学校教育の議論をしていると、つくづく思う。学校教育って、忙しいとか大変とかといったお喋りが絶えないけれど、その結果、何ができたかって言えば、何も明確なものはない。形として捉えられるもの、物がない。敢えていえば、思い出だろうか。それすら、それぞれの受け止めに委ねられるから、同じものにはならないし、そもそも狙って作れるものでもない。
だから、こうも言える。生きる力やなんとか力を児童生徒に育成したいとあれこれ取り組んでも、どのようにすればそうなるのかはわからず、設計図と完成図を描いたり、そのためのプログラムを用意することもできないので、そんな風に考えなければいけない、という発想じたいがなくなる。このために生じるのが、言いたい放題、放談である。
「〜の子どもの育成」って謳っても、じゃあ、どんな資源がどれだけ必要なのか、それらは上手く組み合わせられるのか、衝突したり不具合は起こらないのか、どれだけのサイズやコストを見込むのか、何にもわからない、わからないことだらけである。
教育や学習がこうした特徴を持つことを認めるならば、成果物があるかのような目標管理やPDCAサイクルの議論がこの領域に当てはまらないことは明らかだろう。いや、そんなことはない、と仰る方はぜひ考えていただきたい。形のない、物のていをなしていない、形状も重さも変化の速度も何も捉えられない教育や学習の「成果」をどのように設計したり、計画するというのだろうかと。
そして、PDCAサイクルの必要性などと最前線のスタッフに説教をし、そうならない様を彼らの努力や力量の不足と判じることの責任についても考えてほしい。
私もかつてそのような発言をしたことがある。その反省を込めて機会あるごとに話をさせてもらう。教育学を含む社会科学は、説教ではなく説明にこそ存立の意義があり、色々な説明が可能なゆえに、それぞれがどんな論理を構成しているかを分析し、つなぎ直してみる、つまり、脱構築と再構成の作業に秀でることが大切。そのためのトレーニングにお互い励みましょう、と。