休日、市の施設を利用していたら、その場には似つかわしくない背広姿の男性がそこらの人に話しかけている。
初めは知り合いなのかなと思っていたが、そうではないようで、私のところにもやってきた。
私が「誰やねんこの人は」オーラを発しているのに、それに気づいてか気づかずか、「いつぐらいから利用してはりますか」「使いやすいですか」と尋ねてくるこの人の胸元に目をやるとバッチが見える。と思ったら、「市議会の○○って言います。何かあったら連絡して下さい」って、名刺を差し出した。先に言わんかい。
誰なのか、つまり自分にとってどんな他者かを推し量ることができずに、対話することはとても難しい。これを言い換えれば、相手が自分にとってどんな意味を持つのかをわかって初めて、人はコミュニケーションできるとも言える。
この点、学校教員もナイーブというか傲慢だったりするから(大学人もそうかもしれん)、話しかけたら答えてくれると思っている節がある。そんなことないなあ、何で言わなあかんねん、どこまでどんな風に言うべきやねん、それは相手と自分との関係に掛かっている。それが決まらんのに、コミュニケーションが成り立つはずはない。だから、児童・生徒のコミュニケーション能力を高めるのが目標やったら、関係を持ちたくなるような大人かどうかがまず問われる。「コミュニケーション能力の低下」なんて嘆いてんと、子どもにとって魅力的な大人やろか自分たちは、ってなんで考えへんのかな。
自分が何者かを言わずして、相手から言葉を引き出そうとする慢心。あんたには一票入れへんで。ええい、名を名乗れ。