずっと考えていたのですが、先生の仰る、新しい校内研究の提案というのは、ちょうど、アルコール依存の人たちが立ち直るべく、集まってそれぞれに話をするシーンに近いのかなと。いろいろな話が語られる中、自分なりに聴けば参考になることがある、という感じで捉えればいいのですね。」
上手いこというなあ。その通りと取ってもらっていいのではないだろうか。授業の背景、発想、やり方、結果(らしきもの)には、いろんなケースがある。だから、「~すれば、~になる」という文法はふさわしくないし、「こんなことも、あんなこともある」と、思考の収束ではなく拡散を通じてこそ、意味ある場となる。
問題は、「現場はライブだ」と主張する一方で、「やり方を知りたい」とも述べる、教員の不整合な思考である。こんな矛盾する話はないのだ。両立しないのだから、いずれに重きを置くかを選ばなければならない。だからこそ、大学における机上の授業を通じて、ともすればまったく混線しているのに、そう思っていない世界のありようを説明し、解きほぐすことが大切になる。
この作業が誰にでもできるわけではないという点に、大学教員の存在意義がある。したがって、これとは反対の方向、自分の経験やちょっと囓った「学説」をもとに、「理論を実践に応用する」と述べるなど、およそ大学教員と無縁と言うべきだろう。