「言う者は水に流し 聞く者は石に刻む」 http://mainichi.jp/feature/news/20130921ddm013070007000c.html を読んだ。
この間のドイツでの旅行にて、私としては、その受け止めの印象が一面的に過ぎ、もう少し多面的に見ては、と感じることが往々にあったある人の様子について、帰国後、家人に話をしたら、「外国で楽しかった印象をそのように伝えたかったのでは」と返ってきたことに、ちょっと驚かされた。
確かにそうかも知れない。もう25年以上も前、自分が初めてドイツを訪れた際、あるいはその後じっくりと彼の地に住んだ際、何もかもが珍しくて写真をあちこち撮り回り、訪れた各地の絵はがきを買い回り、過度の一般化をして「ドイツではね…」と語ったものだから。
そうしたことは分かった上で、「旅案内人」を務めてきたつもりだけれど、どうしても明に暗に同行人に辛口になったかと思う。何故もっと積極的に発言しないのだろう、質問をぶつけないのだろう。あるいは、珍しさに負けず、幅広く観察してくれないのだろう、批判的に見てくれないのだろう、と。
こうして考えると、物事を認識する際には、自分のありようが問われると同時に、その様子を批評する自分のものの見方も大きなカギを握っていることに気づける。相手に敬意を表せず、まあそんなものだろうと見る時の自分と、なるほどそうなのですかおもしろいですね。、と見る時の自分では、相手に与える印象も雲泥の違いがあるだろうし、ひいては、ある事象の評価をも左右するだろう。
学校では、授業批評や、授業検討会といった言葉があふれているけれど、自分がどのように捉えるかと同時に、その捉え方をいかに受け止めるかという点が問われる点で、かくも困難かということを踏まえた議論が組み立てられる必要を感じる。話せば分かるとか、伝えれば分かってもらえるという訳ではおよそないのだろう、という点を前提にした上で、どのような議論ができるのだろうかと。