教育学という看板で仕事をしてきたが、仕事以外で学ぶ身に自分を置くと、気づかされることがいくつもある。その一つが、教える立場を取るというのであれば、自分が制する空間で学ぶ立場の人間と向かい合うのが合理的、ということだ。
学びにそちらに行く、そこでは教える立場の人が待っている-この格好が取れてこそ、教育-学習という関係が成り立つ。相手のフィールドに身を置く落ち着かなさ、不安や怯えすらもありうる、弱者にならざるを得ない。これで初めて教えてもらう格好になる。教えを請うという表現は、これに適うものではないだろうか。
にもかかわらず、多くの場合は、先に児童・生徒がいるところに(文字通りの、ホームルームにである)教員が訪れる形を取る。これでは教員はお客さんであって、その空間を制することはできない。ホームルームで寛いでいる彼らに優位な立場に立つことは難しい。もっとも、教えるというスタンスを取らない関係もありうることは無論だ。
ずっと昔から違和感を感じていたこと。こんなホームルームにいる彼らに、日直あたりの掛け声で「起立、礼」をさせるという学校の不思議な儀式が、かくも緊張感の欠片もない、だらだらとなることの理由が垣間見えるだろう。立ち上がったり、礼をしたりというのは、寛げない緊張を要するところでこその所作である。だから、そうした振る舞いを求めるのであれば、これにふさわしく空間を設計しなければならない。なのに、ホームルームでそんなことをさせるという、ちぐはぐである。
人間の行動に叶うものとして学校が設計されていないということ、これが児童・生徒や教職員という当事者の、不適応や不満足あるいは不快感につながっていると捉えるのは、現実的な説明だろうか。