複数の小学校における校内研究の取り組みについて話を聴く。
片方の学校は、子どもたちが賑やかに過ぎるので、どのように静かにさせるかが「教育課題」だと捉える。そのために、無言清掃をしたり、教員からの指示を非言語で行う、つまり指さしや合図などで指示が通るように取り組んでいるという。
もう片方の学校は、子どもたちがおとなしすぎるので、どのように活発にさせるかが「教育課題」だと見なす。そのために、子どもの発言を引き出すべく、授業をより活動的なものにしたり、あいさつ名人を表彰したりといった取り組みをしているのだという。
第三者的に見れば、学校の規模、地域的特徴などから、こんな雰囲気のようなことは決まるだろうから、そもそも教育の課題にすべきかどうかも疑問なしとしない。
また、ではどの辺りに落ち着けば「望ましい」状態なのだろうかと問うならば、中庸、ほどほどということになり、かくも教育しようとする側は「無い物ねだり」をするものだ、と見ることもできる。「今のままではいけない」というのが教育的眼差し、という説明を裏付けるものだろう。
いずれにしても、「これが問題だ」というのは、すぐれて教員側の主観による、とは言えそうだ。測定をすることもなく、実証データもなく、まあ、何となくそんな感じでは、と誰かがいえば、そうそう、と話がまとまるというくらいのこと。「そんなん、ほとんど思いつきやん」と意見するのは、学校教育ではタブーなのだろうか。
中学校や高校と違って、小学校のゴールははっきりしないというのも一つの背景だけれど、児童の見立てとその分析の大らかさ、緩さ、いい加減さは、いかんともし難いのだろうか。