教育実習中の学生の授業を見に出かける。
授業らしきことをするのがほとんど初めてなので、彼らの発声や板書、全体への目配りや発問など拙いところは一杯だが、緊張を隠しつつ懸命にやっている様子に感じるところがあった。
そんな授業を見ていて、今更ながら気づかされる。教員が説明をしたり、話しかけていても、それを真正面から受け止めている児童はさして多くないのではと。とくに、「話し合い活動」の時間など、たとえ教員の発問を聞いていても、それに噛み合わない話をしたり、今日など暑い教室で思わず「暑いなあ」、4時間目あたり「お腹減ったなあ」と呟いたのをクラスメイトが応えてお喋り、などの場面も少なからず見られたから。
そりゃそうやわなあ。必ずしも自分にピンとこーへんことに「話し合ってください」って言われても、何を言えっていうんや。それにまあまあ真面目に話してても、ちょっとふざけたり脱線することもあるで。およそ仕事で臨んではる先生とは、発想から行動まで子どもと違いすぎるもん。緊張感が全然ちがう。
じゃあ、子どもも教員と同じくらいの緊張感を持てるような発問をって? そんなん無理やって。そんな緊張してたら、「自分らしい言葉」とか「伸びやかな感性」とか発揮されへんもん。身体をカチカチにして、ええこと思い浮かぶか?
子どもが教えられる、ではなく、子どもが学ぶ、という思想で行くんやったら、相当に子どもに任せなあかんことは自明。教員はそうした環境の一つくらいに考えてちょうどええんやと思う。だから、上手く転がろうがそうでなかろうが、「自分のせい」とか「自分のおかげ」とかちっとも思う必要あらへん。「まあ、ちょっとは関係したかも」くらいが妥当な線や。せやから、教員だけでどうにかできるみたいに遣われる指導力とか授業力とかいう言葉、ほとんど絵空事やって、私は言うてんねんけど。