いま始めつつある研究なので、内容はまだ秘密だけれど(^^;)、ドイツの文献をあれこれ読んでいる。
その中で、異質性Heterogenitaet という概念が学校教育の論点の一つとなっており、それが理念的なものに留まらず、物的・空間的な条件との関わりでも述べられている点を、とても興味深く思う。
たとえば、ある説明に拠れば、異質性は次のように述べられている。「多様であるのは現実である。多様性に対する価値判断は、様々な人からなる社会で、人々が共生する上の基礎となる。その際、とりわけ個々の強みが理解され、評価され、経験されるべきである。そこには、障碍を持った人や移民の背景を持つ人々も、もちろん含まれる。」
こうした価値を実現する上で、大切になることの一つは、ある程度の学校規模であるべきという指摘だ。これには、はっとさせられた。ところが言われてみれば、多様性や異質性を担保するには、児童生徒やその保護者あるいは地域住民ほか、学校の関係者がそれなりに必要であり、数が限られていては、違いもあるいはその交流も確かめようがない、という観点は今更ながら、重要と思わされる。
しかるに、日本でも少子化が進む中で、学校規模や学級規模が縮小し、学校統廃合も各地で取りざたされている昨今、学校規模の適正化という議論はあるが、「多様であるためには、然るべき規模が不可欠」といった指摘はあるだろうか。私見の限り、まったく心許ない。「小規模校でめお地域に根ざした良い学校だ」あるいは、「人数がある程度いなければ、集団での活動が成り立たない」といった認識の水準のように思われる。さらに問題は、どのような人間の関わり方なのかだけれど、私の歪みゆえだろうか、日本のお喋りはもっぱら「集団」という言葉に回収されているのではないだろうか。
ドイツの教育論に対しては、まま理念的な側面への着目が強いが、あわせて物的な条件への注目もなされていることを見逃してはいけないだろう。具体的にしてかつ抽象的な思考は、ドイツからも学べるかもしれない、と感じさせられる。