秋の雰囲気を醸す、松茸風ご飯のコンビニおにぎりを買った。食べながら思う。この商品ができあがるまでに、結構な数の試食をしはったんやろうなあ、と。
業界では当然のことだろうが、商品として世に送り出すには、材料、料理、包装や運搬、廃棄に至るまでのプロセスを吟味して、「これで行ける」と判断が下さなければならない。「この材料は安全か」「この味でこの値段は妥当か」と、安全や衛生、価格や競争なども勘案して新しい商品を開発しなけれならないことだろう。
翻って、学校教育として提供される授業や「指導」はどのような商品だろうか。事前に授業をやってみて、「この授業ならば、出せる」という会話が飛び交うはずもなく、教員を児童・生徒に見立てて、それらしいことをやってみても、およそ現実味はない。また、学校によっては、あした授業をする子どもたちを対象に同じ授業を事前にやってみるという「準備」をする場合もあると聞く。これって、限られたモニターに試食してもらうべきものを、顧客に商品として出すみたいなもんやで。なんて恐ろしいこっちゃ。
だから、試食や試供を踏まえた商品に似せて学校教育を捉えることは、端からできず、出たとこ勝負のアバウトな、まあ実に大らかな出来事という点から、授業や指導といった議論をしなければならないことは明らかだ。にもかかわらず、商品としての完成度を問うような「質保証」論(学校評価、教員評価、「学力テスト」といった)や、安定的に供給されるかのような前提に立つ「授業研究」が大手を振っているのは、いったいどうしたことだろう。
これまでにも、いろいろな言い方をしているけれど、教育-学習という出来事は、客観性、安定性(持続性)を担保しえない。この特性を踏まえた学校教育のあり方を構想し、試みてみること、それが可能な教職員とくに教員でありえるような働き方について、政策・行政や経営あるいは教育実践のそれぞれで確かめてみること、それが一番の学校改善や改革になると、私は考えるのだ。